日本の心・さいき

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為になるかも知れない本(その276)

2008-02-20 07:44:34 | Weblog
 佐伯の子ども達の救急を背負っているこの西田病院小児科を今からどうして行けばいいのか?今すぐにでも浅田さんに電話して、理由を言って、急遽医大から代わりの常勤医に来てもらって、午前中だけでも自分がして、午後と時間外をその派遣医からしてもらおう。癌だったら(もう手遅れだったら)「飛鳥へ、そして、まだ見ぬ子へ」を書いた井村和清氏の如く、出来るだけこのままで仕事を続けられるだけしたい。前理事長、前院長の次は自分かも知れない。厚徳病院に行って、(新築な為、設備がちゃんと整っているので)「ここで最後は死にたいなあ」とそこのナースにちょっと前に言ったことがあったが、それが直ぐにでも実現しそうな感じであった。
 もう死んでも悔いはないかなあとも思った。この世はいつかはなくなる。今生きている人間だって、150年も生きられる人はいないのだ。人間はどう頑張っても必ず死ぬし、全ては相対的で、一刻一刻全てが変化している。幸福を追い求めても、例え得ても、その時ちょっとだけ瞬間的に幸福感があるだけで、次にもう新しい目標が出現している。それを又克服するのに少なからず難儀する。死んだ時に初めて苦しみから逃れられる。最後に死ぬ直前には、モルヒネよりも強いエンドルフィンが出て、そんなに痛くないはず。本も書いたし、子どもには本の中で自分の言いたいことを全部言っているし、自分の声も姿もビデオにちゃんと撮っているし、借金だって、家と土地を売れば何とかなるだろうし、学資保険に沢山入っているから、妻子はさほど困らないはずだ。近頃読んだコンノ・ケンイチの本「月は神々の前哨地だった」によると、第3次世界大戦が今世紀末に確実に中近東から起き、人類の5分の1しか生きられないと書かれてあり、聖書のシナリオ通りに進んでいるとも書かれてあった。
 人間なんてどうせ死ぬのだ。人間は長く生きていたからと言って満足するべきではない。人間らしさを縦軸にとり、時間を横軸にとって、時間で世の中への貢献度を積分した量が多いかどうかで、その人の生きる価値がどの程度であったかが決められるべきだ。
 結果がはっきりするまでの間、診察をしていても自分で自分の元気のないのがよく分かった。昼来たMRの人から「先生、大丈夫ですよ」と言われる。しかし、MRさん達も、適切な言葉を見つけるのに苦慮している感じ。昼は、患者さんと全く同じものをいつも食べているが、毎日とても美味しい。肝炎でこんなに美味しく食べられるかなあとも思った。それに、異型肺炎で薬(ミノマイシンで肝障害?)を飲んでいたし、尿も今は普通の色だ。ひょっとしたら、又、元気な体になれるかも知れない。予後のいい一過性の肝障害かも知れない。持続性肝炎かも知れない。しかし、もう運動(ゴルフ)は出来ないし、アルコールは絶対に駄目だなあと思った。
 肝炎にしては食欲のある私は、昼食後に検査室に行った。そしたら、「連絡しようとしていた所」と言われて、遊離脂肪酸以外、総ビリルビン、GOT、GPT、TTT、ZTT、アルフォスなど、全て正常であった。その時に喜びは誰に言っても理解できないだろう。何となく自然に体の奥からビッグバンの様に強烈な光が急激にさして来て、その光の喜びが体のすみずみにまで、広がった感じであった。見ると、やはり血清は普通以上に黄色くなっていた。疑えば切りがないし。検査室の人が嘘を言っているとは思えない。昨日、自分が癌と思いこんで、小さな潰瘍だったのに自殺してしまうある社長のドラマがあったが、自分はそんな馬鹿げたことはしないぞと思った。
 妻に電話したら、ホントに嬉しそうだった。却って妻に聞くと、自分が入院したら3人の子どもはどうしようか、病院から給料がストップしたら何をして働こうか、(入院給付金が付いた保険には、それまで一つも入っていなかったので)入院した時にもらえる保険に入っておくべきだったなどと、いろいろ考えたとのこと。
 その日の夜は、(世界一美味しいと自称している)「寿し好」に行って、肝炎の全快祝いと称して久し振りに家族で外食をした。その味がいつも以上に特別に美味しかったことは言うまでもない。


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