○昭和63年7月9日(木)晴。
16:00に病院を出発して、浜田先生、土屋先生と一緒に、浅田さんに連れられて院長の見舞いに医大に行った。院長が医大に入院してから他の先生の多くが既に見舞いに行っていたが、院長が気を使って悪くなっていけないと思い、行かなかった。行く時、これが生前の最後の姿を見ることになるとは夢にも思わなかった(院長は、今の自分の年齢58歳の若さにして亡くなった)。ゴルフの話をすると本人が興奮するので(シングルの腕前)しまいと、行きながらお互いに約束もしたのだが、会って院長と話をしているうちに、「田原先生、ゴルフはどうかねえ」と尋ねられた。「トラック一杯打たんと上手にならない」と口癖の様に院長は私に言っていた。
今まで私と話をする時、心臓で状態が悪い時でも、いつもニコニコされて目が輝いていた。しかし、この時は違っていた。私を見つめることはなく、窓の外を眺めながら低い声でそう言われたのだ。こんなに落ち込んだ院長の姿を見たのは初めてだった。いつも一緒にいる高橋さんの話だと、これでもこの日が入院してから一番状態がいいと言う。私はむくんだ院長の手を握って別れた。浜田先生が帰り際に、「院長先生、城島でプレーオフになって逆転優勝したですねえ、あんな風に又元気になって下さい」と言った。
○昭和63年7月11日(土)晴。
○○君が相談に来た。今度の中間テストで(佐伯鶴城高校で)1番だったとのこと。「勉強の仕方が分からない、学校の内容だけでは不安だ」と言うので、「今の鶴城での量は多い。それを中心に確実に押さえていくこと」と説明した。(彼は、朝型で、夜は早く寝て、朝は、まず座禅を30分間して、それから予習を徹底的にしていた。高校の時にロシア語も勉強していた。その後、又、相談に来て、やはり田原さんの言う通りだったと言ってもらえた。(従兄弟の子で、彼は、その後東大文1合格し、平成14年に三島賞を獲得し、芥川賞の候補になっていた)
○昭和63年7月14日(火)晴。
朝5:00過ぎに電話があり、病院に行くと(院長の息子の)産婦人科の○○先生が玄関で待っていた。RDSの子が生まれていた。呻吟があり、nasal CPAPを付けた。産婦人科医も、ホントに大変だなあ。
○昭和63年7月21日(火)晴。
健診43人が14:50に終わり、それから、集まった保険婦さん達20人以上に15:10~16:20まで喋り続け、質問も受け、16:40に終わった。終わった後、皆、ニコニコしていた。いい講演内容だったかなあ。
○昭和63年7月31日(金)晴。
(午前)0:30、多くの人が院長(遺体)の来るのを病院の玄関で待った。この時、私は、「ああ、よく帝王切開でこんな風にして時間外に院長の来るのをまったなあ」と思うと同時に、「もうこんな風にして院長の来るのを待つこともなくなるんだなあ」と思い、着いてストレッチャーに乗せられて、泣きながら運んでいるナースを見ながら、言葉が出なかった。
○昭和63年8月1日(土)雨。
9:30過ぎ、皆が見送る中で、浅田さんが、「院長が来られました」と言った時、今度火葬場から帰って来た時は、遺骨になっているのだなあと思うと、自然に涙が出て来た。
私はよく母から院長のことを聞いていた。又、姉が短大の保育科に行っていた時、院長の講義を受けていて、「ほんとに面白い先生じゃわ、話がスゴク上手い、声も顔も格好もスゴクいいんよ」と絶賛していた。
私が院長に初めて会ったのは、浪人していた時で、手術を終えた直後の院長に母が、「医者になれるかどうかわかりませんが、息子です」と言うと、先生は、「医者はなかなか大変じゃが、頑張って下さい」と言われた。その時、「こんな立派な医者になれるだろうか」と思い、まさかここで院長からベビーを全て任されるとは、思ってもみなかった。
院長は、どこにいてもいつも連絡の出来る様にしていて、休日に帝王切開の為にゴルフ場から手術場に直接来ることもしばしばであった。そのことをよく知っているある運転手さんが、私に次の様にいったことがあった。「医者は金回りが良くていい様にあるが、院長を見てると、ホント24時間縛られっぱなして、夜、いつでも病院に来て、朝早くから診て、端から見る様に医者っていいもんじゃないなあ。院長を見てるとつくづくそう思う」と言われた。深夜、帝王切開の時、よく手術場で院長と顔を合わせていたが、私がいるととても安心している様子であった(不思議なことに、院長から直接に帝切の時にベビーに付いて欲しいとは、一度も言われたことがなかったが、私の方で気を利かせて、それなりに付いていた)。
院長の仕事量は、恐らく産婦人科医の中では大分県一、いや九州一であったかも知れない。兎に角速く、機敏で、多い時には、1日に200人程診て、それも13:00頃には終わっていて、しかも手術は1日に4~5人することはざらであった。仕事で弱音を吐くことはなかった。少しでも体の調子がいいと、主治医の高田先生に隠れて手術をする始末であった。又、石、熱帯魚、犬、ゴルフのクラブ集め(新聞にも掲載された)など多趣味で、唄うとプロ顔負けの美声で、ある時、プロのいるクラブで唄っていたら、プロよりも拍手が多かったとのこと。又、ゴルフは(佐伯市の)医師会ではナンバー1で、そのマナーには高い評価があった。
仕事上では、職員に対しては、厳しい所があったが、私には気の毒な位に協力的であった。ここに就職しだては、(私も血気盛んだったので)小児科のナースとしてふさわしくないと思った時には、院長の所に行って、替えてもらっていた。院長は、そんないろんな科から苦情の多いナースを自分の所に置いていた。で、しばらくして、「田原先生、前よりは良くなっているが、どうだろうか?」と言われたことがあったが、その時も私は、「いや、ちょっと子どもは任せられない」と言って断り、院長はそれでもいやな顔をせずに、私の意向道りにしてくれていた。又、新しい器械を買う時でも、事務サイドで切られていても、最後に院長の所に行くと、全てオーケーとなっていた(事務サイドは、苦い顔をしていたが、院長には頭が上がらなかった)。
院長は、実によく食べ、よく働き、よく遊び、よく人の為に尽くし、ゆっくりと長いこと休むことはなかった。心臓発作の為に吸入していた日にも、患者さんに申し訳ないとのことで予定通りに手術をしていた。(父親の)理事長が亡くなった日にも、予定通りに手術をしていた院長。薬を飲むと言うよりも食べるようにして飲んでいた院長(柩にも、息子さんが薬を入れていた)、母親思いの院長、ベビーを全て自分に任せていれた院長、手術の上手な院長、私の息子の節句の時に鯉のぼりをくれた院長、どうぞ安らかにお眠り下さい。(合掌)