海側生活

「今さら」ではなく「今から」

薄紅を引いて

2011年07月11日 | 感じるまま

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草津宿を出て琵琶湖に掛かる瀬田の唐橋を渡り、湖に沿うように歩を進めると、大津宿の手前に義中寺(ぎちゅうじ)がある。
寺と言うにはほど遠い、東海道からは普通の民家のように見える素朴な佇まいを見せている木曽義仲の菩提寺だ。

境内には木曽塚と呼ばれている義仲の墓がある。又本堂には息子・義高の木造が厨子に納められているという。
手を合わせながら、鎌倉・常楽寺の裏山にある義高の粗末な墓が思い出された。

義仲は源平合戦の折、後に鎌倉幕府を開いた従兄弟の源頼朝と対立していた一族を庇護した事で頼朝と対立し武力衝突寸前となる。その際、義仲は11歳の嫡子義高を人質として鎌倉へ差し出す事で、両者の和議が成立した。人質の名目は頼朝の長女・大姫の許婚と言う事だった。
当時6歳の大姫は、親達の政争の道具に利用されているとも知らず、二人は兄と妹のように親しくなり、特に大姫は義高を慕った。

その後、義仲は勢いに乗って頼朝に先んじて入京し、いわば力ずくで征夷大将軍の地位を勝ち取ったが、京の治安維持などに失敗し、朝廷からも見放された。やがて骨肉の争いとなり、頼朝に命じられた源義経に琵琶湖畔の大津・粟津で討ち取られた。

頼朝は続いて人質の義高も殺してしまった。一時は大姫や義高の側近の者達が鎌倉を脱出させたが、追っ手によって入間河原にて切られてしまう。これを漏れ聞いた大姫は、『吾妻鏡』によれば、「嘆きの余りに飲食を断たれた」とある。また「運命のなすところである」とも記述されている。  

運命と言う言葉は、現代よりもこの時代に似合っているのかも知れない。
しかしどんな時代でも子供には何の罪も無いのは当然だ。

何となく気に掛かり、鎌倉・扇ヶ谷の大姫の守り本尊と伝えられる地蔵が祀られている岩船地蔵堂に行った。お堂には誰が活けたか名も知らぬ野の花があった。中を覗くと木造の地蔵の唇には薄紅が引いてあった。

また鎌倉・常楽寺に足を運んだ。
裏山の公孫樹の根元に小さな墓碑があり義高公之墓と記されている。その背後の土盛りの塚には榊が植えられ、命日に立てられたと思われる新しい塔婆が5本あった。又公孫樹の枝に小さな真鯉と緋鯉の鯉幟が結び付けられ、風になびいていた。

街道を歩くと、点々と残る歴史遺産が、いくつかの街道を通して、一つに繋がって行く。
自分の斑な点々の歴史知識も一つの線になってゆく。