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棟方を追いかけてみるよ~ 第2話

2024-04-18 | 日記

この棟方志功の板画について続けていますが、皆さん

 倉敷の「大原美術館」はご存じですよね。

 

その大原家と棟方志功との関係を少し覗いてみましょう。

      

倉敷市の歴史は大原家と共にある。と言っても過言ではない。

元々大地主だった大原家だが、七代目大原孫三郎氏の代で現在の倉敷

の姿が整った。倉敷紡績が発展のためにと考えた結果が、病院、学校

銀行などなど様々な形で町の繁栄を促していった。

日本最初の私立美術館であり西洋美術館でもある大原美術館が開館

したのが昭和5年。

その孫三郎を父とする大原総一郎は棟方志功と深い関係にあったのです。

      

 昭和11年に東京・駒場の「日本民藝館」が開館できたのも

 孫三郎からの寄付あってのことだった。

 その半年前、民藝運動の一番若い同人として無明け入れられたのが

 棟方であった。

 開館記念展で大広間の壁画を飾った棟方の「華厳譜」の中の数点を

 柳宗悦イギリスのバーナード・リーチに送り、ロンドンの画廊に

     

 展示したそれを外遊中の大原総一郎が認めていたという数奇な経緯

 があるのです。

 

少し遡りますが、昭和13年、

欧州各国の繊維工場視察の旅から帰った総一郎の基調を祝う園遊会で

棟方は初めて総一郎とまみえた。

 その前日、孫三郎の計らいで、棟方は茶席に招かれた。

「息子が棟方さんのことを大好きで、なにか書いてもらいたい

  と言っています。初めに襖絵を描いてくれませんか」

「僕の部屋全体に描いてほしい」と言った総一郎は

「思想の燦然とした若い意欲が、その人の身体に光っているような」

青年だったと棟方は回顧する。

         襖絵「御群鯉図」

      

この時の依頼で昭和14年暮れ、大原邸の襖に絵を描くこと許された最初の

画家となった棟方だったが、以来、毎年のように倉敷を訪ね、大原家に

質量ともに豊かな作品を残している。

 

        大原総一郎の想いを形にする志功

   「御群鯉図」 昭和15年頃 墨画淡彩 襖15面 

   父・孫三郎の秘書夫婦が墨を磨るための水を汲みに行っている間に、

    棟方が一気に描き上げたという伝説が残っている。

    どうです、今にも襖から飛び出してきそうだ・・・・

     

  

  

  

 

 昭和25年 大原は富山市東岩瀬に新工場を開設した。

 社運をかけての大事業であった。この時大原は「新製品ビニロン開発に社運

 を賭けるこの気持ちを作品にしてほしい」と、棟方に作品制作を依頼した。

 ベートーベンの「運命」に主題を取り、ニーチェ著「ツァラトゥストラ」

 全文を入れた四図の組み合わせである。

 棟方自身、「運命」を賭ける思いで制作にあたり、板に直接、下絵も描かず

 に彫り上げたと言われている。

 

       

  一部拡大

    「集めたる蜜蜂のごとし ・・・

         斯くしてツァラトゥストラの没落は始まりぬ」

  

 

 大原は棟方の本質を鋭く見極め、時には厳しい言葉で浮ついた棟方を戒めた。

 棟方は棟方で、大原が求める精神性の高い課題によく応えた。

 両人の関係は単なる支援者と画家という枠を大きく超え、互いを高め合う

 奥深いものであった。

            

  

 

  「玉 琢かざれば器を成さず 人 学ばざれば 道をしらず」

                    (昭和19年 倉紡記念館 墨書彩色・襖4面)

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