有名な魏志倭人伝にある邪馬台国への行き方の解釈に関わって、二つの本を読んでみた。一方は「古代国家はいつ成立したか」、著者は阪大名誉教授の考古学者・都出比呂志。今一方は、同じ岩波新書の「出雲と大和」、この副題も同じような「古代国家の原像をたずねて」。こちらの著者は、国際日本文化研究センター名誉教授とある村井康彦。日本古代・中世史専攻とあったから、歴史学者なのだろう。
以下に見るのは、有名な「南水行二十日」以降の下りの解釈である。なお、前著は二〇一一年、後著は二〇一三年にそれぞれ第一刷発行だから、両者が扱いうる歴史資料の差はほとんど無いと見て良い。
さて、後著の解釈はまるで物語だ。実証が都出の文章に比べればあまりにも少なくて、大小の推論、断言で進んでいると言っても良い。『「南行」を『「東」に改めるべきであろう』と語るのは辛うじてよいと観ても、以下のように進められる物語り調は、推論が断定になっているとしか僕には読めなかった。
「東行」が瀬戸内海を行ったとするもう一方の説は海が荒くて採用できず、『(日本海は)東流する対馬海流があり、それに乗れば容易に東へと移動することができる』から、投馬国は「出雲辺り」とされて、出雲以降、邪馬台国が奈良県になっていく説明は、こんな調子になっている。
『「水行十日」は丹後辺りと考えるが、その根拠は久美浜湾がこの上ない良港の条件を備えていたからである。ここで上陸し、陸路をとること(記載にはないがここからは「南」である)一か月にして到達したのが、邪馬台国であったという道程が考えられるであろう。たどり着いた邪馬台国はヤマトの国=大和国(奈良県)である』
瀬戸内海航路東行ルートは「論理」、推論で無視され、良港という理由によって「水行十日」地点は丹後になり、「陸行一月」が「という道程が考えられるであろう」ということから、最後は「である」という強い断定で結んでいる。
どうだろう、この本が一般向けに書かれた点を割り引いても、あまりにも粗すぎると言えないか。歴史的に大々的議論を呼んできた魏志倭人伝の問題の箇所を処理してこんな文章を書くというのは、果たして歴史学と言えるのだろうか。実証的説明がなければ、僕には歴史学とは思えないのである。
他方この部分を、前著はどう扱っているか。極めて控えめな書き方なのである。
『投馬国の位置については二つの解釈が可能です。瀬戸内航路を取れば、投馬国は岡山県付近、日本海航路を取れば島根県付近となります。また、邪馬台国と戦ったという(と魏志倭人伝に書いてある──文科系注)狗奴国は、その東の東海地域の勢力になるわけですから、実際の地理にうまく当てはまります。
また「魏志倭人伝」のなかに、邪馬台国の位置について「その道里を計ってみると、ちょうど会稽(かいけい)の東治(とうや)の東にあたる」という記述があります。会稽の東治というのは今の中国福建省にあたりますから、そこから東方をさせば、沖縄諸島に行き着くことになります。
このように邪馬台国の所在地についての記述自身が矛盾を含み、後世の人を惑わす罪つくりのタネとなったのですが……』
これを読むと、魏志倭人伝そのものについてこんな解釈さえ湧いて来るだろう。「魏志倭人伝」の著者(に資料を提供した人々)自身が邪馬台国を実際より遙かに南だと錯覚していた、とも。この可能性さえあるとして、都出はこんな証拠資料を上げている。
『一五世紀の明の時代から保存されている「混一疆理歴代国都之図(こんいつきようりれきだいこくとのず)」という地図が中国にあります。これは一五世紀の朝鮮で作成されたものですが、この地図では、日本列島は九州を北に青森県を南に描き、実際の列島と九〇度程度のずれがあります。しかも位置そのものが実際よりもかなり南に描かれています。このような地理観が古代から長く中国や朝鮮半島にあったことを室賀信夫氏は指摘しました』
こんなわけでさて、僕には都出の文章の方が遙かに馴染みやすくて、親しみを覚えるのである。実証できていない余分な断定を避けているからだ。もっと言うと都出は、まだ実証できないことへの推定は少なく、断定していることには必ず実証材料を上げている。そして、文章そのものを総体として、膨大な証拠資料ばかりで展開していると感じた。歴史学というのも、やはりそういうものと言いたいのだが、どうだろうか。なのに村井の論述は、推論ばかりが目立っているから、「……と考えられる」という長い「お話」ばかりが続く印象なのである。これでは、素人に対してさえ、大和説だけではなく文献史学そのものの信憑性をさえいったんは揺るがせることになるのではないか。
以下に見るのは、有名な「南水行二十日」以降の下りの解釈である。なお、前著は二〇一一年、後著は二〇一三年にそれぞれ第一刷発行だから、両者が扱いうる歴史資料の差はほとんど無いと見て良い。
さて、後著の解釈はまるで物語だ。実証が都出の文章に比べればあまりにも少なくて、大小の推論、断言で進んでいると言っても良い。『「南行」を『「東」に改めるべきであろう』と語るのは辛うじてよいと観ても、以下のように進められる物語り調は、推論が断定になっているとしか僕には読めなかった。
「東行」が瀬戸内海を行ったとするもう一方の説は海が荒くて採用できず、『(日本海は)東流する対馬海流があり、それに乗れば容易に東へと移動することができる』から、投馬国は「出雲辺り」とされて、出雲以降、邪馬台国が奈良県になっていく説明は、こんな調子になっている。
『「水行十日」は丹後辺りと考えるが、その根拠は久美浜湾がこの上ない良港の条件を備えていたからである。ここで上陸し、陸路をとること(記載にはないがここからは「南」である)一か月にして到達したのが、邪馬台国であったという道程が考えられるであろう。たどり着いた邪馬台国はヤマトの国=大和国(奈良県)である』
瀬戸内海航路東行ルートは「論理」、推論で無視され、良港という理由によって「水行十日」地点は丹後になり、「陸行一月」が「という道程が考えられるであろう」ということから、最後は「である」という強い断定で結んでいる。
どうだろう、この本が一般向けに書かれた点を割り引いても、あまりにも粗すぎると言えないか。歴史的に大々的議論を呼んできた魏志倭人伝の問題の箇所を処理してこんな文章を書くというのは、果たして歴史学と言えるのだろうか。実証的説明がなければ、僕には歴史学とは思えないのである。
他方この部分を、前著はどう扱っているか。極めて控えめな書き方なのである。
『投馬国の位置については二つの解釈が可能です。瀬戸内航路を取れば、投馬国は岡山県付近、日本海航路を取れば島根県付近となります。また、邪馬台国と戦ったという(と魏志倭人伝に書いてある──文科系注)狗奴国は、その東の東海地域の勢力になるわけですから、実際の地理にうまく当てはまります。
また「魏志倭人伝」のなかに、邪馬台国の位置について「その道里を計ってみると、ちょうど会稽(かいけい)の東治(とうや)の東にあたる」という記述があります。会稽の東治というのは今の中国福建省にあたりますから、そこから東方をさせば、沖縄諸島に行き着くことになります。
このように邪馬台国の所在地についての記述自身が矛盾を含み、後世の人を惑わす罪つくりのタネとなったのですが……』
これを読むと、魏志倭人伝そのものについてこんな解釈さえ湧いて来るだろう。「魏志倭人伝」の著者(に資料を提供した人々)自身が邪馬台国を実際より遙かに南だと錯覚していた、とも。この可能性さえあるとして、都出はこんな証拠資料を上げている。
『一五世紀の明の時代から保存されている「混一疆理歴代国都之図(こんいつきようりれきだいこくとのず)」という地図が中国にあります。これは一五世紀の朝鮮で作成されたものですが、この地図では、日本列島は九州を北に青森県を南に描き、実際の列島と九〇度程度のずれがあります。しかも位置そのものが実際よりもかなり南に描かれています。このような地理観が古代から長く中国や朝鮮半島にあったことを室賀信夫氏は指摘しました』
こんなわけでさて、僕には都出の文章の方が遙かに馴染みやすくて、親しみを覚えるのである。実証できていない余分な断定を避けているからだ。もっと言うと都出は、まだ実証できないことへの推定は少なく、断定していることには必ず実証材料を上げている。そして、文章そのものを総体として、膨大な証拠資料ばかりで展開していると感じた。歴史学というのも、やはりそういうものと言いたいのだが、どうだろうか。なのに村井の論述は、推論ばかりが目立っているから、「……と考えられる」という長い「お話」ばかりが続く印象なのである。これでは、素人に対してさえ、大和説だけではなく文献史学そのものの信憑性をさえいったんは揺るがせることになるのではないか。