海側生活

「今さら」ではなく「今から」

老婆の旅

2011年10月16日 | 鎌倉散策

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どう考えても経験からして理解出来なかった。

成立当初、弘安2年(1279)作者はこの日記に名前をつけておらず、単に『阿仏日記」等と呼ばれて言われていたが、日記が10月16日に始まっていることに由来して、後世に現在の名前が付けられたと言う『十六夜日記』(いざよいにっき)。その道中記の鎌倉までの要した日数の事だ。

阿仏尼の夫・藤原為家は播磨国細川荘を当初は先妻との長男・為氏に譲るとしていたが、後に悔い返して遺言で後妻の阿仏尼の子・為相へ譲るとしていた。ところが為氏が遺言に従わず細川荘を譲らないため阿仏尼は訴訟を決心し、武家法による判決を得るため鎌倉へ向かう。公家法ではいったん譲与した財産・所領を、その譲り主が改めて取り戻すと言う悔い返しは認められないが中世武家法では認められるためだ。

鎌倉への道中記部分は京都から鎌倉までの14日間の旅日記が綴られ10月29日に終わっている。

「東海道五十三次」と呼ばれる江戸時代と違い、鎌倉時代の東海道は、源頼朝によって京都に至るまでの間に宿駅の体制が整えられたと言うものの、京都と鎌倉との間は約480kmあった。
60歳近くという当時としては非常な高齢の言わば老婆が、様々な困難に遭いながら、僅か14日間で鎌倉まで行けるものか理解出来なかった。自分が東海道五十三次を、途中からだったが歩いた時は、約300kmを合計19日間要した、最も道草や寄り道はしたが。単純に一日の歩いた距離を考えると、阿仏尼は自分より二倍以上を歩いている計算だ。

何とか疑問を解き明かしたくて、ヒントを求めて鎌倉・英勝寺の傍の墓(供養塔か?)を訪ね、また阿仏尼が住まいを構えていたと言う場所も訪ねてみた。江ノ電「極楽寺」駅の線路側の住宅地の一隅に、その謂れが書かれた史跡碑だけが佇んでいた。

四年間の鎌倉滞在後、肝心の所領紛争の解決を見ることなく弘安六年(1283)死亡した(帰京後に没したとの説もある)が、折から時代は蒙古襲来の前後のあたり、訴訟は進展せず、阿仏尼の死後30年、ようやく阿仏尼の子・為相が勝訴したらしい。
為相は冷泉家の祖である。為相から現在まで25代、約700年続いている和歌の家だ。

改めて『十六夜日記』を手に取って読み返しているうちに気が付いた。
旅立ち初日の16日に『粟田口といふ所より、車は返しつ』と文があった。都の外れで駕籠を返し、その後は歩いたのだと自分は早合点していたのだ。文中に表現は無いが、ここで馬に乗り換え、しかも数人のお供がいた事が推察できる。

やっと納得した。それにしても老婆には身体にも堪えた旅だっただろう。
支えたのは、歌道家の名誉を守りたい一心だったのか、それとも子を思う母心だったのか。