15話まで続いた「板画に咲く」から離れて、戦後の棟方の活躍と
残された名作の数々を追いかけてみたくなった。
読者の皆さんも、もうしばらくお付き合いお願いいたします。
2023年発刊 「別冊太陽」掲載の中から「写真」、「文章」を一部 抜粋引用しております。
昭和20年
㋄、富山県西栃波郡石黒村法林寺に疎開
光徳寺の分家の家を借用することになった。
棟方はその家を「躅飛閣雑華堂」(ちょくひかくざっつけどう)と
名付けている。
「雑華堂」は棟方の堂号である。富山県と石川県の県境にそそりたつ
医王山を背景にした里山で、金沢へと続く「殿様街道」と呼ばれた古道
は、その近くに石堂のあるあたりはお気に入りの散歩コースだったという。
㋄25日 東京大空襲で代々木山谷の住居を焼失し、ほとんどの板木が
灰燼に帰した。
昭和21年
この年の暮れ棟方は町はずれの田圃の中に家を建てた。
生まれて初めて持つ自邸である。
棟方は土地を「愛染苑」(あいぜんえん)、
住まいの画室を「鯉雨画斎」(りうがさい)と名付けた。(アトリエ)
アトリエで揃った家族と友人
アトリエとして使っていた八畳間。
板戸には滝を登る鯉や鯰、亀まどが描かれている。
床の間には、柳宗悦による「ドコトテ 御手ノ真中ナル」の軸が掛けられている。
囲炉裏のある居間。 疎開時は大切に持参されたみちのく民藝の大霰釜が
かけられている。
棟方は家族六人でここに六年余り生活した。
文化芸術関係者が多く訪れ、囲炉裏のある部屋で夜通し語り合った。
トイレの壁に観音菩薩を描くことは棟方の習慣だったが、
「鯉雨画斎」でも最初に筆を揮ったのは「厠観音」だった。
今も残る画斎の厠観音は訪れる人の目を楽しませてくれる。
戦後第一作の<鐘渓頌>
京都五条にある陶芸家・河井寛次郎氏の「鐘渓窯」の名をかりて、
師恩に対する感謝の念を込めた戦後初の作品。
「鐘渓」とは河井のことで、棟方は河井に対して「鐘渓之神」
の大書を贈った。(昭和29年)
また、河井寛次郎自らの設計により建てられた自宅と陶房。
登り窯は河井亡き後の7年後に遺族の手により一般公開されている。
記念館が落成した際に、記念館の揮毫が棟方志功。
生涯に出会える人はほんの一握りである。
同じ時代に生まれ、しかも出会うことのできた奇跡ー。
今も二人は泉下で喜びあっているに違いない。
(河井寛次郎記念館学芸員)の言葉
棟方志功における師というと、まずはその作品に対しての美的、
仏教的指導を与えた柳宗悦であることは誰もが認めるとこであるが、
ものづくりとしての作家の在り方、心情、そして共感、喜びを
同一線上で共有できたのは、この河井だったのかもしれない。
棟方はその河井に対し、戦後すぐ、
つまり富山県福光に疎開してすぐに、二十四柵からなる
「鐘渓頌」と題した河井を讃える板画作品を残している。
現実汚濁の此岸から中岸を経て、理想郷の彼岸に達する道程を
24の像で表した。「白地模様に黒い身体」と
「黒地、または黒っぽい地模様に白地模様の身体」という規則的な
構成だが、一点一点それぞれに独自の世界を持っている。
黒の地に人体の輪郭、顔、乳、臍などを白い線で彫り込む表現は
この作品から始まった。
<倭桜(やまとざくら)>
<此岸(しがん)>
<若栗(わかくり)>
<朝菊(あさきく)>
この年の10月 この<鐘渓頌>の作品で日展岡田賞受賞