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小説 俺のスポーツ賛歌(1)   文科系

2024年03月07日 11時08分03秒 | 文芸作品
 長らくお休みで済みませんでした。今日から、2日連続で、19年に書いた中編小説を転載させて頂きます。よろしくお願いします。20年近く続いたこのブログをまだまだ続けたいから。


 照明を最小限にしたそのレストランは急上昇中の名古屋駅前地域でも指折りの店と分かった。テーブル一つずつが回りから隔てられた作りで、〈近辺の重役室から抜け出した財界人辺りが商売の探りを入れる会食などに格好の場所だな〉、それとなく見回していた。駅前ツインビルの一角に、六歳違いでまだ現役の弟が久し振りに二人で飲むために予約を入れた店なのである。東京から月一の本社重役会に彼が来名した秋の夕暮れのことだ。
 水を運んできたウェイターに彼が語りかける声が響いた。「このビルの社長さんは、僕の同僚だった友達でしてねー」。〈「せいぜいサービスしなよ」と告げる必要もあるまいに、いつもスノッブ過ぎて嫌な奴だな〉。こんなふうに、彼と会うと俺の神経が逆なでされることが多いのである。でも、その日の彼において最高のスノッブは次の言葉に尽きる。俺の過去について思わずというか何というか、こんなことを漏らしたのだった。
「兄さん、なんで哲学科なんかに行ったの?」
 そう尋ねた彼の表情が何か皮肉っぽくって、鼻で笑っているように感じたのは、気のせいなんかではない。そう感じたから黙っていたらこんな質問まで続くのである。「兄さんは元々グルメだし、良い酒も好きだし、生き方が矛盾してないか?」。まともにこれに応えたらケンカになると感じたので、こう答えた。「お前には分からんさ。世のため人のためという人間が、グルメじゃいかんということもないだろうし」

 さて、その帰りに弟の言葉を反芻していた。年収二千万を越えたとかが十年も前の話、東海地方有数の会社の重役に理工系から上り詰めている彼から見ると、俺の人生に意味はないのかも知れぬ。「人生、こういう生き方しかないのだよ」と決めつける押しつけがましさはさらに強まっているようだし。高校の文化祭などは全部欠席して家で勉強していて、俺の目が点にさせられた覚えがあったなー。そこでふっと、こんなことも連想した。「オバマのは、税を納めぬ貧乏人のための政治。私は納税者のための政治を行う」、前々回の米大統領選挙での共和党候補者ロムニーの演説の一部だ。つまり、金のない人々を主権者とさえ見ないに近い発想なのである。弟はこれと同じ人生観を持って、こう語っていたのかも知れない。「兄さんは別の道にも行けたのに、何でそんな馬鹿な選択をしたのか?」と。そこには「今は後悔してるんだろ?」というニュアンスさえ含まれていただろう。

 秋の夜道を辿りながらほどなく俺は、自分の三十歳ごろの或る体験を振り返っていた。大学院の一年から非常勤講師をしていた高校で、「劣等生」に対する眼差しが大転換したときのことだ。二十代はほぼ無意識なのだが、こんな風に感じていたようだ。こんな初歩的ことも理解できないって、「どうしようもない」奴らがこんなにも多いもんか! 彼らがどういう人生を送ってもそれは自業自得、本人たちにその気がないんじゃ仕方ない。この感じ方がその頃、コペルニクス的転回を遂げたのである。〈彼らとて好きでこうあるわけではないし、現にみんな一生懸命生きてるじゃないか〉。その時同時に、家族とは既に全く違っていると思った俺の人生観も、一種我が家の周到な教育方針の結果満載であると、遅ればせながら改めて気づいたのである。勿論、その良い面も含めて。そして、弟よりもむしろ俺の方が、我が両親の良い面を受け継いでいるのだろうとも、少し後になって分かった。彼らは、旧制中学校、女学校で能力のある貧乏な生徒を良く面倒みて、俺が成人になってからもずっと世話していたという例さえ、いくつか覚えている。この両親ともが、愛知県の片田舎、貧乏子沢山の家から東京へ、当時の日本に男女二つずつ計四つしかなかった高等師範学校へと上り詰めた人だった。父の方はさらにその上の大学院のような所も卒業している。母と結婚してから、その母が勤めた旧制女学校の稼ぎによってのことだった。こうして二人はつまり、明治政府が築き上げた立身出世主義人材育成・登用制度を大正デモクラシーの時代に国内で最も有効に活用できた「優秀な庶民」だ。だからこそ、同じような境遇の教え子を可愛がったということだろう。仏壇、長幼の序など古い家のしきたりのようなものはほとんどなかったが、「人生の幸せ=高学歴」および「人は皆平等に大切」と、そんな人間観、人生観と、それに基づく子育て力が非常に強い家ができあがっていたようだ。

 この時またふっと、弟のこんな言葉も甦ってきた。
「私の仕事は初め新幹線の進歩、やがてはリニア新幹線を日本に生み出すという夢に、各年齢では常にその最高責任者として関わってきたんだよね!」
 この誇り高い言葉はまー、あの皮肉っぽい笑みからすれば俺に対してはこんな意味なのだろう。「だけど、兄さんの仕事人生は、一体何が残ったの?」。確かに、最初の仕事を二十数年で辞めたのだから、そう言われるのも無理はない。それも、貧乏な民間福祉団体で休日も夜も暇なく働いた末の、精神疲労性の二度の病のためだったのだし。そこでさらに気づいたこと、これに似た病に、お前も罹ったじゃないか? それも若い頃の入院も含めて一度ならず今も……お互い頑張っちゃう家系だもんなー。

 いろんな言葉や思い出を辿りつつここまで来て、俺の思考はさらに深く進んでいく。弟は何でこんな挑戦的な言葉を久々に会った俺に敢えて投げたのだ? 今も病気が出かけて終わりが近づいている自分の仕事人生と、何よりもこれが終わったその先とを自分に納得させる道を懸命に探している真っ最中だからじゃないか。この推察は、妥当なものと思われた。すると、ある場面がふっと浮かんできた。
〈小学校低学年からアイツは電車が好きだった。我が家に近い母さんの職場・市立高等学校の用務員さんの部屋で母さんを待って一緒に帰る途中にある中央線の踏み切り。あそこでよく電車を見てたと母さんが言ってたよなー。彼は少年時代からの夢を、日本最高度の形で実現させたんだ……〉


さて、ここまでは、今から約一〇年ほど前のこと。この弟、というよりも兄弟妹と俺の四人が育った家族から俺だけが「変わった歩み」を始めたと、今になって初めて分かった時というものを振り返ってみよう。その始まりの出来事こそそもそも、「俺のスポーツ」なのである。
 四人兄弟のなかで、兄も弟も高校の時いったん入ったクラブを間もなく止めさせられている。確かそれぞれボート部と卓球部のはずだ。こんなに時間を取るのでは学業に障りがあるからということだった。妹は卓球部をずっと許されたが、女だからということだろう。これも何か両親らしい。両親と言ってもこの場合、主導したのは父だ。母は消極的に父に賛成した。庇ってくれたこともあったから、そう感じた。確かめたわけではないが、まず間違いないだろう。
 高校に入学してバレーボール部に入ったが、すぐに、「辞めろ!」と命令した父との喧嘩が始まった。父の手が出たことも一度や二度ではないといった、修羅場が初めは連日のように続いた。そんな時の母は、俺と父との周辺をただおろおろ、うろうろしていた。こうして結局、二、三年にはキャプテンになるなど、俺はバレーボールを三年間守り通したのである。
「事前にこの程度に身体を動かしておくと、こんなに楽にプレーができる」
「個人練習なども含めてどれだけ激しく動いても、最後に軽く一キロほど走ると、疲れがこれほど取れるものとは。翌日の身体も全く普通になっている!」
 こんな初歩的な知恵も、誰に教えてもらうということもなくふとした自分の試みから発見したもの。これらの知恵が当時の俺にとって価値が高いという意味でどれだけ新鮮なものだったことか。そして、クラブ活動の後自転車で家路についた時、あの汗と夕陽! 今さらにこれらが好きになっている原点であった。この時に培ったスポーツ好きや足どり軽い身体への愛着とともに。

兄弟でただ一人一浪の後、文学部に入った大学でも、一年の夏にはバレーボールクラブのレギュラーになった。浪人時代も母校のマラソン大会に出て全学二位になったほどに基礎体力を維持した上で、大学の入学式前から春休み中のクラブ合宿に飛び入り参加をして入学式も欠席という意気込みで始めたクラブなのである。そのレギュラー初陣がまた忘れられないもの。夏休みに静岡大学で行われた中部地方国立大学大会で優勝したのだった。その年、愛知の大学バレーボール・リーグ一部中位に属していた結構強いチームだった。県大会常連のような学業成績優秀校のエースなどが集まるこの大学のレギュラー獲得は当時の俺にとって大きな誇りにもなったし、同時に家からの『自立』のさらに大きな一歩を踏み出すものになった。俺の高校クラブが地区大会一回戦勝ち抜けもできない弱さだったから、この誇りはことさらに大きかった。
 ところが、このクラブを一年の秋には辞めてしまった。当時の俺の意識としては、二つの原因で辞めた。一つは、哲学科の大学院へ行きたくなったこと。今ひとつは、体育会系の人間には、友達にしたい人がいないと見抜いた積もりになっていたことである。当時の俺はどう言うか、人生を求めていた。自分の家に規定された貝殻が小さいとしか感じられないようになった宿借りが、次の大きな殻を求めて歩き始めるように。そして、その大きな要求に、スポーツやスポーツ仲間が助けになるとは思えなかったのである。当時の奇妙な表現だけれど、感情や行動におけるほどにスポーツを大切なものとは、頭の中では捉えていなかったということだ。すごく好きだったし、行動上の熱中度も周囲の他の誰にも負けていないという自信さえ発散していたはずだが、当時の意識ではそれを俺にとって数少ない「面白いこと」の一つと捉えていたに過ぎなかった。

 哲学科の大学院に入ったころ、二人の主任教授のうちの一人がその時の授業テーマの説明としてこんなスポーツ論を語ってくれたことがあった。
「西欧と日本とでは、スポーツについての考え方は全く違います。ロダンの『考える人』。あの筋骨隆々たる姿は、なにも立派な軍人が、あるいは陸上十種競技の名選手が、たまたま何かを考えているという姿ではないのです。そもそも人間が何かを深く感じ、考えるということそのものが、あーいうたくましい筋骨を一点に集中してこそ成されていくという、ルネサンス以来の西欧流『考える人』の理想型というものなんです。対するに日本では、深く感じ、考える人ってどんな人でしょう。芥川龍之介みたいな人を連想する諸君も多いのではないでしょうか。貧弱な身体だからこそ文を良くするというような人。このように、日本では文武は分けられていて、文が武よりも上と、そんな感じ方がずっと多く存在し続けてきました。この頃こそ文武両道とよく語られるようですが」
 なるほどと思った以上に、一種ショックを受けた。この小柄ながら均整が取れた老哲学科主任教授が、大学時代にやり投げの全日本クラス名選手だったとも聞いていたことも重なっていた。
〈文武両道は本来なら比例するという相関関係にあるということだろう。それを言行一致して追求してきた人々がいる。それが西欧知識人の一般教養にもなっている。こういう本気の背後には、こんなスポーツ哲学もあるのだ!〉
自分のスポーツ大好きに大きな意味が一つ、初めて生まれてきた瞬間だった。だが、実際にこの哲学の意味、価値を身体で現し、感じられていくのは、まだまだ後の話になっていく。


(あと1回続きます)
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