(光明寺/鎌倉)
桜並木を歩くと不意に記憶が蘇る。
父母に手を引かれた歩いた事、一人で足早に通り抜けた十代、恋人とゆっくりと歩いた記憶、綿アメを持った息子の手を引き園の途中まで歩いた思い出、そして今こうして立ち止まり、しみじみと遠くの又目の前の桜に想いを馳せている。自分の人生を早送りで見るような思いがする。視界が桜色に染まるこの季節ならではの感覚かもしれない。
材木座海岸から近い光明寺境内の古木で大きい一本の桜の木の下で、やや腰が曲がりかけた老婦人が両手を目の高さで合わせている。ついていた杖は数歩後ろに佇む娘と思しき女性が手にしている。まるで何かを拝んでいるように見える。神社仏閣で風景写真を撮ることが多いから本尊に向かい手を合わせる光景はよく目にするけど、桜に向かって手を合わせる人は初めて見る。
人が桜に魅せられるのは、目の前に咲く花だけを見ているからではないだろう。きっと、あの世に向う旅路には、桜の花が咲いているのだ。初めて歩く旅路に、自分が観てきた桜、大好きだった桜の全てが見事に咲き誇っている。そのことを私達は知っているから、毎年花が咲くと駆けつけて、心を花で満たすのだ。
ここ数年、行く春を惜しむ思いが強くなっているのは、季節への思いだけではない。来年の春が私に巡って来るかどうか。桜を見たい気持ちが今年、より強かったのは、この想いがあったような気がする。行く春を惜しむのは、わが命を惜しむということだったのかも知れない。
今年も足早に桜は通り過ぎて行ってしまった。
忘れ物してきたやうな飛花落花 峨々
本当にそうですね。来年は見られないかもしれない。実感として感じる今日この頃です。それだけに一日一日を大事にしようと思います。若いときにはなかった感覚です。
先日、25歳で死んでいった娘さんのことをテレビだやっていました。20歳くらいで癌を告知されて死ぬまで、実に豊かに明るく精一杯生きた姿でした。見事でした。あの顔が鮮明に残っています。少しはまねてみようと思っています。