日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

犬山市、全国学力テストに反対

2008-02-24 14:44:26 | Weblog
 愛知県犬山市(8万余)の教育委員会が、全国一斉学力テストに反対して、今年も実施しないことにしている。3対2で、かろうじて反対が成立している。
 ちゃんとそれなりに自信を持って教育していると思っている学校には、学力テストを上から強いるべきではないと思う。自分の学校のレベルがどの程度か分からなくてどうしても知りたくて困っている場合には、それに代わる問題でチョックすればいいのであって、上からどうこう言われる問題にすべきではない。全国一斉に学力テストを施行して、それで出来不出来を把握して、更には、それで生徒の学力のあるなし以外に教師の資質まで見ようとしたり、学校のレベルを絶対視する方向に行けば、一体教育とは何かと言いたくもなる。
 教育の成果は直ぐには出てこない。長い年月が掛かるのである。受験で苦しんだ人間が、還暦前になってもその時の受験の夢を見てうなされるなんて、やはり異常だと言わざるを得ない。又、小さな子どもが子ども同志で楽しくゲームなどをしながら精一杯遊ぶべき時に、正規の学校に行っているのに、それから又塾などへ行って勉強を強いられているのは、酷と言うべきだ。
 今でも、夜の(兵庫県の)三ノ宮駅に行ってみるといい。熟通いの受験生で、駅周辺は一杯になっている。しかし、それを見た大人の間で、それでどうこうしようと言う動きは全く出てこない。これも不思議だ。
 受験勉強をずっと強いられて入学した大学生、やはり、どこかで息抜きをしないといけない訳で、大学に行っても寝たっ切り傾向の学生になっている人が多い。周りが勉強をさせてきているので、自分で問題を作ってそれを解決しようとしない。問題も、その解き方も、ちゃんと大学が教えてくれるものと思っているのだ。
 更にやっかいなのは、体力の低下とやる気の低下である。そして、肩書きだけで人を判断し、他人とのコミュニケーションのぎこちなさである。有名大学に入ったのはいいが、失ったモノの方が多くて、それがその後生きる上で致命的なることだってある。入ることに価値観を置いていた教育機関は、そのことに関して何ら責任を取らない。
 欧米では、教育ママゴンが行き着いた結論は、いい精子を得ることで、それなりに(父親不在で)精子バンクで遺伝子を得て、子どもを作っている例もある。その子ども自身が24歳になって言っていた、「母親が異常なほど、自分と親密になっている。自分のIQ180が高いのは、単に1つの素質に過ぎない。自分は他人と関わることが苦手で、内向的な性格になっている。」と。
 日本の教育システムの根本は、戦後、何ら変わっていない。小さい時から競争競争。受験勉強を周りから強いられる。その結果、勉強嫌いの人間を沢山作っている。文部(科学)省は、コロコロと教育システムを変え、教師も自信を失い、疲弊している。
 根本は、やはり、楽しい学校にすべきである。知識を得ることは喜びであり楽しいことであり、それを肌で感じる様に小さい時から周囲が出来れば、それで事足れりである。後は、自分で学ばせればいいのだし、それを一緒に学ぶ仲間と場所と時間を与えればいいだけだ。しかし、戦後の子どもには、3つの間がどんどんなくなっている。つまり、(分け隔てなく遊べる)仲間と時間と空間が。
 小学校低学年では、いい先生とは、生徒と一緒に遊んでくれる先生ということになっている。しかし、小学校高学年からは、尊敬できないと、生徒よりも目に見える形で出来るモノがないと、生徒から善い先生とは言われない。
 イタリアの語学学校に行った時にも、カナダの語学学校に行った時にも、ゲーム的感覚で語学を楽しく学ばせようとしていることに気が付いた。少人数で、アイコンタクトがちゃんと出来て、昨日どうだったって話から始まる。目的があるので、学生は、皆、一生懸命に学んでいた(自分は、半分遊びで、申し訳なかったが)。
 自分の事を考えてみた。1949年生まれで、子どもが家の周りにうじゃうじゃいた。友達同士の喧嘩も絶えなかった。皆貧乏だった。小学校の低学年では、放課後に先生が出来ない生徒を残して教えていた。小学校の高学年では、グループを作って、教え合っていた。中学の時も高校の時も、(頻回ではないが)生徒同士で問題を教え合っていたことを思い出すし、中学の時も高校の時も、将棋や囲碁を勉強仲間同士でよくしていた。
 小学校1年生の時の担任の先生、加藤道子先生、田口昭子先生、小学校2年と3年の時の先生、神田タツ先生、小学校4年生の時の先生、後藤俊正先生、池辺妙子先生、小学校5年と6年の時の先生、狩生毅先生、その後も、立派な先生方が沢山いた。
 高校の時の現代国語の秦一郎先生、数学の渡辺清一郎先生、(修猷館卒の生徒が集まっていた)修猷学館の数学の堺弥一郎先生、英語の(クラスの担任でもあったが)引野英夫先生、もう今は亡き先生方のお陰で今の私があります。(保育園や幼稚園には、経済的な理由でか?行かなかった)


http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20080214/4

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その284)

2008-02-24 09:11:53 | Weblog
○昭和63年3月1日(火)晴。
 恒例の病院の避難訓練があって、ちょうど乳児健診の時とぶつかって大変だった。それも、40程来た。火災訓練、大変で、沢山の人が参加していた。消防署の人は、この病院を高く評価しているって感じだった。この24時間オープンの西田病院がなかったら、ホント、困るだろうなあ。特に、新設の小児科と脳外は。
○昭和63年3月2日(水)晴。
 ○崎さんが亡くなった。お通夜に行った。月報で大変お世話になっていた。有益の話を(刑事の立場から)いろいろと教えてもらった(○崎さんから、トップが代わったので今からこの病院の舵取りが難しくなる、出来るだけ早めに開業した方がいいとしばしばアドバイスを受けていた)。退職して奥さん孝行を今からしたいとしきりに言っていたのに、それも叶わず、あの世に行ってしまった。目付きは職業病で悪いけど、ホントは、とても優しい人だった。60歳以上生きられたし、酒も楽しく飲まれて来たし、まあ、悔いはさほどないかも知れないなあ。
○昭和63年3月3日(木)曇。
 ○崎さんの葬式があった。ドクターが殆ど参加していた。茂理事長が亡くなってから、さほど時間が経ってないのに猛史院長が亡くなり、そして、○崎さんも亡くなってしまった。人間の命なんて、思った以上に早く亡くなるなあ。自分も余り無理をしていると、この先どうなるのか、分からないなあ。
○昭和63年3月4日(金)曇。
 朝の朝礼で、(各科毎に番が来て、その科の誰かが何か言わないといけないのだが、小児科とベビー室の番の時には、自分が話していたが)企業が発展する為の3つの条件を言った。桃太郎のイヌとサルとキジの話をした。つまり、スタッフに情報と知恵と行動の3つが共に必要だと。後でとてもいい話だった言われて嬉しかった。昨日の葬儀に小児科一人の為に参加出来なかったのが悔やまれる。我が病院は、行動力は確かにあると思う、これだけ患者さんが来ているのだから。それでどうしてどんどん黒字に出来ないのかなあ。
○昭和63年3月5日(土)曇。
 自分なりに病院の思い切った改善策を考えてみた。1、広い駐車場を確保する。2、(ドクターやナースは切れないが)30人程思い切って(病院の為に余り役に立っていない人を)リストラする。採用時に、コネを極力排除し、ホントに能力のある人しか採用しない。ソフトや卓球が出来るだけでは採用しない。3、スポーツは、病院の一環ではなくて、ゴルフ同好会の様に(会員でお金を出して運営)、同好会とする。4、5階に息抜きの憩いの場を儲ける(職員に生き抜く場所がないと、頑張れない)。5、ドクターは院外から来てもらうことなく、病院内のドクターのみで当直体制を組み、往診も積極的にし、自分の様に、早朝診療も積極的にする(医者がコロコロ代わると、患者さんが付かない。それと、ドクターの給料を少し下げる。どうせ税金で沢山持って行かれる訳だから、それよりも、ドクターを増やし、それなりに沢山の休みを上げた方が得策)。無駄が兎に角まだ多い病院だと思う。
○昭和63年3月9日(水)晴。
 外国に行ってみたいなあ。そして、外国から見た日本に付いて書きたいなあ。本を残すのが一番価値があると思う。何故なら、死んでしまったら、何も具体的な形として残らないからだ。6月から小児科のドクターが来る様になったら、朝4:00に起き、5:00までに病院に行こうかなあ。運動も出来るなあ。生活がガラッと変わるなあ。
○昭和63年3月16日(水)晴。
 待ちに待った朝礼の日っていう感じで、13分間喋った。若い時の苦労が大切、いい思い出を作る為に若い時に頑張る、教育は8つ褒め1つ叱って突き放せ、又、言葉は神であるなどの内容を話した。量がスゴク多いのだ。何もかも言ってしまおうと思うと時間が足りなくなってしまう。疲れたと言う人がいてガックリ。腹の調子が悪い。癌になっている人が周りに多い。自分も気を付けないといけないなあ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その283)

2008-02-24 09:10:31 | Weblog
○昭和63年2月5日(金)晴。
 カゼを引いてきつい。それで今日の英会話を休んだ。久し振りに引いたって感じだ。自分の体、大切にしないと、その内ガタガタになりそうな気もしないでもないなあ。受験で失ったものが大きかった様に、仕事人間になっても、失うモノも大きいと思う。
○昭和63年2月7日(日)晴。
 ミーコとワコとで天使幼稚園に行ってカレーを食べた。カゼがやっと治った感じだ。この1週間きつかったなあ。その後、血便が出た。ちょっと多かったのでドキッとした。血って、やはり不気味だなあ。それに痛みがないのが尚更気に掛かる。規則正しい生活、早寝早起きが大切だなあ。
○昭和63年2月10日(水)雨。
 湯布院の(名高い、気配り)亀の井ホテルに佐伯タクシーのマイクロバスで行った。自分の両親と恵ちゃんの両親も。往復、ミーコのピアノと歌を録音したテープがあって良かった。佐伯から片道2時間以上掛かったが、道中楽しかった。檜の風呂が最高だったなあ。しかし、子どもがいると疲れるなあ。ワコちゃんが元気に歌って両親を喜ばせた。親孝行、出来る時にしておかないといけないなあ。お金は、有効に使うべし。
○昭和63年2月15日(月)晴。
 午前中だけで、151人来た。けいれん重積の子がいて、6:30過ぎにアレビアチン、ステロイド、グリセオールと使い、何とかおさまった。午前中に病棟も診ているから、午前中に170人程を11:30までに1時間に40人診ている。これも、自分だけでなくスタッフが慣れてしまって、患者さんもいつも診ている人が多いから出来ることだなあ。
○昭和63年2月22日(月)晴。
 午前中で160人以上来て、17:00までで、225人だった。しかし、昔はこんなものではなかった。流行時の月曜は、250人を越えることが多かったし、1日に290人の日もあった(300人を越えたのは、開業時の1回のみ)。医者が二人だと、もっと能率的に出来るだろう。個人病院だから、採算が合えばそれでいいと思うが。
○昭和63年2月25日(木)晴。
 ○○○婦長の子どもが帝切後にRDSになり、あまり調子が良くない。チアノーゼがひどい。よく知った人の子の治療って、何かしにくいなあ。ここでは生まれたら即小児科だ。小児科医がいなくて帝切何て、何もなければいいが、あった時には、重症患者さんが二人いる訳だから大変だろうなあ。アンビューでの力の当て方、かなり経験がそれなりに要ると思うが。(以前、帝切後に自分が行く前にナースが蘇生をして、縦隔気腫になった例があったので、アンビューをナースには原則的に使わせない様にして、帝切の時には、殆ど自分が付いていた)
○昭和63年2月27日(土)雨。
 1:00過ぎに起こされた。3:00頃まで眠れず、7:35から11;45までに130人ほど診た。○○君を帰した。喘息+肺炎で、難儀したなあ。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする