私が壊れていく H・Sさんの作品です
友人がA4紙に印刷した面白い言葉を持ってきた。その言葉を紹介する。
タイトルは「十八歳と八十一歳の違い」だ。
○道路を暴走するのが十八歳、逆走するのが八十一歳
○心がもろいのが十八歳、骨がもろいのが八十一歳
○偏差値が気になるのが十八歳、血糖値が気になるのが八十一歳
○受験戦争を戦っているのが十八歳、アメリカと戦ったのが八十一歳
○恋に溺れるのが十八歳、風呂で溺れるのが八十一歳
○まだ何も知らないのが十八歳、もう何も覚えていないのが八十一歳
○東京オリンピックに出たいのが十八歳、東京オリンピックまで生きたいのが八十一歳
○自分探しの旅をしているのが十八歳、出かけたまま分からなくなって皆が捜しているのが八十一歳
この言葉を見て思い切り笑えた人は本当に若い証拠です。皆様なら九十から百歳は間違いないと思います。と、言葉が添えられていた。「九十から百歳は間違いない」この意味は健康ですごせますと言っているようだが、この言葉は誰にでも当てはまるものではないと、私は受け留めた。現在八十二歳になる私はこの言葉をきっかけにして、八十一歳当時の自分を振り返った。
八十歳のおわり頃から、私は頭と体の崩壊が始まっていた。その第一番目は突然人の名前が出てこなくなったことだ。愕然としたのは、金山のビレッジホールで桂文珍の落語口演を聞きに行った時の事だ。舞台にかけられている緞帳(名古屋城と松の木)のデザイン画を描いた有名な名古屋出身の画伯の名前が出てこない。緞帳の右下に(杉)と言う字が織り込まれているのに〈杉山、杉田、杉本〉と、苗字を手繰り寄せて名前に到達したいと試みるのだがうまくいかない。美浜に鉄道会社から美術館を寄贈された絵描さん。能楽堂の緞帳の若松のデザインもこの人だった。この人の周辺の情報ばかりが浮かんでくるのだが、本人の名前にたどり着けない。口演が終り食事をして地下鉄に乗った。地下鉄の中で「杉本健吉」だ。突然、水が噴き出すような感じで名前が出てきた。緞帳を見た時から五時間あまりがたっていた。これを皮切りに看板広告の有名女優の名前が出てこない。この女優が大河ドラマ「八重の桜」の主役だった等の情報はさっと出て来るのに本人の名前が浮かばない。この様な状況は現在も続いている。二番目は同人誌のグループに所属しているので月一回のペースで提出作品を書いて来たがそれが全く書けないのだ。何とか一つの作品を仕上げようと焦るのだが考えがまとまらない。頭が壊れたとがっくり来た。次には体の壊れが目立ってきた。
九月半ば、台風の後倒れたコスモスを片付けた。いつもと同じ程度の軽い作業だったはずなのに、右足の付け根に激痛が走り、調子よく動いていた足が前に出ない。よろけて歩けないのだ。いきつけのA整形外科病院へ夫の運転で駆けつけた。
「右股関節の炎症です。働きすぎです。関節を休めてやらないと、骨頭壊死で歩けなくなります」と、こわばった表情のA先生からきつい言葉が返って来た。
[いつもの作業量ですよ。無理したわけではありません。脅かしですか?先生」と、返す私。「昨日やっていたことが今日は出来なくなる。それが年を取ることです。とにかく身体を休めてください。痛みは頓服で止まりますが、炎症が治まったわけではありませんから」。大変だー。最低の家事をやってあとは寝るとするかー。約二週間が過ぎた。痛みは嘘のようにとれて、段差のないところは歩けるようになった。
十二月初め、父の二十五回忌の法事のため郷里の兵庫県加古川市のお寺に行った。父や母がお世話になった人たちにも会えた。お礼も出来た。この状態なら、体の調子も問題はなさそうという感じで帰路についた。電車に乗ろうとJR加古川駅で電車を待つ。人身事故で電車が動かなくなった。復旧するまで一時間、荒風が吹きさらすホームで待った。
寒かったー……。どうにか帰宅できたが、寝込んでしまった。起きようと焦るのだが体がだるくて立ち上がれない。その上息苦しい。肩で息をするようになっていた。おかしいと、かかりつけのB医院に駆け込んで診察を受けた。「横隔膜と心臓、肺の間に体液が貯まっている」と、高圧利尿剤を呑んで様子を見ることになった。五ミリぐらいの大きさの錠剤だが、ものすごい勢いで身体の中の水三リットルを追い出した。二日目には息苦しさは消えていた。心臓大動脈弁不全も抱えているので薬物療法は現在も続けている。病気に追いかけられるように八十一歳を何とかやり過ごした。昨日まで出来たことが急にできなくなる。昨日まで元気で活動できた体も今日は壊れている。それが八十一歳と気づいた。
○成人の入り口に立っているのが十八歳、人生のトンネルの出口をよろよろさまよい歩くのが八十一歳。
私の八十一歳はこんな状況だったと前記の自嘲文を書き留めた。
友人がA4紙に印刷した面白い言葉を持ってきた。その言葉を紹介する。
タイトルは「十八歳と八十一歳の違い」だ。
○道路を暴走するのが十八歳、逆走するのが八十一歳
○心がもろいのが十八歳、骨がもろいのが八十一歳
○偏差値が気になるのが十八歳、血糖値が気になるのが八十一歳
○受験戦争を戦っているのが十八歳、アメリカと戦ったのが八十一歳
○恋に溺れるのが十八歳、風呂で溺れるのが八十一歳
○まだ何も知らないのが十八歳、もう何も覚えていないのが八十一歳
○東京オリンピックに出たいのが十八歳、東京オリンピックまで生きたいのが八十一歳
○自分探しの旅をしているのが十八歳、出かけたまま分からなくなって皆が捜しているのが八十一歳
この言葉を見て思い切り笑えた人は本当に若い証拠です。皆様なら九十から百歳は間違いないと思います。と、言葉が添えられていた。「九十から百歳は間違いない」この意味は健康ですごせますと言っているようだが、この言葉は誰にでも当てはまるものではないと、私は受け留めた。現在八十二歳になる私はこの言葉をきっかけにして、八十一歳当時の自分を振り返った。
八十歳のおわり頃から、私は頭と体の崩壊が始まっていた。その第一番目は突然人の名前が出てこなくなったことだ。愕然としたのは、金山のビレッジホールで桂文珍の落語口演を聞きに行った時の事だ。舞台にかけられている緞帳(名古屋城と松の木)のデザイン画を描いた有名な名古屋出身の画伯の名前が出てこない。緞帳の右下に(杉)と言う字が織り込まれているのに〈杉山、杉田、杉本〉と、苗字を手繰り寄せて名前に到達したいと試みるのだがうまくいかない。美浜に鉄道会社から美術館を寄贈された絵描さん。能楽堂の緞帳の若松のデザインもこの人だった。この人の周辺の情報ばかりが浮かんでくるのだが、本人の名前にたどり着けない。口演が終り食事をして地下鉄に乗った。地下鉄の中で「杉本健吉」だ。突然、水が噴き出すような感じで名前が出てきた。緞帳を見た時から五時間あまりがたっていた。これを皮切りに看板広告の有名女優の名前が出てこない。この女優が大河ドラマ「八重の桜」の主役だった等の情報はさっと出て来るのに本人の名前が浮かばない。この様な状況は現在も続いている。二番目は同人誌のグループに所属しているので月一回のペースで提出作品を書いて来たがそれが全く書けないのだ。何とか一つの作品を仕上げようと焦るのだが考えがまとまらない。頭が壊れたとがっくり来た。次には体の壊れが目立ってきた。
九月半ば、台風の後倒れたコスモスを片付けた。いつもと同じ程度の軽い作業だったはずなのに、右足の付け根に激痛が走り、調子よく動いていた足が前に出ない。よろけて歩けないのだ。いきつけのA整形外科病院へ夫の運転で駆けつけた。
「右股関節の炎症です。働きすぎです。関節を休めてやらないと、骨頭壊死で歩けなくなります」と、こわばった表情のA先生からきつい言葉が返って来た。
[いつもの作業量ですよ。無理したわけではありません。脅かしですか?先生」と、返す私。「昨日やっていたことが今日は出来なくなる。それが年を取ることです。とにかく身体を休めてください。痛みは頓服で止まりますが、炎症が治まったわけではありませんから」。大変だー。最低の家事をやってあとは寝るとするかー。約二週間が過ぎた。痛みは嘘のようにとれて、段差のないところは歩けるようになった。
十二月初め、父の二十五回忌の法事のため郷里の兵庫県加古川市のお寺に行った。父や母がお世話になった人たちにも会えた。お礼も出来た。この状態なら、体の調子も問題はなさそうという感じで帰路についた。電車に乗ろうとJR加古川駅で電車を待つ。人身事故で電車が動かなくなった。復旧するまで一時間、荒風が吹きさらすホームで待った。
寒かったー……。どうにか帰宅できたが、寝込んでしまった。起きようと焦るのだが体がだるくて立ち上がれない。その上息苦しい。肩で息をするようになっていた。おかしいと、かかりつけのB医院に駆け込んで診察を受けた。「横隔膜と心臓、肺の間に体液が貯まっている」と、高圧利尿剤を呑んで様子を見ることになった。五ミリぐらいの大きさの錠剤だが、ものすごい勢いで身体の中の水三リットルを追い出した。二日目には息苦しさは消えていた。心臓大動脈弁不全も抱えているので薬物療法は現在も続けている。病気に追いかけられるように八十一歳を何とかやり過ごした。昨日まで出来たことが急にできなくなる。昨日まで元気で活動できた体も今日は壊れている。それが八十一歳と気づいた。
○成人の入り口に立っているのが十八歳、人生のトンネルの出口をよろよろさまよい歩くのが八十一歳。
私の八十一歳はこんな状況だったと前記の自嘲文を書き留めた。