棚からぼた餅--岩淵龍王丸

信州の山郷での暮らしと、絵本と無縁になってしまった大人に向けた創作絵本や、芸術活動をお話します。

夏祭りの夜ー家族 1994年

2017-10-19 11:06:30 | 山郷の暮し
前回は朝の散歩中に唐突に思い出した作品を修正したことを書きました。
その作品に同梱されていた墨画があり、この作品はまったく記憶から失せていました。
パネル貼りがされていたので発表をしていた、と思いますが忘れている。
物事に忘れっぽい私ですが、作品制作のことは下図一枚でも記憶が甦ってくるものですが・・・。
自分でも不思議なくらい忘れていたのです。

これは私ばかりでなく創作にいとしんでいる方は、分野を問わず不思議なくらいに制作状況が甦ってくるものです。
それがまったくなく、しかも1994年制作となればちょうど50歳の時。
ぼけているどころか、制作も乗りに乗っているころでした。

さてこの作品は兄の家族を描いたもので、前回投稿した「母になる日」の義姉が病死をしてから6年後の制作です。
描いた真意は忘れてしまいましたが(制作日記はあるはずですか・・)、
子供たちに叔父さんとして、画家として、母親の姿を残してやれる事だ、という思いだったのでしょうか。
この作品、自我自讃に聞こえるかもしれませんが、悪くない作品で特に視線の構成がすばらしい。


チョットわかりにくいことをのたまわりますが、絵画となると誰しもが「遠近」を思い起こすでしょう。
手前から奥に行く空間表現は、物理的なモノによって表現できます。
写真などでよくわかる構図です。
(蛇足ですが、絵画制作でそのまま構成するのはいけません。カメラは片目で、写生は両目ですから異なります。)
難しいのは奥へ行く空間よりも、画面から観る者までの空間を表すことです。
画面に創られた遠近がそのまま伸びてくる、とでもいいますか、風景画でしたらその延長上に自分も居る気がする。
まーーそんなふうに描けたら名画なのですが・・。

さて、物理的な遠近ばかりではなく、目に見えない空気遠近があり、これが創り出す空間こそ絵画の醍醐味です。
その創作の方法の代表的なものは「視線」です。
見えないのですが、物理的遠近よりもはるかに効果が生まれてきます。
視線ばかりではなく、指先の方向やモノなどにも同じような制作意図を潜めているのです。

話は飛躍してしまいますが、私の鑑賞してきた作品の中で「視線の創る異空間」のすごさを感じたのは、
ルーブル美術館で観たあのダビンチの名画「岩窟のマリア」でした。
今はその作品のことを正確に書けませんが、たしかマリヤとイエスと侍従の女性のひれぞれの視線の方向です。
子供のイエスが私を見つめることにより、巨大な異空間の塊が迫ってきたのです。
私を見つめる視線がなかったら、あれほどの空間は生まれないとおもいます。

私の制作でも鑑賞者を見つめるナニカを描き入れる工夫をしています。
人ばかりでなく動物や草花などに託しているのです。


ダビンチの名作と私の作品は比べようもありませんが、作品を鑑賞する時の参考にしてください。

話を私の絵に戻しますと、人物の視線によって「家族だけのの空間」を創っています。
背後のぼやけた明かりと影によって、画面の空間(祭りの雰囲気)が観る者まで包み込んできます。
実像による遠近と、見えない空気遠近がバランスよく描かれていると感じます。
蛇足ですが、この制作時には母親は既に亡くなっており、似顔絵というより観音様のような顔になっています。


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