このブログ10年で多くのネット右翼諸氏と討論し合ってきた。ここの「9条バトル」という名前を見て反論を述べてやろうということで訪れてくる人がとても多いのである。こういう論議からいつしか、こんなことが僕の中で整理されてきた。彼我の「9条を巡る決定的な(世界観的な)分かれ道」が何かあるようだが、それは何かと。このことにつき彼らに対するある仮説がこの10年で浮かび上がってきて、その大詰めのような議論が2015年8月末に延々と続けられた。
2015年8月25日エントリー「ネットウヨク諸氏の大前提」から、30日「またまた、反米保守さんへ」まで。その間にさらに26、28日、29日と3本のエントリーが続き、無意味・有意味玉石混淆で、それぞれこれだけのコメントが付いた「大激論?」であった。25日25本、26日25本、28日16本、29日7本、そして30日13本である。だんだんコメント数が少なくなって来たのは、右の方々が考えた事もないこちらの言い分がやっと分かり始めてくるにつれて、次第に返事が出来なくなってきたのだと僕は理解した。ただ、こんなことも言えるはずだ。これだけ応答が持続したということは、それなりに会話が成り立っていたということ。良くあるように、双方が「紋切り型の反論」を語り続けただけなら平行線ですぐに終わり、こんなにコメント応酬が続く訳がない。右の方々にもそれなりの興味が持続したということだろう。この点はいつもながら良かったと思っている。
この議論の最初と最後、二つのエントリーにまとめた彼らの特徴(の抜粋)を改めてここに皆さんにエントリーとしてお示ししたい。よろしくお願いいたします。
【 ①ネトウヨ諸君は、戦争違法化ということを不可能としか考えた事がない。20世紀二つの総力戦への反省などこの流れの歴史にもほとんど無知である。一定知っている人でも、戦争を無くすなどというのは一時の思いつきないしは幻想だと考えている人がほとんどだろう。
②戦争違法化など幻想であるという考え方というか感じ方の背景、理由に、社会ダーウィニズム風のこういう「思想」が存在する。戦争、人間の争いというものを「永遠の現実」と認識するということだ。ただしこういう「思想」の内実は、①のようなその反対物を知らない人が多く、これを考えた事がない人がほとんどだから、みずからの社会ダーウィニズム風「思想」にも無自覚である場合がほとんどである。そして、こういう無自覚な「観念」は感性的なものでもあって、きちんとした言葉になっていないから討論にもならない。
③この二つが大前提として存在するどんな考え方、政治論も、その出発点はこういうことにしかならない。
「戦争は永遠の現実で、攻めてくる国は必ずある。それに備えることが国家外交の最大問題だ」
この戦争対策の問題はそれどころか、国家の全てになってしまう場合も多い。彼らの「憲法守って国滅ぶ」という揶揄はそういうことだ。ヒトラー、東條の軍国主義もそんな例と言える。「テロとの戦争」も、国家存亡がかかってしまうように理解する人々には軍国主義にしかならないだろう。911以降の米国は軍国主義者が急増した時代、国と言えるはずだ。
こう整理した時に僕の場合、彼らの言い分がすっきり理解できるようになった。この3点に触れない彼らへのどんな議論、反論も、空回りに終わるはずだとも。「無意識あるいは無理解な大前提」って、おそろしく怖いもんだということだろう。
なお社会ダーウィニズムとは、動物進化の理論を人間社会(論)にも当てはめたものである。進化論とは又、環境によく適応した動物は身体をもそのように変えていくこと、そういう身体変化史として動物進化があるということ、というような適者生存の理論とも言えよう。
この社会ダーウィニズムで最も有名な日本人が、明治の東大総長・加藤弘之。著書には「人権新説」があるこの人、日本が進化的強者である欧米(白人)列強に対していくことができる道というものを必死に考えた。社会ダーウィニズムに出会って捻り出したその道が「天皇中心の強力国家」というものだった。これでもってこそ、日本国が弱肉強食的世界に進化、適応していけると。
アジア太平洋戦争敗戦は、こういう思想の敗戦でもあった。 】
【 反米保守さんのコメントはダブり投稿が三回もあったが、結局このことしか語っていない。
社会ダーウィニズムは誤っていると、文科系が言って、次に②即、文科系が正しいと文科系が語っているに過ぎないと。まず、彼の最新のコメント全てから、僕への反論文言をあげておこう。
『1、反米保守の理論は社会的ダーウィニズムだ。2、社会的ダーウィニズムは間違っている。3、だから(??)私(文科系)が正しい――なぜそうなるのか。』
『今現在戦争をなくせていないのに、50年後には人類全員の不断の努力でなくせているなんていうのは問題を未来に先送りしているだけの現実逃避でしかない』
『 またぞろ「もう相手にしない!」と泣き言が入る頃だと思うので、先に書いておきますが、・・・・・・なにかといえば「俗論だ!」「社会的ダーウィニズムだ!」で話は済むと考えておられるようですから』
① さて、貴方が最初に痴話げんかと国の戦争は同じと書いたから、これは社会ダーウィニズムの一種だと僕が書くことになって、これは誤りだと述べたのである。そのときまで貴方は、社会ダーウィニズムがなんたるかなど、一度も書いていなかった。きっとご自分が言ったことが社会ダーウィニズムになるということなど、とっくにお忘れになったのだろう。便利な記憶というしかない。
②今回あなたは社会ダーウィニズムが誤りだと、初めて書いてきた。その事から即「僕が正しい」と僕が語ったと貴方が語っているが、僕はそんな単純なことを語ったのではない。その間に僕は、こういう論理を展開してきた。
③まず最初にこれを述べた。例えば痴話げんかと国の戦争が同じ(本質の)ものならば、戦争はなくなるはずがないということになるだろうねと、指摘した。社会ダーウィニズムとは、動物の争いと人間の国の戦争とを同一視するものだからである。これが可能ならば、戦争は永久に無くならないが、これが可能でないと述べた訳なのだ。
④次に、社会ダーウィニズムが誤りと退けられたら、もう貴方と僕はいずれもただの未来論同士であると僕が言ったよね。そうなると、いずれもこれまでの世界史の流れの知識を総動員して、どちらが正しいかを競い合うしかないはずだと、そう僕は語ったよね。
⑤その上で僕はこう言った。19世紀までと違って20世紀には、歴史上初めて国際(平和)組織が出来て、そこで人類史上初めて世界的な戦争違法化が話し合われた。そこから、国連警察軍も出来た、と。もちろん、アメリカ、中国のように新たにこれに反する流れも生まれているがその上でなお上のことを以下のように展開したいと、僕は言ってきたよね。
(中略)
その上で僕はこう述べてきた。
⑥世界の人々は、もし戦争が無くせるものならば無くしたいと、先ずほとんどの人が思っているはずであると。それらの人々と僕は、上のような歴史の流れを語りあいたいのである。これへの反論は今まで、(無意識のそれも含めた)社会ダーウィニズム以外に僕は出会ったことがないということも付け加えてのことだ。
こういう僕の①~⑥がずっと示されているのに、貴方がこれへの全面的反論を書いてきた事など皆無ではないか。あなたが反論した内容は当エントリー冒頭の文章だけ。こんな内容はもう聞き飽きたから、以上の全体への反論を僕は求めていると言ってきたのだが。 】
この最後のエントリーには、この間ずっと最多言を費やされていたお相手からは、何の反論もなかった。
(2016年5月5日ここに初出。直前のエントリー「僕の9条堅持論」を巡る理論問題として再掲します)
2015年8月25日エントリー「ネットウヨク諸氏の大前提」から、30日「またまた、反米保守さんへ」まで。その間にさらに26、28日、29日と3本のエントリーが続き、無意味・有意味玉石混淆で、それぞれこれだけのコメントが付いた「大激論?」であった。25日25本、26日25本、28日16本、29日7本、そして30日13本である。だんだんコメント数が少なくなって来たのは、右の方々が考えた事もないこちらの言い分がやっと分かり始めてくるにつれて、次第に返事が出来なくなってきたのだと僕は理解した。ただ、こんなことも言えるはずだ。これだけ応答が持続したということは、それなりに会話が成り立っていたということ。良くあるように、双方が「紋切り型の反論」を語り続けただけなら平行線ですぐに終わり、こんなにコメント応酬が続く訳がない。右の方々にもそれなりの興味が持続したということだろう。この点はいつもながら良かったと思っている。
この議論の最初と最後、二つのエントリーにまとめた彼らの特徴(の抜粋)を改めてここに皆さんにエントリーとしてお示ししたい。よろしくお願いいたします。
【 ①ネトウヨ諸君は、戦争違法化ということを不可能としか考えた事がない。20世紀二つの総力戦への反省などこの流れの歴史にもほとんど無知である。一定知っている人でも、戦争を無くすなどというのは一時の思いつきないしは幻想だと考えている人がほとんどだろう。
②戦争違法化など幻想であるという考え方というか感じ方の背景、理由に、社会ダーウィニズム風のこういう「思想」が存在する。戦争、人間の争いというものを「永遠の現実」と認識するということだ。ただしこういう「思想」の内実は、①のようなその反対物を知らない人が多く、これを考えた事がない人がほとんどだから、みずからの社会ダーウィニズム風「思想」にも無自覚である場合がほとんどである。そして、こういう無自覚な「観念」は感性的なものでもあって、きちんとした言葉になっていないから討論にもならない。
③この二つが大前提として存在するどんな考え方、政治論も、その出発点はこういうことにしかならない。
「戦争は永遠の現実で、攻めてくる国は必ずある。それに備えることが国家外交の最大問題だ」
この戦争対策の問題はそれどころか、国家の全てになってしまう場合も多い。彼らの「憲法守って国滅ぶ」という揶揄はそういうことだ。ヒトラー、東條の軍国主義もそんな例と言える。「テロとの戦争」も、国家存亡がかかってしまうように理解する人々には軍国主義にしかならないだろう。911以降の米国は軍国主義者が急増した時代、国と言えるはずだ。
こう整理した時に僕の場合、彼らの言い分がすっきり理解できるようになった。この3点に触れない彼らへのどんな議論、反論も、空回りに終わるはずだとも。「無意識あるいは無理解な大前提」って、おそろしく怖いもんだということだろう。
なお社会ダーウィニズムとは、動物進化の理論を人間社会(論)にも当てはめたものである。進化論とは又、環境によく適応した動物は身体をもそのように変えていくこと、そういう身体変化史として動物進化があるということ、というような適者生存の理論とも言えよう。
この社会ダーウィニズムで最も有名な日本人が、明治の東大総長・加藤弘之。著書には「人権新説」があるこの人、日本が進化的強者である欧米(白人)列強に対していくことができる道というものを必死に考えた。社会ダーウィニズムに出会って捻り出したその道が「天皇中心の強力国家」というものだった。これでもってこそ、日本国が弱肉強食的世界に進化、適応していけると。
アジア太平洋戦争敗戦は、こういう思想の敗戦でもあった。 】
【 反米保守さんのコメントはダブり投稿が三回もあったが、結局このことしか語っていない。
社会ダーウィニズムは誤っていると、文科系が言って、次に②即、文科系が正しいと文科系が語っているに過ぎないと。まず、彼の最新のコメント全てから、僕への反論文言をあげておこう。
『1、反米保守の理論は社会的ダーウィニズムだ。2、社会的ダーウィニズムは間違っている。3、だから(??)私(文科系)が正しい――なぜそうなるのか。』
『今現在戦争をなくせていないのに、50年後には人類全員の不断の努力でなくせているなんていうのは問題を未来に先送りしているだけの現実逃避でしかない』
『 またぞろ「もう相手にしない!」と泣き言が入る頃だと思うので、先に書いておきますが、・・・・・・なにかといえば「俗論だ!」「社会的ダーウィニズムだ!」で話は済むと考えておられるようですから』
① さて、貴方が最初に痴話げんかと国の戦争は同じと書いたから、これは社会ダーウィニズムの一種だと僕が書くことになって、これは誤りだと述べたのである。そのときまで貴方は、社会ダーウィニズムがなんたるかなど、一度も書いていなかった。きっとご自分が言ったことが社会ダーウィニズムになるということなど、とっくにお忘れになったのだろう。便利な記憶というしかない。
②今回あなたは社会ダーウィニズムが誤りだと、初めて書いてきた。その事から即「僕が正しい」と僕が語ったと貴方が語っているが、僕はそんな単純なことを語ったのではない。その間に僕は、こういう論理を展開してきた。
③まず最初にこれを述べた。例えば痴話げんかと国の戦争が同じ(本質の)ものならば、戦争はなくなるはずがないということになるだろうねと、指摘した。社会ダーウィニズムとは、動物の争いと人間の国の戦争とを同一視するものだからである。これが可能ならば、戦争は永久に無くならないが、これが可能でないと述べた訳なのだ。
④次に、社会ダーウィニズムが誤りと退けられたら、もう貴方と僕はいずれもただの未来論同士であると僕が言ったよね。そうなると、いずれもこれまでの世界史の流れの知識を総動員して、どちらが正しいかを競い合うしかないはずだと、そう僕は語ったよね。
⑤その上で僕はこう言った。19世紀までと違って20世紀には、歴史上初めて国際(平和)組織が出来て、そこで人類史上初めて世界的な戦争違法化が話し合われた。そこから、国連警察軍も出来た、と。もちろん、アメリカ、中国のように新たにこれに反する流れも生まれているがその上でなお上のことを以下のように展開したいと、僕は言ってきたよね。
(中略)
その上で僕はこう述べてきた。
⑥世界の人々は、もし戦争が無くせるものならば無くしたいと、先ずほとんどの人が思っているはずであると。それらの人々と僕は、上のような歴史の流れを語りあいたいのである。これへの反論は今まで、(無意識のそれも含めた)社会ダーウィニズム以外に僕は出会ったことがないということも付け加えてのことだ。
こういう僕の①~⑥がずっと示されているのに、貴方がこれへの全面的反論を書いてきた事など皆無ではないか。あなたが反論した内容は当エントリー冒頭の文章だけ。こんな内容はもう聞き飽きたから、以上の全体への反論を僕は求めていると言ってきたのだが。 】
この最後のエントリーには、この間ずっと最多言を費やされていたお相手からは、何の反論もなかった。
(2016年5月5日ここに初出。直前のエントリー「僕の9条堅持論」を巡る理論問題として再掲します)