先回、世界的科学雑誌「ネイチャー」に発表された標記のような人類史論文紹介に東京大学薬学部教授・池谷裕二氏が添えた言葉を、こうご紹介してきた。
『もちろん私たち人類は、自身に潜む異常な凶暴性を自覚しています。だからこそ、刑法や懲役という公的制度を設け、警察や裁判官という社会的監視者を置くことで、内なる衝動を自ら封じる努力をしてきました。国際的には国連やPKOがあります』
さて、こういう人殺し防止の「社会力」を育んできた人類史現段階、『国際的には国連やPKOがあります』について、その発祥を眺めてみると更にいろんなことに気付く。
20世紀初めに国際連盟が発足したのは、人類史から戦争を無くしていくという世界史方向にとって画期的な出来事であった。国家の力を総動員した史上初めての「総力戦」、第一次世界大戦の悲劇を反省して生まれたものである。この世界史の画期的な歴史的できごとを粘り強く主導したことで有名なのが、アメリカのウィルソン大統領であった。
さて、そのウィルソンが理論的支えとして己を鼓舞し続けてきたのがドイツの哲学者カントの「永遠平和論」であることも、世界政治史では有名な話になっている。そして、この書においてカントが提唱した大事な提案がカント没後にいくつか実現してきたということを、ここで非常に重要なこととして思い出したい。この大哲学者が世界史にいくつか行ってきた予言が実現したとも言える、重要なことばかりなのだと言い添えた上で。
一つが共和制国家の実現ということ、今一つが、国家連合の創設である。前者の共和制国家は、その後の現実世界で常識になっていった。世界のほとんどの国が国民主権になって、普通選挙による国会を持ち、君主国でも立憲という前置き、制限が付くのが普通になった。つまり、大国独裁者が気ままに起こす戦争というものが人類史からほぼ消えていったのである。
国家連合の創設というカントの提案の方は、国際連盟や、第二次大戦後は国際連合として実現した。国家連合がなければそれらしい国際法もない理屈であって、言わば無政府的世界、無法世界というに等しい。これを尊重し、この規則を全ての国が守るなどによってこれを育てあっていくこと、これがどれだけ重要なことであるか。これをカントは予見していた訳である。世界平和の実現もこの事を度外視してはあり得ないのであると。
これらの成果が、前回紹介したネイチャー掲載論文のこんな表現に繋がっていったのであろう。
『(人殺しが今は)ヒト本来の数値である2%に比べて200分の1、哺乳類の平均0.3%に比べても30分の1のレベルに収まっています。
公的制度によって自他を抑圧する「社会力」は、ヒトをヒトたらしめる素です』
ところが、以上述べたように戦争を無くそうとしてきた人類の希望、営為、常識が、1980年代ほどから次第に後退してきたと思われる。今の日本などは、戦争が無くなるという希望に満ちあふれていた1950~70年のころとは大違いであって、だからこそ一部の日本国民によって9条が馬鹿にされ始めたと言えるのではないか。そして、こういう人人こそ、ここまで述べてきた題名のような世界史近年の現実には全く無知でありながら(無知だからこそ)、こんな「社会ダーウィニズム」的言辞を堂々と吐き出しているのだと思われる。「戦争無くすなんて、たとえあったとしても千年、万年先の話」。
念のために言い添えるが、戦争の軍事力、特に常備軍と、治安維持のための警察力とが全く異なるものであることは自明の話である。ちなみに、カントの「永遠平和論」の提言、予言にはこんなものもあった。
「常備軍は廃止すべきである」。
(続く)
『もちろん私たち人類は、自身に潜む異常な凶暴性を自覚しています。だからこそ、刑法や懲役という公的制度を設け、警察や裁判官という社会的監視者を置くことで、内なる衝動を自ら封じる努力をしてきました。国際的には国連やPKOがあります』
さて、こういう人殺し防止の「社会力」を育んできた人類史現段階、『国際的には国連やPKOがあります』について、その発祥を眺めてみると更にいろんなことに気付く。
20世紀初めに国際連盟が発足したのは、人類史から戦争を無くしていくという世界史方向にとって画期的な出来事であった。国家の力を総動員した史上初めての「総力戦」、第一次世界大戦の悲劇を反省して生まれたものである。この世界史の画期的な歴史的できごとを粘り強く主導したことで有名なのが、アメリカのウィルソン大統領であった。
さて、そのウィルソンが理論的支えとして己を鼓舞し続けてきたのがドイツの哲学者カントの「永遠平和論」であることも、世界政治史では有名な話になっている。そして、この書においてカントが提唱した大事な提案がカント没後にいくつか実現してきたということを、ここで非常に重要なこととして思い出したい。この大哲学者が世界史にいくつか行ってきた予言が実現したとも言える、重要なことばかりなのだと言い添えた上で。
一つが共和制国家の実現ということ、今一つが、国家連合の創設である。前者の共和制国家は、その後の現実世界で常識になっていった。世界のほとんどの国が国民主権になって、普通選挙による国会を持ち、君主国でも立憲という前置き、制限が付くのが普通になった。つまり、大国独裁者が気ままに起こす戦争というものが人類史からほぼ消えていったのである。
国家連合の創設というカントの提案の方は、国際連盟や、第二次大戦後は国際連合として実現した。国家連合がなければそれらしい国際法もない理屈であって、言わば無政府的世界、無法世界というに等しい。これを尊重し、この規則を全ての国が守るなどによってこれを育てあっていくこと、これがどれだけ重要なことであるか。これをカントは予見していた訳である。世界平和の実現もこの事を度外視してはあり得ないのであると。
これらの成果が、前回紹介したネイチャー掲載論文のこんな表現に繋がっていったのであろう。
『(人殺しが今は)ヒト本来の数値である2%に比べて200分の1、哺乳類の平均0.3%に比べても30分の1のレベルに収まっています。
公的制度によって自他を抑圧する「社会力」は、ヒトをヒトたらしめる素です』
ところが、以上述べたように戦争を無くそうとしてきた人類の希望、営為、常識が、1980年代ほどから次第に後退してきたと思われる。今の日本などは、戦争が無くなるという希望に満ちあふれていた1950~70年のころとは大違いであって、だからこそ一部の日本国民によって9条が馬鹿にされ始めたと言えるのではないか。そして、こういう人人こそ、ここまで述べてきた題名のような世界史近年の現実には全く無知でありながら(無知だからこそ)、こんな「社会ダーウィニズム」的言辞を堂々と吐き出しているのだと思われる。「戦争無くすなんて、たとえあったとしても千年、万年先の話」。
念のために言い添えるが、戦争の軍事力、特に常備軍と、治安維持のための警察力とが全く異なるものであることは自明の話である。ちなみに、カントの「永遠平和論」の提言、予言にはこんなものもあった。
「常備軍は廃止すべきである」。
(続く)