今を生きる S・Yさんの作品です
しごく当たり前のことだが、ちかごろ元気に生きているだけで有難い気がする。
老いに近づいているからそう感じるのか。若いときは来年、さらい年、五年後、十年後が来ることを疑いもしなかった。夢というほど大そうなものはなかったが、それでも将来というか、未来を考えたりしていた。
今はそんなに先のことを考えられない。むしろやたらと、今の自分の身辺のものが邪魔になってきた。自分がいなくなった時のことを考えるようになったことに気付かされる。
身近な人々や、有名、著名な人々も次々と亡くなった。みんないなくなってしまう。みんなどこへ行くのだろう。
やがて自分もいなくなる。そのとき、先にいなくなった人たちに何処かで会えるのだろうか。終活だとか、生前葬などのセレモニーが盛んだが、この歳になってどれも身近になってきた。人とは勝手なものだ。いまになって祖母や母の寂しさ、体の不自由さ、その辛さがわかる。
このごろどこへ行っても、巨木を目にすると触れたくなる。木は大地に根付いたら、そこは終(つい)の住処となる。どんな災難にもじっと耐えるしかない。何百年も生きる木は、季節の移ろい、変わり行く時代や人々を見てきている。神が宿ると崇められるのもわかる気がし
てきた。これも年をとったからこその感情なのか。
それにしても人の生涯は短くて寂しい。いや、それでいいのだと胸の底で声がした。
しごく当たり前のことだが、ちかごろ元気に生きているだけで有難い気がする。
老いに近づいているからそう感じるのか。若いときは来年、さらい年、五年後、十年後が来ることを疑いもしなかった。夢というほど大そうなものはなかったが、それでも将来というか、未来を考えたりしていた。
今はそんなに先のことを考えられない。むしろやたらと、今の自分の身辺のものが邪魔になってきた。自分がいなくなった時のことを考えるようになったことに気付かされる。
身近な人々や、有名、著名な人々も次々と亡くなった。みんないなくなってしまう。みんなどこへ行くのだろう。
やがて自分もいなくなる。そのとき、先にいなくなった人たちに何処かで会えるのだろうか。終活だとか、生前葬などのセレモニーが盛んだが、この歳になってどれも身近になってきた。人とは勝手なものだ。いまになって祖母や母の寂しさ、体の不自由さ、その辛さがわかる。
このごろどこへ行っても、巨木を目にすると触れたくなる。木は大地に根付いたら、そこは終(つい)の住処となる。どんな災難にもじっと耐えるしかない。何百年も生きる木は、季節の移ろい、変わり行く時代や人々を見てきている。神が宿ると崇められるのもわかる気がし
てきた。これも年をとったからこその感情なのか。
それにしても人の生涯は短くて寂しい。いや、それでいいのだと胸の底で声がした。