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黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

「板上に咲く」第13話

2024-04-05 | 日記

昭和14年

  「手元に丁度六枚の板がありまして、

   曲がったり端が欠けているような板でしたが、

   わたくしはこの表裏に釈迦十大弟子を彫ろうと決めました。

            (「私の履歴書」日本経済新聞 1974年)

   

                             (釈迦十大弟子を制作中の棟方」

  棟方は柳から借りた資料と自分で集めた資料を合わせてすでに

  この題材に取り組んでいた。

 大いに興味のある題材だったが、いま、ひとつ創作意欲の発火点を

 見出せずにいた。

 

  「釈迦十大弟子」柳宗悦直々に提案された画題だ。

 棟方の気合の入り方は尋常ではなかった。

 毎日首っぴきで資料に当たり、白い紙を前にして髪を搔きむしっては

 悶々としていた。

 

 あるとき、上野へ展覧会を観に行ってくる、とふらりと出かけた

 棟方は、夕方近くにしんみりした表情で帰った来た。

  その夜、いつも通りに家族で夕餉の食卓を囲んだ。

 棟方はどこかぼんやりとした様子で、箸の動きも鈍かった。

 

  ややあって低いつぶやき声が聞こえた来た。

    「・・・須菩提(しゅぼだい)・・・」

  「えっ?」 チヤは聞き返した。「しゅぼ・・・?」

  「今日、観できだんだ。 須菩提の仏像

 上野の博物館で開催されていた興福寺展に行ってきた。

  そこに釈迦十大弟子の国宝仏が揃い踏みしていた。

  そのうちのひとつ、須菩提が強烈な磁力を放っていた。

 

      (興福寺 国宝 須菩提像)

           

   太古の世から忽然と眼前に出現した須菩提は、異様な霊力でじりじりと 

   棟方を締め上げる。仏像と目を合わすうちに、いま、自分がどこにいるのか、

   なぜそこにいるのか、何をしているのか、だんだんわからなくなってきた。

   周囲にあるものすべてが急激に遠ざかり、やがて完全な無音になった。

   久遠の闇の中に自分は浮かび上がっていた。

   仏像の体内に吸い込まれそうになって、我に返った。

   頬には涙がいく筋も伝わっていた。

  

  そう聞いて、即座にチヤは「始まった」と感じた。

      始まったのだ・・・震動が。

 夫の表情は見えなかったが、涙を流している気配があった。

  それとも動揺しているのだろうか。

 棟方は天井を仰いで、しゃがれた声を振り絞った。

 「・・・見えね、んだ。 もう・・・」 棟方の左目は、

  視力を失いつつあった。

  

 今日そうなったわけではない。実はもう何か月も前からそうなっていたことを

 初めてチヤに打ち明けた。薄らいでいく視界の中で<善知鳥>を仕上げたのだと。

         チヤは絶句した。

 

  「目隠しして、彫る!」

 棟方は、ひとつ、深い息をついた。

  それから、両手を畳について、彫刻刀を探り当てた。

  右手にそれを持ち、左手で版面を撫でる。

  もうひとつ深呼吸をしてから、這いつくばって彫り始めた。

    

  あの人は、自分の体も、命も、版画になってしまうということを願っているのだ。

            いま、わかった。

         版画こそが、あの人なのだと。

 

   こうして、<二菩薩釈迦十大弟子>がこの世に生まれ落ちた。

       普賢菩薩             文殊菩薩

     

 

     

   興福寺展で「須菩提」が強烈な磁力を放っていた・・・という

    彼の彫刻刀が…彫ったのが。 これだ!

              「須菩提」

        

 

 

 摺り上がった彼らに向き合ったとき、チヤは自然と両手を合わせ、

 涙が頬を伝うのをどうにも止られなかった。

 

 感謝とか感動とか、全部ひっくるめて、ただただ泣けた。

 

棟方は薄手の板に十二枚の版画を挟み、しっかりと背負って家を出た。

行く先は柳宗悦宅である。

 自らが与えた課題への答えを目にして、師は一体なんと言うだろう。

まるで最後の審判を受けるかの如く、棟方は張り詰めていた。

 

   その日の夜遅く~玄関の引き戸が勢いよく開いた。

     「・・・チヤ子」

   一瞬、棟方がぐっとにらむような目つきで…顔をチヤに

   近づけて。

             

   先生が…柳先生が…<十大弟子>をな。

    驚くべき、最高の出来栄えだ、 づで… 」

 

       あとは言葉にならなかった。

 

 私がこの「二菩薩釈迦十大弟子」を観たのは・・・随分前だ。

 福岡県立美術館で「棟方志功 祈りと旅」の企画展のこと。

   (2011年 ㋄)

 朝日新聞 掲載のコラムより

【 棟方志功の生涯を通じての画業の中から、いくつかの代表的作品を数えるとすれば、

   この<二菩薩釈迦十大弟子>は必ず挙げられるのみでなく、代表作のなかでも最も

   知名度の高い作品である。簡潔で、力強く、ダイナミックな迫力に満ちており、

  12人いずれも主役といった豪華ドラマである。

   文殊と普賢の菩薩を両脇に配し、内側に十代弟子が並ぶ。

   頭の向きや手・指先のしぐさには、構図のバランスが巧みに工夫され、衣と足先は、

   白と黒の面が交互に現れるように配色されている。モノクロ、線と面という単純な

   画面でありながら、そこには緊張感と清らかさがみなぎる。

   祈りの美である。

    本作品をサンパウロ・ビエンナーレとベネティア・ビエンナーレに出品し、

    日本人初のグランプリを受賞した。 】

 美術館を出て強い太陽の陽ざしを浴びながら歩く道すがらも

  興奮を隠しきれなかった。 いま また当時を思い出した。

 

 

原田マハは、「棟方の想い」を・・・表紙にもした。

  いや、これはきっと作者が考えた「棟方の想い」ではないか?

   

  

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「板上に咲く」第12話

2024-04-04 | 日記

チヤが熱燗をつけている。

この日、棟方家では祝賀会が開かれていた。

 

 この年の秋、新文展(旧官展)の版画部門に、棟方は、

日本民藝館の春の展示で初披露した新作

<勝鬘譜善知鳥版画曼荼羅>(しょうなまんふうとうはんがまんだら)

を出品、なんとこれが官展始まって以来の特選を得た。

 この吉報に棟方の支援者は大いに沸いた。

能の謡(善知鳥)を主題に据えてみないかと棟方に勧めたのは、

柳が紹介した*水谷良一だった。

 *(民藝同人{内務省統計局エリート官僚}仏典、茶道、能などに通じる

    極めて博識の趣味人で民藝運動にも大きく貢献した。 

    謡本の講和とともに、水谷は自ら能「善知鳥」を舞って見せた。

   「善知鳥版画絵巻」は水谷なくして生まれなかった作品である。

           (水谷良一と棟方志功)

            

 

 

そんなころ、友人の松木一家は東京・中野から郷里の青森に転居した。

そして、家族を実家に預け、松本満史はついにパリへ渡航を果たした。

すでに国画会の常連にもなっていた。絵の夢を現実に・・・・。

 

 自宅での祝いの宴を開いたのはこれが初めてであった。

  何本もの徳利が並んでいる~

 徳利の作者は・・・バーナード・リーチ、濱田庄司、富本健吉。

          

 李朝の白磁もある。

   

 下戸の棟方がこんなに立派な徳利を買い揃えられるはずもなく

 すべてこれまでに民藝館の先生方が持ち寄ってくださったものだ。

  四年前、食卓には野草が盛り付けられた皿が上がり、松木が

 来れば白湯を出すしかなかった。

 「あの頃、こった日が来るとは想像もできながったね」とは、

  松木の妻量の言葉である。

  わざわざ棟方夫婦のもとへ、夫の代わりに、お祝いとお手伝いを

  兼ねて駆けつけてくれたのだった。

 

  この<善知鳥版画>・・・題材は「能」である。

  実際に見たこともない、どういうものかさっぱりわからない。

  この難しい課題に踏み込むべく、棟方は代々木にある水谷の

  住まいへ出向き、教えを乞うた。

 

  呪文を唱えながら家へ駆け帰り、家の中へ飛び込んで叫んだ。

  「チヤ子ッ! 墨っ !」  びっくりしたチヤは、

  大あわてで溜めておいた墨を顔料皿に注いだ。

  水面に獲物をみつけたカワセミのように

  棟方はそこに真っ逆さまに筆を突っ込んで、一気呵成に下絵を

  描き始めた。

         

  

  黒い飛沫が墨を注ぎ足すチヤの顔に勢いよく

  飛んでくる。瞬く間に下絵が仕上がった。

 

 官展始まって以来、初の「特選」が、棟方志功の版画に

 もたらされたのだ。

 

 そして、

その日、快挙を祝う宴が棟方の家で開かれていた。

 

 柳が帰りしなに チヤに・・・

「奥さん、棟方は、まだまだこれからですよ」

  ふっと微笑んだ。

 

 新文展で特選を得てからというもの、棟方の暮らし向きは

 一気に変わった。

 今までに作った版画作品がよくうれるようになり、収入が 

 安定した。柳、濱田、河井には各界の名士碩学を引き続き紹介

   

 してもらい、その中には「白樺」同人だった作家志賀直哉

                  

 民藝の大スポンサーで倉敷の大原美術館の創設者・大原孫三郎

 とその息子總一郎もいた。

      

 

  故郷・青森では「棟方画伯」とよばれるようになり、地元の

 新聞には「棟方画伯 官展で特選」の文字が躍った。

 

  世間の見方も変わって来た。

 もはや棟方志功はいっぱしの「大芸術家」扱いであった。

 が、ここが ゴールではない。

 棟方はまだまだ高みを目指す気概に溢れていた。

 

 私(ブログ編集)は、これをアップする上で

 「棟方志功」を追いかけていますが、「板画」だけでなく

  彼のもうひとつ別の大いなる輝く面を見つけました。

  それが「手紙」です。

  資料を探していたら、こんな貴重な本を見つけたのです。

  「棟方志功の絵手紙」

   小池邦夫 石井頼子 共著

  *「小池邦夫」は、(絵手紙創始者)

   

  「ヘタでいい ヘタがいい」をモットーに人と人との

      心をつなぐ存在となった絵手紙。

 

 

   石井頼子            

   棟可志功の 長女けようの長女   

   棟方板画美術館学芸員として勤務後、現在は

   志功研究家として活躍。

 小池さんが著書に

  【ハガキの中に詩が噴出しているようにも見える。

    言葉と字と絵の三重奏が志功さんの絵手紙だ。

    手紙文学と言ってもいいのではあるまいか。

    この点でも憧れていたゴッホと共通である。】

    どれも一度読むと忘れない。

      短いが、心に深くしみいる最短の詩だ。

 

   この文句にも私は惚れた…是非、みなさんも愉しんでください。

    これから  「手紙」をご紹介しましょう。

 

  柳宗悦宛  昭和11年

    

   【 お導きの情深かいおことばありがとうございます

      主になるものを生かす為の線ではならぬ。

         実にありがたいおことばです。】 絵は「蛙図」

 

    昭和12年㋄27日

      

   【 明日出雲崎に行って良寛和尚さまの跡を

       辺る夢を夢をこれから見ます】絵「花図」

 

   昭和13年㋄7日

      

    【先日はありがとう存じました

       なんとなくお便りを出して見たくなりまして

            かきました】 絵 「花々図」

    *こんな手紙もらったら…いい気持ちですよね。

      志功の可愛い面でしょうか・・先生への甘え?も。

 

    昭和15年4月9日 

       

 

     【 永く失礼ばかりで居りますお赦しくださいませ。

        十一月朝おじゃま致したく用とてもない乍らも、

        おじゃま致し度く切々になりました。】            

              絵 (紅色紙)

  

  私・・・

    書家の字にも劣らぬ・・・いや、魅力はそれ以上かも?

    「いい字ですね」

    屈託ないというか、ほのぼの、躍るような、跳ねるような

     誰も真似ができない。 これが志功流なのでしょうね。

     読んでいて、思わず気持ちが素直に伝わってくる。

     最高の手紙の手本ですよ。

     現在の、下を向いて・・黙々と…の「スマホ族」に

     本来の、自分の気持ちをうまく伝えることの~

    「見本」に、是非。

  

  河井寛次郎宛 昭和19年㋁22日

      

     

      

 

      【先生大壮健願います。トヤマから本夜発って二十日ぶりに

         家にかへります】  絵(一輪挿図)

 

      次回分で まだ まだ アップします。 お楽しみに。

 

  

   棟方は次なる一手をすでに決めていた。

    かねてから課題となっていた「釈迦十大弟子」である。

 

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「板上に咲く」第11話

2024-04-03 | 日記

日本民藝館が開館した翌年、棟方の新たな挑戦が始まった。

 棟方は<大和し美し><華厳譜>を

     超える大作に挑もうと心に決めていた。

 

ある日のこと。

  チヤが台所で朝餉の支度をしているところへ

棟方が立っていた。

 「どしたの?」

 「まな板…、手にしたまな板を顔に近づけたり、

  表裏ひっくり返したり

   指先で弾いてみたり。」

     

 「このまな板どごで買ったんだ?」 

 

 それから半月ほど経った頃、大八車に載せられて六十枚の

 まな板が届けられた。

   「まな板… こぃに版画彫るんだ」

 

 …君には何をしでかすかわからないこわさと面白さがある。

   いつだったか、そんなことを柳先生に言っていただいた~

       

棟方は前代未聞の大作の構想を固めていた。

 題名も決めてあった。

  <開闢譜東北鬼門版画屏風>という。

もとより、「東北経」などという経典は存在しない。

棟方が祈りを込めて作った造語である。

 

 【 東北経鬼門譜は、詩人佐藤一英が陸奥の飢餓の話から着想を得て

   昭和10年「新韻律抄」の中で発表した(鬼門)と題する詩をモチーフ

   にして、昭和12年制作された。古来よ降り恐ろしい危難の待ち受ける

   「鬼門」と呼ばれた東北に在す故郷・青森の地の受けた凶作の宿命を、

   仏の力を借りて幸あらめたいという願いが込められています。

   この作品は版木120枚を縦に5枚、横に24枚並べた

    六曲一双、左右10mに及ぶ戦前期最大の作品です。

   左端に描かれた「真黒童女」右側が描かれた1枚が「阿童女」の柵です。】

     

 

     

 

 

 

 

 複数の版画を合わせて一枚の版画を作る…聞かされた松木がが

  「何枚くらいで作るんだ?」と尋ねたところ~

 

 棟方は…「版木、裏表合わせて百二十枚。全部違う絵。彫っで、摺る。

  で、最後さ全部合わせて、一枚の大きな絵にするんだ」

 

 効果とか、出来栄えとか、枠に収めるとか、美しく展示するとか、

 そんなことは二の次だった。

 とにかくこの作品を完成させる、そうしなければ次の段階へ進めないと

 心に定め、綿密に構図を検討し、下絵を準備し、彫りに掛かった。

 

 ようやく百二十枚の版画が摺り上がった日、棟方は大喜びで、柳に

 「摺り上がりました」と電報を打った。

 1937年(昭和12年) 日本民芸館主催の「民芸館秋季展」が銀座の

 鳩居堂のホールで始まった。

       

 <東北経鬼門版画屏風>はそこで初披露されることになっていた。

 

 作品は、狙った通りに圧倒的な出来栄えだった。会場の人々はとにかく

 その大きさに度肝を抜かれた。

 一見して誰もがこの六曲一双の屏風が版画とは思わないようだった。

 

 柳宗悦が屏風の前で腕組みして眺めていた~

 

 「棟方君、なぜふたつの屏風の真ん中に御仏を配置したんだ?」

        ☟            

   

 棟方は、柳の声色に不満があるのを敏感に察知した。

 ・・・それは、その、鬼門です。

  鬼門の道を。屏風の真ん中に通したのです。

  真ん中におわすのは、鬼門仏です。

   ・・・・身振り、手振りを交えて~一生懸命に説明した。

 

柳は黙したままだった。

 最後に全体を見渡して、並々ならぬ力作だね、と柳は

 一言でまとめたうえで、

 「・・・両端の人物群がとてもいい。

三幅対の軸に仕立てたいから、抜き摺りにしてくれないか?

民藝館にはこの六曲一双と抜き摺りの両方を収めることにするから。」

 

 棟方は驚きを隠せなった…が、おとなしくそれをおしいただいた。

 

 どうやって家路をたどったのか覚えていないほど、帰り道は

 頭の中が真っ白だった。

 「ワっきゃ、いい気なってあったよ」

     肩を落として、棟方はチヤに打ち明けた。

 

 「何作っても、柳先生はきっと喜んでくれる、

  褒めてくださると、思い込んであった。

  東北の祈りだとか、自分勝手に鬼門仏作るだとか、

  そったことはもっと修行積んでからやるべきことで

  いまはまだそうでね、いい気になるな、

     づで、先生は言いてんだど・・わかったよ」

 チヤには夫を励ます言葉がなっかた。

 

 この道は易からず。険しく、また果てしない。

 守らなければ。どうあっても、この人を支えなければ

 私が後押しをする。そうして、どこまでも進むのだ。

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「板上に咲く」第10話

2024-04-02 | 日記

柳の声である

「君の出現は画壇の事件と言ってもいい。

 君は僕たちの近年の最大の発見だ」

これは濱田だ

「根源から湧き出る力が君の絵にはある。

 版画と言えば版木の型より大きいものはないとう概念が、

 あの絵巻物で覆されたからな。まったくたいしたもんだ。

 

最後は河井だ

「君にはまだまだ伸び代がある。これからが楽しみだ。

 君のことは僕らで応援していこうと決めたから、どんどん

 いいものを創ってほしい。」

 

尊敬する三人の芸術家から賞賛を与えられた棟方は、

 うれしさのあまりだろう、涙声になって・・・・

  先生方にそったもったいね お言葉いただけるとは…」

 

 しばらく談笑していたが~

  ふと、柳が尋ねた…「ときに、君は独身なのか?

  随分こざっぱりとした部屋に暮らしているじゃないか」

 「はあ、自分ひとり食べていくのもやっとで~

          嫁コをもらうなんて」ときた。

 隣にいたチヤは思わずムカッとした。

 

 河井が思いがけない提案をした。

 「僕は来週京都へ戻る。君も一緒に来んか。

 汽車賃を出してあげるから、京都の僕の仕事場へしばらく

 きてみんか、幾日でも泊まってもらってかまわんよ」」

 棟方「ほ…ほんとですか? い、行きたい、行きたいです、

     すぐにでも! 」

 

 棟方はこの半月ほど家を留守にしているところだった。

 滞在先の京都での真新しい体験についてを~

 ほぼ毎日届く葉書には、弾けるような文字が躍っていた。

 

1937年(昭和12年) 東京・中野 

     ~1939年(昭和14年) ㋄ 東京・中野

 

柳たちは自分たちで見出した棟方志功というとてつもない原石を

 磨いて世に送り出してやろうと意気込んだ。

 棟方を擁護し、筆の力でこの新人を推しだした。

 また仲間内で後援会を組織して会費を集め、経済的にも

 棟方を応援した。

 

 柳たちの後ろ盾を得てからの棟方は変わった。

 棟方本人ばかりでなない。

 一家の生活が劇的に変わったのだ。

 一家は食べるのに困らなくなった。

      チヤにはそれが一番うれしかった。

 

 はたして、チヤが想像した通り、

 棟方の版画は加速度的に力と輝きを増した。

 

 昭和11年 東京・駒場に日本民芸館は開館した。

  

 館長には柳宗悦が就任。

 会館で披露された作品の中でも、ひときわ異彩を放っていたのが

 棟方がこの日のために創作した新作版画<華厳譜>23点の圧巻の

 展示であった。

 【 棟方の脳裏には異形の神仏が舞い降りてきて~

   毘盧遮那仏、釈迦如来、普賢菩薩、大日如来、日神、女神

   山神、風神…日は昇り、日は沈む大宇宙の森羅万象にあって

   棟方の中では神も仏も鬼も混沌として沸々とたぎり、異なる形

   と美なる飾を持って板上に立ち現れた。】

 「華厳譜」

      

           「扉」

      

           「風神」

 

  

民芸館での初披露、』その出来映えに誰よりも満足したのは

柳宗悦だった。

 彼は声を弾ませて棟方に言った。

「なんという輝き、なんという力だ! こんなにも粗削りで

 根本的な美を もろに突きつけてくるとは! 」

 

 

河井はこの「華厳譜」に対しての賛辞を文字にして残している。

「君と逢ってからの日は浅いが、吾々が交わった深さは深い。(略)

 遺憾なことに、真当のものは大抵は痛ましい中から生まれるものおだ。

 君もそういう籤を引いた一人なのだ。

 君は大抵の人がへこたれる処をいつも立ち上がってしまう。

 それでいて君はやさしい清い人だ。そういう君を思うと体中があつく

 なって来る。(略)

 

 この一文に棟方はいたく感激したようである。

特に「遺憾なことに…」の言葉は心に深く残ったようで

 板画作品にして残っている。

「遺憾なことにの柵」 昭和19年 1944年

  

 華厳譜を作り上げた時に、その苦労に対して河井寛次郎が贈った

 労いの言葉を棟方が板画にした。

 

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「板上に咲く」第9話

2024-04-01 | 日記

 1936年 (昭和11年) 4月 東京・中野

二軒続きの長屋のうちの一軒である。

 結婚して以来、ようやく家族が独立して暮らし始めた住処だ。

今日は、チヤが部屋を片付けている。

その日ばかりは、徹底的に掃除をせよ との棟方の指令だ。

夫のただならぬ意気込みに、チヤも気合が入っていた。

棟方は、「いいか。しつこいようだが、あらためて言っておく。

こぃから来る客人は、それはそれは偉ぇ、えれぇ先生方なんだ

「柳宗悦先生。  浜田庄司先生。 それに河井寛次郎先生。

       

  河井先生は、わざわざこの荒屋さ来るだめに京都がら

お出ましになる、づぅごどだ。

 それがどんだけすごぇことか、わかるか?」

 

棟方が17歳のとき、青森の画家仲間、小野忠明の下宿で見た

 芸術雑誌「白樺」。その中の1ページに<ひまわり>が絢爛と

咲いていた。

 「白樺」は1910年(明治43年)学習院大学に在籍する学生たちが

中心になって創刊された同人誌である。

      

 柳宗悦は、設立メンバーの一人であり、長らく編集長も務めた

リーダー的存在だった。

 

その柳宗悦が~偉い、えらぁい柳先生が、この日訪れるのだ。

今日は版画家・棟方志功にとっての大一番だ。

      夫の言に従おうと決めたのだった。

 

3週間ほど前のことである。

 その日、棟方は、上野の東京府美術館で開催される民間の

 団体美術展「国画会」の出品準備のために出かけて行ったきり

夕餉の時間になっても帰ってこなかった。

 

 この年、棟方はどうしてもやってみたかったは版画の大作を

完成させた。かねてから構想を温めてきた「版画絵巻」である。

満を持しての挑戦の題材に、佐藤一英の長詩「大和し美し」

選んだ。 

 緻密に画面の構成を検討し、下絵の準備をした。

結局、彫り始めるまでに2年を費やした。

 

 版画絵巻を成功させるには、全体を貫く主旋律となる「流れ」

作り出す必要があった。

 流れるように描き、流れるように彫った。 

 全20点、横一列につなげると7mを超える大作が完成した。

 

展示室では係員の男がひとりで展示作業中だった。

 棟方は係員に向かってにこやかに話しかけた。

「そこにある横長の額。それ、私の作品です。・・・

 これがら掛けるようでしたら、お手伝いします。」

「あなたですか? こんなとんでもないもん作ったのは」

 

ここで係員と、棟方は、作品の掛け方で・・・

  「この四つの額さ合わせて一つの作品なんです。

   そのうちのひとつだけでは意味をなさねんだ」

    揉め始めました~ 

 係員は「だめですよ。しつこいな」

 棟方「なんと言われようども、並べてください。

       お願いです、頼みます!」

 お互い一歩も譲らず・・・大声で言い合いになった。

 係員は、「とっと出ていけ、この田舎もんが!」

 

 棟方は男の手を振り切ると・・・

  いきなりその場にひれ伏した。

 「お願いします!全部、展示してください!

   ・・・・この通り! 」

 

 おい、君たち。 ーーーどうしたのか?」

 背後で声がした。  

 振り向くと男性がふたり、こちらの様子を窺っている。

   

 係員が「いや、この人の作品が…」と歯切れ悪く応えた。

 「作品がどうしたんだ!」男が訊いた。

     

 「ものすごくバカでかい版画~全部で四つあるんですが、

  そのうちひとつだけを展示すると言ったら、

  食ってかかられてしまって・・・ 」係員

 

 棟方「だから、ひとつでは意味がねんです。

      これは版画の絵巻物なんだ!

 四つ全部展示せねば完成されない作品なんです!」

 

 部屋に入ってくると、細身で長身の口髭の男が

 棟方に向かって言った

  「君。いま、版画の絵巻物と言ったね。

    ちょっと見せてくれないか」

棟方はすぐさま

 額の中のひとつをひっくりかえして見せた。

   <はじまり>

 

二人の顔に稲妻のような閃光が走った・・・

ふたつめを返すと、ふたりの目が鋭く輝いた。

  <倭建命>

 

三つ目を返すと、ふたりの口が半開きになった。

 

最後のひとつを返すと、

  <藻草>

 

  <おわり>

 

 

ふたりはじっとそれをみつめたまま、

動かなくなった。

「これは、すごい・・・この連続する文字・・・

  まるでざあざあ雨が降っているみたいだ。

  こんな版画は見たことがない」

  興奮しているのか、その声は熱を帯びて少し震えたいた。 

 

 「君、とにかく全部展示してくれたまえ

      私たちは工芸部の審査員だ。」

  版画部の審査員の先生方には言っておくから

  とにかく四点、すべて・・いいですね?」

 

  二人して棟方のもとへやって来た。

  「君、名前は?」

  「む…棟方。棟方志功と言います」

     

「棟方君。私は柳宗悦、彼は陶芸家の濱田庄司だ。

 私たちは君の作品に心底感じ入った。

いや、ほんとうに…すっかり持っていかれてしまったよ」

 

 

柳が棟方に向き合って言った。

「実は、私たちはこの秋、日本民芸館という美術館を

 開く予定にしている。その美術館の最初の収蔵品として

 この作品を買い上げたい。いいだろうか」

 

棟方は・・・絶句した。

やはり信じられなかった。 どうしても言葉が出てこない。

その代わりに、思い切り柳に抱きついたのだった。

続いて濱田にも。

  奇跡が起こったのだ。

 

「大和し美し」 昭和11年(1936年) 全20点 青森県立美術館

象徴派の詩人佐藤一英の同名の詩を版画にした。

内容は倭建命の一代記で、美夜受姫、弟橘姫、倭姫との愛と悔恨

を語り、望郷の想いを詠じる長詩である。

「物語風な連続的な版画、それに絵ばかりでなく文字を入れた最初の版画」

で、板画が本来持っている複雑性から発展し、次から次へと繰り広げられる

物語を、複数の板画が連続してつながっていく形で表現しようと試みた。

この作品を機に柳宗悦らに見出され指導を受けたことは、棟方のその後の

方向を決定づけた。

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続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。