海側生活

「今さら」ではなく「今から」

思わず合掌

2015年12月08日 | 鎌倉散策

                (円覚寺)
お寺の境内には露座の石仏が思わぬ所にある。

円覚寺の山内は広く、塔頭も多く、公開されていない部分もあるが、それでも思わぬ所に佇まれている石仏に気付くことがある。
石仏は何かの志があって造られ納められることが多いと聞く。名工の作でなくても心を込めて供養の気持ちを刻めば自然と温情が漂うものだろうか。

方丈の前には開山の無学祖元禅師によって植えられたという樹齢700年の柏槇が歴史の長さを感じさせる。それを身守るかのように百観音が納められている。
江戸時代に、百体の石仏が岩窟に奉安されていたものを明治になって整備されたものらしい。いずれも形は6~70cmくらいで白く又蒼く苔生している。様々な表情をして何度見ても見飽きることが無い。ある時、名もない一つの石仏が笑いかけているように感じ、右側から左側からも観て、更に腰を屈めたり立ち上がり上から眺めても、やはり笑っているように見える。笑っている石仏は珍しいと強く印象に残った。それから小一時間は経っただろうか、紅葉の写真を撮った黄梅院の帰りに、再度印象に残った先ほどの石仏の前に立つと、今度は驚いた。この石仏は怒っているような渋い表情に見える。先ほどの笑っている石仏とは違う他の石仏を見ているのかと改めて置かれている場所を確認した。間違っていない。やがて解った。太陽の光が当たっている方向が変わったのだ。表情の中に影が出来て、違った表情に見えるのだ。

数年前、東海道五十三次を歩いた時、その道中には田舎道ほど、小さな石碑が草に埋まって、道筋に並んでいるのを幾度となく見た。それは道祖神であった、馬頭観音であった、地蔵尊であった。中には喜び合っているような手を取りあった姿もあった。ポツンと立っている石碑もあれば、後から一か所に寄せられたと思われる、しかも針金で結わえてまとめたものもあった。近年、石仏マニアがいて、道野辺の佛を持ち去る者もいるとも聞いた。

石仏は置かれた場所に意味があるはずだ。
そして山茶花などの、ひなびた花などが供えてあると、思わず合掌したくなる。

円覚寺の百観音の石仏はお守りされている点、幸せな笑顔さえうかべているように見えた。