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黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

「板上に咲く」第15話

2024-04-07 | 日記

無骨な手が肩先に降れるのを感じた。

チヤはぴくりと身体を震わせた。

「・・・チヤ子 ありがとう。よぉく帰ってきてくれた」」

チヤは、そっと顔を上げた。

「ったく、わかんねのか? 

 ワぁの命にも等しいもんは板木では、ね。・・・おメだ」

 

 ようやく、チヤは気がついた。

 自分はひまわりだ。

 棟方という太陽を、どこまでも追いかけてゆくひまわりなのだ。

 棟方が板上に咲かせた花々は数限りない。

 その中で、もっとも力強く、美しく、生き生きと咲いた大輪の花。

 それこそが、チヤであった。

    

   

    終章 1987年 (昭和62年) 10月 東京 杉並

       

ここから、本編の主人公 

     棟方チヤさんの回想部分の話に入っていきます。

                 

  あの人は、多くの熱心な支援者に恵まれた、運の強い人でした。

 でも、運がよかっただけじゃない。決めたことを成し遂げるまで

 決してあきらめない不屈の精神、人一倍の努力を重ねたからこそ、

 運気を呼び寄せたんじゃないかと思います。

 

私たち夫婦の人生を振り返ってみると、いくたびも、

「あのとき、もしも…」と思わずにはいられないことがありました。

出会ったあの日、もしも私がイトちゃんの家に行っていなかったら。(第2話)

再会した日、もしもお互いに弘前のデパートに居合わせなかったら。(第4話)

国画会の展示場で、もしも柳先生と濱田先生が偶然廊下を通りかからなかったら。(第9話)

戦時中、もしも疎開先を富山ではなく青森にしていたら。(14話)

大空襲の前日、こしも<釈迦十大弟子>の板木の梱包材として

送り出していなかったら。(第14話)

もしも、もう一日だけと粘って、あの夜、私がひとりで代々木の家に

残っていたら。(第14話)

 もしも・・・そう、もしもあの人がゴッホと出会ったいなかったら。(第5話)

すべての「もしも」の分かれ道にあの人

最善の道を選んでいた。そういうふうにできていた。

と思われてなりません。

 

悲しい運命に終わった「もしも」もあります。

我が家の聖画だったゴッホの<ひまわり>。

空襲に燃え尽きた板木とともに、あの複製画も灰になってしまった。

 ・・・もしもあの戦争が起こらなっかったら。

 

大空襲の前日に、梱包して送った「家財道具」<釈迦十大弟子>の板木。

あの大混乱の中で、奇跡的に届いたんです。

 命拾いした大切な板木。無駄にするわけにはいかないと、棟方は

二菩薩を彫り直して、再び六枚の板木を揃えました。

あるとき、思いがけないチャンスが舞い込みました。

ブラジルのサンパウロで開催される国際美術展、サンパウロ・ビエンナーレに

棟方の板画作品が出品されることに、新作の他、<二菩薩釈迦十大弟子>を選び

改めて摺り直し、躍動する造形が海を越えて人々の心をつかみました。

 棟方が版画部門で最優秀賞を受賞したんです。

 こおれにはあの人も私も驚きました。

 柳先生も濱田先生も河井先生も、棟方がやってのけた。

 とそれは喜んでくださって。

    

 翌年のヴェネチア・ビエンナーレにも同様に新作と<二菩薩釈迦十大弟子>が

送り込まれました。そして棟方にもたらされたのが、ヴェネチア・ビエンナーレ

のグランプリ、国際版画大賞だったのです。

   日本のゴッホになる、とあの人は最初、言いました。

だけど結局、あの人は、ゴッホにはならなかった。

ゴッホを超えて、とうとう、世界の「ムナカタ」になったんです。

 

         

最後に、とっておきの話をお聞かせしましょう。

 

 世界的に「ムナカタ」の名前が知られるようになったあと、私たちは世界中の

あちこちからお招きを受けて、ありがたく出かけてゆきました。

アメリカ各地、ヨーロッパ諸国、インドも訪問しました。

 

 中でも忘れられないのが、フランス。

 棟方たっての希望で、ゴッホが人生の最後に暮らしたという小さな村、

 オーヴェル=シュル=オワーズを訪ねました。

 村はずれに共同墓地があります。

 そこにゴッホと弟のテオのお墓があり、兄弟が仲良く並んで眠っています。

  

   棟方が板画にした「ゴッホ兄弟の墓の柵」

  

  

 ニューヨークフィラデルフィアの美術館で、棟方はついにゴッホの

 「本物」の絵を見ることができました。

   

   ニューヨーク(メトロポリタン美術館)

    <2本切ったひまわり>     <ゴッホ自画像>

      

  フィラデルフィア美術館 <ひまわり>

     

 「白樺」の1ページに初めて<ひまわり>を見た日から40余年が経って

  いました。

 

  ちょうどブログをアップし始めた先月に

「  雑誌「芸術新潮」4月号が発売され

     

   ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ

    原田マハ のポスト印象派物語 」を読んでいました。

  奇しくも・・・この中に

  原田マハさん  この「板画に咲く」に合わせて?

  ゴッホ ゆかりの 「オーヴェル・シュル・オワーズ」を

  訪ね、ゴッホ兄弟の墓地に・・・

    なんと計算された・・・と。

  それが この写真。

  =  原田マハ ゴッホ兄弟に墓の前で =

     

 

  ・・・・あの人は

  ゴッホ兄弟のお墓に向かって深々と頭を下げました。

  そしてこう言ったんです。

  お許しください、ゴッホ先生。

   ワんどの墓、そっくりに造らせていただきます。

 

     まったく、あの人ときたら。

 

   

「わだばゴッホになる」という棟方の言葉

 愛するゴッホの墓と同じ形をした棟方と奥様チヤさんの墓

   左が棟方とチヤさんのお墓

   右は棟方家の墓

 

 

 チヨさん「ずいぶん長い話になってしまいましたわね。

          ありがとうございます。」

 

 

  これで 「原田マハ (板画に咲く)1~15話 

   変?編集 私のブログも 15話で終わりたいのですが・・・

  原田マハさんの小説から離れ、少し時間を戴いた後

  戦後の活躍作品についてと、

  まだ紹介していなかった「手紙」などを と思ってます。

    「ムナカタ志向美術館」とでも題しましょうか?

 私のブログも ながながとお付き合いいただき

         ありがとうございました。

      それでは また よろしく (^_-)-☆

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「板上に咲く」第14話

2024-04-06 | 日記

1944年(昭和19年) 東京・代々木 

    ~1945年(昭和20年) 富山・福光

 

 チヤが洗濯物を干している。

広々と手入れの行き届いた庭である。

  鯉が泳ぐ池・・・趣味のいい景色を作っている。

  

 家の中からはピアノの調べが聞こえてくる。

  なかなかなメロディーを奏でている。

    長女の「けよう」が弾いているのだ。   

 

 チヤは…ふと、気がついた。

 いま、自分が見ているのは、「名ばかりの夫婦」になったあの頃、

 夢に描いた光景ではないだろうか・・・・。

 棟方一家六人が暮らす家。そのお邸宅は、あの頃夢見た

 「いつか一緒に暮らす家」そのものだった。

    ~いや、それ以上だった。 

       

  かって水谷良一が住んでいた家である。

 棟方によかったら自分の旧宅を貸そうかと申し出てくれた。

   ようやく夢のひとつがかなった。

 

  気がつけば、ごく自然に「棟方画伯」「棟方先生」

 呼び習わされるようになっていた。

  弱視の版画家。顔を板すれすれにこすりつけ、這いつくばって、

   全身で板にぶつかっていく。

  見る者をおのれの世界へ引きずり込む強烈な磁力の持ち主。

  版画家の可能性をどこまでも広げる驚異の画家。

   ゴッホに憧れ、ゴッホを追いかけて、棟可志功はゴッホの

  向こう側を目指し始めていた。

  何人たりとも到達しえなかった高みへと。

  そしていま、満ち足りた創作を続ける日々をおくっている。

 

  この幸せが、どうかいつまでも続きますように。

 

1941年(昭和16年) 12月8日、

  日本によるハワイ・真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まった。

 

 若者たちが次々に出世し、その都度万歳三唱の声が街角で上がった。

 棟方は出征すする若者たちへ虎を描きつけた褌を贈って励ました。

 

  ようやく手に入れた穏やかな暮らし。 ささやかな幸せ。

 戦争がそれをやがて奪い去る気がしてならなかった。

 

戦争が始まって3年目のある日。

配給の列の並んだチヤは、近隣に住むふたりの夫人が声をかけてきた。

   「ね、奥さん。人から聞いた話だけど、

    藤田嗣治先生は、戦地に派遣されて、兵隊さんたちが立派に戦う

    絵をお描きになったとか。お宅の先生はどうなの?」 ・・・・。

         

 

   チヤは言葉を濁し・・・その日配給だった品を籠に入れ家路に~。

  どこの家だろう、戦況を伝えるラジオの音声が漏れ聞こえてくる。

 

 生涯の代表作となる「二菩薩釈迦十大弟子」を完成させた棟方は、白と黒で画面

構成をなす「版画」というものに対する考えをさらに深めていく。

 一枚の版木から何枚もの」作品が生まれていくこと、たくさんの作品が連なって

一つの作品を構成できること、版木を並べていけば大きな画面も作れること。

すべてが「広がり」「繋がり」であること。

 そんなことを考える時期でもあった。

 

 1945年(昭和20年)が明けた。

 日本の戦況はいよいよ怪しくなってきた。

 

 棟方はこの状態から一刻も早く家族を脱出させることを考え

 続けているようだった。

 空襲警報が鳴りやまない夜、壕の中で棟方がぼそりと言った。

 「もう疎開するしか、ね」  チヤに言った。

 「すたばって、どこへ? 青森に帰るの!」

 「青森には、帰れね。故郷に錦を飾るならまだしも・・・

  東京から逃げてきた、なんつのは・・・

     そった恥さらしなことは。できね」

  「へば、どこへ?」 

 一拍おいて、棟方が答えた。

  「富山だ」

 

   「疎開を決めたこと 高坂住職への手紙」

    「無事お恩をうけてかえりました。さっそくに法林寺ソカイ決めました。

      何卒のおかばいをねがひます。御奥様にもくれぐれもよろしく。

      くわしく次便にて描きます。いただきも家中外大よろこびです。

  

 

4月、棟方一家は福光への疎開を決行した。

富山県南西部に位置する西砺波郡福光町(現・南砺市) 

          

 町の西、石黒村法林寺の真宗大谷派寺院光徳寺

     

 

 住職高坂貫昭とは昭和15年以来河井寛次郎に紹介されてた縁で、

 以来毎年のように光徳寺を訪ね、訪ねるごとに筆を揮った

  襖いっぱいに枝を広げる松の木の大木を描き、住職をはじめ

 見物に来ていた近隣の住人たちの度肝を抜いた。

  

  <華厳松>と題されたこの襖絵は瞬く間に地域の名物になり、

 珍しいもの見たさに訪れる人が弾きも切らなかった。

    「 昭和19年(1944)六面 倭画 襖 光徳寺

       疎開に先駆けて光徳寺の依頼を受けて制作された。当初は建具として使用されていた。」

         *「倭画」=棟方は、自分が描く絵を「倭画」と呼ぶことにした。

 

 

  疎開を勧める高坂の熱意が棟方の心を促した。 

  故郷青森にも似た自然の姿、知己の多さ、交通の便、木材の産地・・・

  いくつもの要素が相まって、棟方は福光を疎開先と決めた。

 

    高坂貫昭(1904~1992)富山県

  真宗大谷派「光徳寺」住職 文学青年で「白樺」を愛読していた

   貫昭氏は柳宗悦の文章に感銘を受け民芸運動に関わっていく。

   棟方とも交流がある。

  お寺には蓮如上人の真筆など寺宝も豊富な真言寺院ですが全国的に

  その名を知られているのは、棟方の作品を多く展示していることに

  よります。

 

 

 まずはチヤが子供たちを連れて先に疎開先へ行き、棟方は家財道具を

 送り出したのちに遅れて富山入りすることにした。

 チヤの福光行きが困難を極めることは目に見えていた。

 

  棟方一家の写真 (昭和21年正月) 戦後の写真

   

    写真前列 長男 巴里爾(10歳) 志功(42歳)次男令明

         後列 長女けよう(12歳) 次女ちゑ(8歳)妻チヤ(36歳)

     

 まず「けよう」と幼い「令明」を連れて出発し、伊豆湯ヶ島に立ち寄り

 学童疎開中の「巴里爾」「ちよ」を引き取り、子供4人を連れて、福光

 へと移動する。

      

  当時の列車の混雑ぶりは想像を絶するほど、また幾度もの乗り換え

 夫がいてくれたら助かる・・・と・・・チヤはこらえた。

 

  棟方には「必要不可欠な家財道具」をまとめて無事に送り出して

 もらわねばならない。

  ***それはすなわち板木であった。

     板画家・棟方志功の命にも等しい大切な板木を残していく

     わけにはいかないのだ。

 

 福光行きは苦行としか思われぬ行程であった。

 何時間も駅で待ち、満員の車内に窓から乗り込み・・・

 どうにかこうにか福光にたどり着いた。

 

 棟方が用意していた坂の上の古民家に落ち着き

 近隣へあいさつ回って…チヤはようやくひと息ついた。

       *******

 そこへ棟方が意気揚々とやってきた。

 「や、みんな無事だったか? えがった、えがった。」

 

 最低限これだけは自分で持ってきた、という棟方の荷物を

 解いてみて、チヤは愕然とした。

 板木だとばかり思っていたそれは、なんと濱田庄司の大皿

 河井寛次郎の壺だった。

     

  数日後に到着した東京からの荷物の中身も同様で、

 棟方秘蔵の先生方の陶器や柳宗悦から贈られた書籍だった。

 

 棟方は一点一点確認して、

 「おお、この皿、無事だったな。全部無傷だ。うん うん」

 チヤは、我に返って「…板木は? 板木は送らねがったの?」

 

               二人は押し問答を繰り返す。

 

 「おメさの大事なもの…命にも等しいものでねが?」チヤ

  棟方「戦争が終われば代々木の家に帰るんだ。

           それまで置いといても」

  チヤ「違う!~ 私らはここに疎開したんだよ?

   東京で空襲があったら、あの家も丸ごと焼かれてしまうかも

   戻れる保証もない、板木だって無事である保証はない」

 

  棟方は黙りこくってしまった。

  「私、東京へ行ってくる」

   チヤは立ち上がると、きっぱり言った。

  「板木、送る手配してくる。

     子供たちのこと、頼みます」

 

 チヤは大混雑する上野駅の荷物運搬所に来ていた。

「板木を見て、係員は生活必需品でない・・・の理由で

 送れないと…何度懇願してもダメだった。

 自宅に帰り着いて、棟方からの手紙がどっさり届いていた。

「帰って来い、早く帰って来い、子供たちの世話が大変だ。」

  と・・・。

 夫の様子が手に取るようにわかる。

  チヤはくすくす笑いが止まらなくなってしまった。

 

 部屋の壁に、いちめん墨が敷かれた真っ黒な縦長の板木

 …<二菩薩釈迦十大弟子>の板木がかけられていた…

 チヤはひらめいた。

    

     (この板木、よ~く見てくださいよ。

        十大弟子を彫っているのですよ…分かる?)

 板木をチェアーの周りに縄でくくり、布で梱包して

 「家財道具」として送り出す。 というアイデア~。

 

 駅の係員が「椅子」ね。

    富山県、福光まで… ハンコをポンと捺した。

 

 帰らなければ、一刻も早く。上野駅で何時間も待った。

 どうにか座席を確保できた。

 うつらうつら・・・どのくらいの時間

   汽車は走っていたのだろうか。

 突然、ガタンと大きく揺れて、チヤは目を覚ました。

 車内がざわつき始めた。

 人並かきわけ、車掌がやって来た。

 しゃがれ声で彼は叫んだ。

 「通告! 東京で今までにない規模の大空襲があった模様!

  敵機が関東上空を通過するまで停車します!」

   

     「 大空襲 ! 」

 

  チヤの向かいの男性があわてて窓を開けた。

   冷たい夜気と蒸気の臭いがどっと流れ込む。

  彼方の空が夜明けのように明るんでいる。

 

  

     ・・・燃えている。 東京の街が。

 

 ああ、ああ・・・ああ! 

   代々木の家。 板木の数々。

    めらめらと<ひまわり>の複製画…。

       

 

 駅から続くまっすぐな道。

  チヤは絶望に足を引きずりながら歩いていた。

  走り寄るひとりの男がいた。棟方だった。

  「…チヤか?」

  「はい。 ただいま戻りました」

  「そうか、帰って来たか。そうか、そうか。

    よぉく帰って来てくれた…」

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「板上に咲く」第13話

2024-04-05 | 日記

昭和14年

  「手元に丁度六枚の板がありまして、

   曲がったり端が欠けているような板でしたが、

   わたくしはこの表裏に釈迦十大弟子を彫ろうと決めました。

            (「私の履歴書」日本経済新聞 1974年)

   

                             (釈迦十大弟子を制作中の棟方」

  棟方は柳から借りた資料と自分で集めた資料を合わせてすでに

  この題材に取り組んでいた。

 大いに興味のある題材だったが、いま、ひとつ創作意欲の発火点を

 見出せずにいた。

 

  「釈迦十大弟子」柳宗悦直々に提案された画題だ。

 棟方の気合の入り方は尋常ではなかった。

 毎日首っぴきで資料に当たり、白い紙を前にして髪を搔きむしっては

 悶々としていた。

 

 あるとき、上野へ展覧会を観に行ってくる、とふらりと出かけた

 棟方は、夕方近くにしんみりした表情で帰った来た。

  その夜、いつも通りに家族で夕餉の食卓を囲んだ。

 棟方はどこかぼんやりとした様子で、箸の動きも鈍かった。

 

  ややあって低いつぶやき声が聞こえた来た。

    「・・・須菩提(しゅぼだい)・・・」

  「えっ?」 チヤは聞き返した。「しゅぼ・・・?」

  「今日、観できだんだ。 須菩提の仏像

 上野の博物館で開催されていた興福寺展に行ってきた。

  そこに釈迦十大弟子の国宝仏が揃い踏みしていた。

  そのうちのひとつ、須菩提が強烈な磁力を放っていた。

 

      (興福寺 国宝 須菩提像)

           

   太古の世から忽然と眼前に出現した須菩提は、異様な霊力でじりじりと 

   棟方を締め上げる。仏像と目を合わすうちに、いま、自分がどこにいるのか、

   なぜそこにいるのか、何をしているのか、だんだんわからなくなってきた。

   周囲にあるものすべてが急激に遠ざかり、やがて完全な無音になった。

   久遠の闇の中に自分は浮かび上がっていた。

   仏像の体内に吸い込まれそうになって、我に返った。

   頬には涙がいく筋も伝わっていた。

  

  そう聞いて、即座にチヤは「始まった」と感じた。

      始まったのだ・・・震動が。

 夫の表情は見えなかったが、涙を流している気配があった。

  それとも動揺しているのだろうか。

 棟方は天井を仰いで、しゃがれた声を振り絞った。

 「・・・見えね、んだ。 もう・・・」 棟方の左目は、

  視力を失いつつあった。

  

 今日そうなったわけではない。実はもう何か月も前からそうなっていたことを

 初めてチヤに打ち明けた。薄らいでいく視界の中で<善知鳥>を仕上げたのだと。

         チヤは絶句した。

 

  「目隠しして、彫る!」

 棟方は、ひとつ、深い息をついた。

  それから、両手を畳について、彫刻刀を探り当てた。

  右手にそれを持ち、左手で版面を撫でる。

  もうひとつ深呼吸をしてから、這いつくばって彫り始めた。

    

  あの人は、自分の体も、命も、版画になってしまうということを願っているのだ。

            いま、わかった。

         版画こそが、あの人なのだと。

 

   こうして、<二菩薩釈迦十大弟子>がこの世に生まれ落ちた。

       普賢菩薩             文殊菩薩

     

 

     

   興福寺展で「須菩提」が強烈な磁力を放っていた・・・という

    彼の彫刻刀が…彫ったのが。 これだ!

              「須菩提」

        

 

 

 摺り上がった彼らに向き合ったとき、チヤは自然と両手を合わせ、

 涙が頬を伝うのをどうにも止られなかった。

 

 感謝とか感動とか、全部ひっくるめて、ただただ泣けた。

 

棟方は薄手の板に十二枚の版画を挟み、しっかりと背負って家を出た。

行く先は柳宗悦宅である。

 自らが与えた課題への答えを目にして、師は一体なんと言うだろう。

まるで最後の審判を受けるかの如く、棟方は張り詰めていた。

 

   その日の夜遅く~玄関の引き戸が勢いよく開いた。

     「・・・チヤ子」

   一瞬、棟方がぐっとにらむような目つきで…顔をチヤに

   近づけて。

             

   先生が…柳先生が…<十大弟子>をな。

    驚くべき、最高の出来栄えだ、 づで… 」

 

       あとは言葉にならなかった。

 

 私がこの「二菩薩釈迦十大弟子」を観たのは・・・随分前だ。

 福岡県立美術館で「棟方志功 祈りと旅」の企画展のこと。

   (2011年 ㋄)

 朝日新聞 掲載のコラムより

【 棟方志功の生涯を通じての画業の中から、いくつかの代表的作品を数えるとすれば、

   この<二菩薩釈迦十大弟子>は必ず挙げられるのみでなく、代表作のなかでも最も

   知名度の高い作品である。簡潔で、力強く、ダイナミックな迫力に満ちており、

  12人いずれも主役といった豪華ドラマである。

   文殊と普賢の菩薩を両脇に配し、内側に十代弟子が並ぶ。

   頭の向きや手・指先のしぐさには、構図のバランスが巧みに工夫され、衣と足先は、

   白と黒の面が交互に現れるように配色されている。モノクロ、線と面という単純な

   画面でありながら、そこには緊張感と清らかさがみなぎる。

   祈りの美である。

    本作品をサンパウロ・ビエンナーレとベネティア・ビエンナーレに出品し、

    日本人初のグランプリを受賞した。 】

 美術館を出て強い太陽の陽ざしを浴びながら歩く道すがらも

  興奮を隠しきれなかった。 いま また当時を思い出した。

 

 

原田マハは、「棟方の想い」を・・・表紙にもした。

  いや、これはきっと作者が考えた「棟方の想い」ではないか?

   

  

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「板上に咲く」第12話

2024-04-04 | 日記

チヤが熱燗をつけている。

この日、棟方家では祝賀会が開かれていた。

 

 この年の秋、新文展(旧官展)の版画部門に、棟方は、

日本民藝館の春の展示で初披露した新作

<勝鬘譜善知鳥版画曼荼羅>(しょうなまんふうとうはんがまんだら)

を出品、なんとこれが官展始まって以来の特選を得た。

 この吉報に棟方の支援者は大いに沸いた。

能の謡(善知鳥)を主題に据えてみないかと棟方に勧めたのは、

柳が紹介した*水谷良一だった。

 *(民藝同人{内務省統計局エリート官僚}仏典、茶道、能などに通じる

    極めて博識の趣味人で民藝運動にも大きく貢献した。 

    謡本の講和とともに、水谷は自ら能「善知鳥」を舞って見せた。

   「善知鳥版画絵巻」は水谷なくして生まれなかった作品である。

           (水谷良一と棟方志功)

            

 

 

そんなころ、友人の松木一家は東京・中野から郷里の青森に転居した。

そして、家族を実家に預け、松本満史はついにパリへ渡航を果たした。

すでに国画会の常連にもなっていた。絵の夢を現実に・・・・。

 

 自宅での祝いの宴を開いたのはこれが初めてであった。

  何本もの徳利が並んでいる~

 徳利の作者は・・・バーナード・リーチ、濱田庄司、富本健吉。

          

 李朝の白磁もある。

   

 下戸の棟方がこんなに立派な徳利を買い揃えられるはずもなく

 すべてこれまでに民藝館の先生方が持ち寄ってくださったものだ。

  四年前、食卓には野草が盛り付けられた皿が上がり、松木が

 来れば白湯を出すしかなかった。

 「あの頃、こった日が来るとは想像もできながったね」とは、

  松木の妻量の言葉である。

  わざわざ棟方夫婦のもとへ、夫の代わりに、お祝いとお手伝いを

  兼ねて駆けつけてくれたのだった。

 

  この<善知鳥版画>・・・題材は「能」である。

  実際に見たこともない、どういうものかさっぱりわからない。

  この難しい課題に踏み込むべく、棟方は代々木にある水谷の

  住まいへ出向き、教えを乞うた。

 

  呪文を唱えながら家へ駆け帰り、家の中へ飛び込んで叫んだ。

  「チヤ子ッ! 墨っ !」  びっくりしたチヤは、

  大あわてで溜めておいた墨を顔料皿に注いだ。

  水面に獲物をみつけたカワセミのように

  棟方はそこに真っ逆さまに筆を突っ込んで、一気呵成に下絵を

  描き始めた。

         

  

  黒い飛沫が墨を注ぎ足すチヤの顔に勢いよく

  飛んでくる。瞬く間に下絵が仕上がった。

 

 官展始まって以来、初の「特選」が、棟方志功の版画に

 もたらされたのだ。

 

 そして、

その日、快挙を祝う宴が棟方の家で開かれていた。

 

 柳が帰りしなに チヤに・・・

「奥さん、棟方は、まだまだこれからですよ」

  ふっと微笑んだ。

 

 新文展で特選を得てからというもの、棟方の暮らし向きは

 一気に変わった。

 今までに作った版画作品がよくうれるようになり、収入が 

 安定した。柳、濱田、河井には各界の名士碩学を引き続き紹介

   

 してもらい、その中には「白樺」同人だった作家志賀直哉

                  

 民藝の大スポンサーで倉敷の大原美術館の創設者・大原孫三郎

 とその息子總一郎もいた。

      

 

  故郷・青森では「棟方画伯」とよばれるようになり、地元の

 新聞には「棟方画伯 官展で特選」の文字が躍った。

 

  世間の見方も変わって来た。

 もはや棟方志功はいっぱしの「大芸術家」扱いであった。

 が、ここが ゴールではない。

 棟方はまだまだ高みを目指す気概に溢れていた。

 

 私(ブログ編集)は、これをアップする上で

 「棟方志功」を追いかけていますが、「板画」だけでなく

  彼のもうひとつ別の大いなる輝く面を見つけました。

  それが「手紙」です。

  資料を探していたら、こんな貴重な本を見つけたのです。

  「棟方志功の絵手紙」

   小池邦夫 石井頼子 共著

  *「小池邦夫」は、(絵手紙創始者)

   

  「ヘタでいい ヘタがいい」をモットーに人と人との

      心をつなぐ存在となった絵手紙。

 

 

   石井頼子            

   棟可志功の 長女けようの長女   

   棟方板画美術館学芸員として勤務後、現在は

   志功研究家として活躍。

 小池さんが著書に

  【ハガキの中に詩が噴出しているようにも見える。

    言葉と字と絵の三重奏が志功さんの絵手紙だ。

    手紙文学と言ってもいいのではあるまいか。

    この点でも憧れていたゴッホと共通である。】

    どれも一度読むと忘れない。

      短いが、心に深くしみいる最短の詩だ。

 

   この文句にも私は惚れた…是非、みなさんも愉しんでください。

    これから  「手紙」をご紹介しましょう。

 

  柳宗悦宛  昭和11年

    

   【 お導きの情深かいおことばありがとうございます

      主になるものを生かす為の線ではならぬ。

         実にありがたいおことばです。】 絵は「蛙図」

 

    昭和12年㋄27日

      

   【 明日出雲崎に行って良寛和尚さまの跡を

       辺る夢を夢をこれから見ます】絵「花図」

 

   昭和13年㋄7日

      

    【先日はありがとう存じました

       なんとなくお便りを出して見たくなりまして

            かきました】 絵 「花々図」

    *こんな手紙もらったら…いい気持ちですよね。

      志功の可愛い面でしょうか・・先生への甘え?も。

 

    昭和15年4月9日 

       

 

     【 永く失礼ばかりで居りますお赦しくださいませ。

        十一月朝おじゃま致したく用とてもない乍らも、

        おじゃま致し度く切々になりました。】            

              絵 (紅色紙)

  

  私・・・

    書家の字にも劣らぬ・・・いや、魅力はそれ以上かも?

    「いい字ですね」

    屈託ないというか、ほのぼの、躍るような、跳ねるような

     誰も真似ができない。 これが志功流なのでしょうね。

     読んでいて、思わず気持ちが素直に伝わってくる。

     最高の手紙の手本ですよ。

     現在の、下を向いて・・黙々と…の「スマホ族」に

     本来の、自分の気持ちをうまく伝えることの~

    「見本」に、是非。

  

  河井寛次郎宛 昭和19年㋁22日

      

     

      

 

      【先生大壮健願います。トヤマから本夜発って二十日ぶりに

         家にかへります】  絵(一輪挿図)

 

      次回分で まだ まだ アップします。 お楽しみに。

 

  

   棟方は次なる一手をすでに決めていた。

    かねてから課題となっていた「釈迦十大弟子」である。

 

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「板上に咲く」第11話

2024-04-03 | 日記

日本民藝館が開館した翌年、棟方の新たな挑戦が始まった。

 棟方は<大和し美し><華厳譜>を

     超える大作に挑もうと心に決めていた。

 

ある日のこと。

  チヤが台所で朝餉の支度をしているところへ

棟方が立っていた。

 「どしたの?」

 「まな板…、手にしたまな板を顔に近づけたり、

  表裏ひっくり返したり

   指先で弾いてみたり。」

     

 「このまな板どごで買ったんだ?」 

 

 それから半月ほど経った頃、大八車に載せられて六十枚の

 まな板が届けられた。

   「まな板… こぃに版画彫るんだ」

 

 …君には何をしでかすかわからないこわさと面白さがある。

   いつだったか、そんなことを柳先生に言っていただいた~

       

棟方は前代未聞の大作の構想を固めていた。

 題名も決めてあった。

  <開闢譜東北鬼門版画屏風>という。

もとより、「東北経」などという経典は存在しない。

棟方が祈りを込めて作った造語である。

 

 【 東北経鬼門譜は、詩人佐藤一英が陸奥の飢餓の話から着想を得て

   昭和10年「新韻律抄」の中で発表した(鬼門)と題する詩をモチーフ

   にして、昭和12年制作された。古来よ降り恐ろしい危難の待ち受ける

   「鬼門」と呼ばれた東北に在す故郷・青森の地の受けた凶作の宿命を、

   仏の力を借りて幸あらめたいという願いが込められています。

   この作品は版木120枚を縦に5枚、横に24枚並べた

    六曲一双、左右10mに及ぶ戦前期最大の作品です。

   左端に描かれた「真黒童女」右側が描かれた1枚が「阿童女」の柵です。】

     

 

     

 

 

 

 

 複数の版画を合わせて一枚の版画を作る…聞かされた松木がが

  「何枚くらいで作るんだ?」と尋ねたところ~

 

 棟方は…「版木、裏表合わせて百二十枚。全部違う絵。彫っで、摺る。

  で、最後さ全部合わせて、一枚の大きな絵にするんだ」

 

 効果とか、出来栄えとか、枠に収めるとか、美しく展示するとか、

 そんなことは二の次だった。

 とにかくこの作品を完成させる、そうしなければ次の段階へ進めないと

 心に定め、綿密に構図を検討し、下絵を準備し、彫りに掛かった。

 

 ようやく百二十枚の版画が摺り上がった日、棟方は大喜びで、柳に

 「摺り上がりました」と電報を打った。

 1937年(昭和12年) 日本民芸館主催の「民芸館秋季展」が銀座の

 鳩居堂のホールで始まった。

       

 <東北経鬼門版画屏風>はそこで初披露されることになっていた。

 

 作品は、狙った通りに圧倒的な出来栄えだった。会場の人々はとにかく

 その大きさに度肝を抜かれた。

 一見して誰もがこの六曲一双の屏風が版画とは思わないようだった。

 

 柳宗悦が屏風の前で腕組みして眺めていた~

 

 「棟方君、なぜふたつの屏風の真ん中に御仏を配置したんだ?」

        ☟            

   

 棟方は、柳の声色に不満があるのを敏感に察知した。

 ・・・それは、その、鬼門です。

  鬼門の道を。屏風の真ん中に通したのです。

  真ん中におわすのは、鬼門仏です。

   ・・・・身振り、手振りを交えて~一生懸命に説明した。

 

柳は黙したままだった。

 最後に全体を見渡して、並々ならぬ力作だね、と柳は

 一言でまとめたうえで、

 「・・・両端の人物群がとてもいい。

三幅対の軸に仕立てたいから、抜き摺りにしてくれないか?

民藝館にはこの六曲一双と抜き摺りの両方を収めることにするから。」

 

 棟方は驚きを隠せなった…が、おとなしくそれをおしいただいた。

 

 どうやって家路をたどったのか覚えていないほど、帰り道は

 頭の中が真っ白だった。

 「ワっきゃ、いい気なってあったよ」

     肩を落として、棟方はチヤに打ち明けた。

 

 「何作っても、柳先生はきっと喜んでくれる、

  褒めてくださると、思い込んであった。

  東北の祈りだとか、自分勝手に鬼門仏作るだとか、

  そったことはもっと修行積んでからやるべきことで

  いまはまだそうでね、いい気になるな、

     づで、先生は言いてんだど・・わかったよ」

 チヤには夫を励ます言葉がなっかた。

 

 この道は易からず。険しく、また果てしない。

 守らなければ。どうあっても、この人を支えなければ

 私が後押しをする。そうして、どこまでも進むのだ。

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「板上に咲く」第10話

2024-04-02 | 日記

柳の声である

「君の出現は画壇の事件と言ってもいい。

 君は僕たちの近年の最大の発見だ」

これは濱田だ

「根源から湧き出る力が君の絵にはある。

 版画と言えば版木の型より大きいものはないとう概念が、

 あの絵巻物で覆されたからな。まったくたいしたもんだ。

 

最後は河井だ

「君にはまだまだ伸び代がある。これからが楽しみだ。

 君のことは僕らで応援していこうと決めたから、どんどん

 いいものを創ってほしい。」

 

尊敬する三人の芸術家から賞賛を与えられた棟方は、

 うれしさのあまりだろう、涙声になって・・・・

  先生方にそったもったいね お言葉いただけるとは…」

 

 しばらく談笑していたが~

  ふと、柳が尋ねた…「ときに、君は独身なのか?

  随分こざっぱりとした部屋に暮らしているじゃないか」

 「はあ、自分ひとり食べていくのもやっとで~

          嫁コをもらうなんて」ときた。

 隣にいたチヤは思わずムカッとした。

 

 河井が思いがけない提案をした。

 「僕は来週京都へ戻る。君も一緒に来んか。

 汽車賃を出してあげるから、京都の僕の仕事場へしばらく

 きてみんか、幾日でも泊まってもらってかまわんよ」」

 棟方「ほ…ほんとですか? い、行きたい、行きたいです、

     すぐにでも! 」

 

 棟方はこの半月ほど家を留守にしているところだった。

 滞在先の京都での真新しい体験についてを~

 ほぼ毎日届く葉書には、弾けるような文字が躍っていた。

 

1937年(昭和12年) 東京・中野 

     ~1939年(昭和14年) ㋄ 東京・中野

 

柳たちは自分たちで見出した棟方志功というとてつもない原石を

 磨いて世に送り出してやろうと意気込んだ。

 棟方を擁護し、筆の力でこの新人を推しだした。

 また仲間内で後援会を組織して会費を集め、経済的にも

 棟方を応援した。

 

 柳たちの後ろ盾を得てからの棟方は変わった。

 棟方本人ばかりでなない。

 一家の生活が劇的に変わったのだ。

 一家は食べるのに困らなくなった。

      チヤにはそれが一番うれしかった。

 

 はたして、チヤが想像した通り、

 棟方の版画は加速度的に力と輝きを増した。

 

 昭和11年 東京・駒場に日本民芸館は開館した。

  

 館長には柳宗悦が就任。

 会館で披露された作品の中でも、ひときわ異彩を放っていたのが

 棟方がこの日のために創作した新作版画<華厳譜>23点の圧巻の

 展示であった。

 【 棟方の脳裏には異形の神仏が舞い降りてきて~

   毘盧遮那仏、釈迦如来、普賢菩薩、大日如来、日神、女神

   山神、風神…日は昇り、日は沈む大宇宙の森羅万象にあって

   棟方の中では神も仏も鬼も混沌として沸々とたぎり、異なる形

   と美なる飾を持って板上に立ち現れた。】

 「華厳譜」

      

           「扉」

      

           「風神」

 

  

民芸館での初披露、』その出来映えに誰よりも満足したのは

柳宗悦だった。

 彼は声を弾ませて棟方に言った。

「なんという輝き、なんという力だ! こんなにも粗削りで

 根本的な美を もろに突きつけてくるとは! 」

 

 

河井はこの「華厳譜」に対しての賛辞を文字にして残している。

「君と逢ってからの日は浅いが、吾々が交わった深さは深い。(略)

 遺憾なことに、真当のものは大抵は痛ましい中から生まれるものおだ。

 君もそういう籤を引いた一人なのだ。

 君は大抵の人がへこたれる処をいつも立ち上がってしまう。

 それでいて君はやさしい清い人だ。そういう君を思うと体中があつく

 なって来る。(略)

 

 この一文に棟方はいたく感激したようである。

特に「遺憾なことに…」の言葉は心に深く残ったようで

 板画作品にして残っている。

「遺憾なことにの柵」 昭和19年 1944年

  

 華厳譜を作り上げた時に、その苦労に対して河井寛次郎が贈った

 労いの言葉を棟方が板画にした。

 

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「板上に咲く」第9話

2024-04-01 | 日記

 1936年 (昭和11年) 4月 東京・中野

二軒続きの長屋のうちの一軒である。

 結婚して以来、ようやく家族が独立して暮らし始めた住処だ。

今日は、チヤが部屋を片付けている。

その日ばかりは、徹底的に掃除をせよ との棟方の指令だ。

夫のただならぬ意気込みに、チヤも気合が入っていた。

棟方は、「いいか。しつこいようだが、あらためて言っておく。

こぃから来る客人は、それはそれは偉ぇ、えれぇ先生方なんだ

「柳宗悦先生。  浜田庄司先生。 それに河井寛次郎先生。

       

  河井先生は、わざわざこの荒屋さ来るだめに京都がら

お出ましになる、づぅごどだ。

 それがどんだけすごぇことか、わかるか?」

 

棟方が17歳のとき、青森の画家仲間、小野忠明の下宿で見た

 芸術雑誌「白樺」。その中の1ページに<ひまわり>が絢爛と

咲いていた。

 「白樺」は1910年(明治43年)学習院大学に在籍する学生たちが

中心になって創刊された同人誌である。

      

 柳宗悦は、設立メンバーの一人であり、長らく編集長も務めた

リーダー的存在だった。

 

その柳宗悦が~偉い、えらぁい柳先生が、この日訪れるのだ。

今日は版画家・棟方志功にとっての大一番だ。

      夫の言に従おうと決めたのだった。

 

3週間ほど前のことである。

 その日、棟方は、上野の東京府美術館で開催される民間の

 団体美術展「国画会」の出品準備のために出かけて行ったきり

夕餉の時間になっても帰ってこなかった。

 

 この年、棟方はどうしてもやってみたかったは版画の大作を

完成させた。かねてから構想を温めてきた「版画絵巻」である。

満を持しての挑戦の題材に、佐藤一英の長詩「大和し美し」

選んだ。 

 緻密に画面の構成を検討し、下絵の準備をした。

結局、彫り始めるまでに2年を費やした。

 

 版画絵巻を成功させるには、全体を貫く主旋律となる「流れ」

作り出す必要があった。

 流れるように描き、流れるように彫った。 

 全20点、横一列につなげると7mを超える大作が完成した。

 

展示室では係員の男がひとりで展示作業中だった。

 棟方は係員に向かってにこやかに話しかけた。

「そこにある横長の額。それ、私の作品です。・・・

 これがら掛けるようでしたら、お手伝いします。」

「あなたですか? こんなとんでもないもん作ったのは」

 

ここで係員と、棟方は、作品の掛け方で・・・

  「この四つの額さ合わせて一つの作品なんです。

   そのうちのひとつだけでは意味をなさねんだ」

    揉め始めました~ 

 係員は「だめですよ。しつこいな」

 棟方「なんと言われようども、並べてください。

       お願いです、頼みます!」

 お互い一歩も譲らず・・・大声で言い合いになった。

 係員は、「とっと出ていけ、この田舎もんが!」

 

 棟方は男の手を振り切ると・・・

  いきなりその場にひれ伏した。

 「お願いします!全部、展示してください!

   ・・・・この通り! 」

 

 おい、君たち。 ーーーどうしたのか?」

 背後で声がした。  

 振り向くと男性がふたり、こちらの様子を窺っている。

   

 係員が「いや、この人の作品が…」と歯切れ悪く応えた。

 「作品がどうしたんだ!」男が訊いた。

     

 「ものすごくバカでかい版画~全部で四つあるんですが、

  そのうちひとつだけを展示すると言ったら、

  食ってかかられてしまって・・・ 」係員

 

 棟方「だから、ひとつでは意味がねんです。

      これは版画の絵巻物なんだ!

 四つ全部展示せねば完成されない作品なんです!」

 

 部屋に入ってくると、細身で長身の口髭の男が

 棟方に向かって言った

  「君。いま、版画の絵巻物と言ったね。

    ちょっと見せてくれないか」

棟方はすぐさま

 額の中のひとつをひっくりかえして見せた。

   <はじまり>

 

二人の顔に稲妻のような閃光が走った・・・

ふたつめを返すと、ふたりの目が鋭く輝いた。

  <倭建命>

 

三つ目を返すと、ふたりの口が半開きになった。

 

最後のひとつを返すと、

  <藻草>

 

  <おわり>

 

 

ふたりはじっとそれをみつめたまま、

動かなくなった。

「これは、すごい・・・この連続する文字・・・

  まるでざあざあ雨が降っているみたいだ。

  こんな版画は見たことがない」

  興奮しているのか、その声は熱を帯びて少し震えたいた。 

 

 「君、とにかく全部展示してくれたまえ

      私たちは工芸部の審査員だ。」

  版画部の審査員の先生方には言っておくから

  とにかく四点、すべて・・いいですね?」

 

  二人して棟方のもとへやって来た。

  「君、名前は?」

  「む…棟方。棟方志功と言います」

     

「棟方君。私は柳宗悦、彼は陶芸家の濱田庄司だ。

 私たちは君の作品に心底感じ入った。

いや、ほんとうに…すっかり持っていかれてしまったよ」

 

 

柳が棟方に向き合って言った。

「実は、私たちはこの秋、日本民芸館という美術館を

 開く予定にしている。その美術館の最初の収蔵品として

 この作品を買い上げたい。いいだろうか」

 

棟方は・・・絶句した。

やはり信じられなかった。 どうしても言葉が出てこない。

その代わりに、思い切り柳に抱きついたのだった。

続いて濱田にも。

  奇跡が起こったのだ。

 

「大和し美し」 昭和11年(1936年) 全20点 青森県立美術館

象徴派の詩人佐藤一英の同名の詩を版画にした。

内容は倭建命の一代記で、美夜受姫、弟橘姫、倭姫との愛と悔恨

を語り、望郷の想いを詠じる長詩である。

「物語風な連続的な版画、それに絵ばかりでなく文字を入れた最初の版画」

で、板画が本来持っている複雑性から発展し、次から次へと繰り広げられる

物語を、複数の板画が連続してつながっていく形で表現しようと試みた。

この作品を機に柳宗悦らに見出され指導を受けたことは、棟方のその後の

方向を決定づけた。

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「板上に咲く」第8話

2024-03-31 | 日記

昭和7年(1932)

 5月の国画会展に出品した「亀田長谷川邸の裏庭」が国画会奨学賞を得、

 同時にボストン美術館・パリのリュクサンブール美術館の

 購入作品となった。

 「これからは版画で生きていこう」と決意を固めた。

 しかし、ようよう暮らしていくのに精いっぱいな毎日であった。

  「亀田長谷川邸の裏庭」 1932 多色摺木版 棟方志功記念館

   

   「十和田奥入瀬C」 1932年 棟方志功記念館

 

  奥入瀬渓谷の水の流れを表現した連作3点の内1点。

   川上澄生の作風から脱却を図るべく、棟方は肉筆画とは違う版画としての

   「線」と「面」の探求に邁進。

   「白」と「黒」の対比を意識し、対象物の単純化と抽象化を試みている

   ことがうかがえる。

 

   一方、棟方は、挿絵画家としての道も歩き始めていた。

 佐藤が主宰していた雑誌「児童文学」に挿絵画家の一員として迎えられた。

 「子供のための読み物」を志した意欲的な本だった。

 棟方は、宮沢賢治、百田宗治、伊藤整などの新作童話に挿絵を提供。

 人から人へと芋づる式に人脈は広がり、詩集の表紙や挿絵を描くことで

  糊口を繋ぎつつ、棟方は独自の版画の追及を進めていった。

 

  宮沢賢治作「グスコーブドリの傳記」挿絵 (<児童文学>第2号掲載)

 

     

     *棟方らしいユーモア? 

       「絵の中にしっかり「ムナカタシコウ」と書き込んでいる」

  加えて天性のバランス感覚とデザイン力が棟方にはある。

   独自の世界を展開させ始めた棟方に着目する人もあり、

  「版芸j術」昭和8年(1933年)3月号にはいち早く棟方の

   特集号が組まれ、棟方は着実に独自の版画の道を歩み始めていた。

     

 

 1934年(昭和9年) 東京 中野 

 

版画の世界に踏み入って6年あまり。

 その作風と創作のスタイルは、

彼を知る芸術家たちのあいだで評判になっていた。

 何よりも棟方が夢中になったのは、版画がもつ広がりだった。

僅か30㎝四方の板に描く世界。

それなのに無限な広がりがある。

 

この世界のすべてを板上に表現できる気がした。

 こうして、棟方の行くべき道はようやく定まった。

 

遊びに来ていた松木が・・・

     

 ーー そのうち棟方志功は化けるのではないか? ーーー

皆がそう噂しているぞ、松木は棟方に伝えて励ますのだった。

   

 「(化ける)づで、どっだ意味がね? 」棟方

 松木「想像もしねがったすごぇは版画家になる、という意味だ」

 

 棟方が今考えているのは~定型の紙一枚で完結する版画ではなく

 何枚もの連続させて構成する大型の版画だ。

  横に長い「絵巻版画」である

 版画のために自分に何ができるのか、真剣に考えていた。

 

 松木「絵巻作るなら、まずは文章、要るべ。

    誰が書いた文章使うんだ?」 

 棟方「最近は金がなくで、本も雑誌も買えねんだ。

        だばって・・・」

松木は帰りがけに、「これ。 いろいろ、

   読み物載ってるから、読んでみろ」

 手に持っていた本を棟方に押し付けた。そして帰っていった。

 「新詩論」と表紙に書いてある。

  みると、何かが挟んである…十円だった。

 「あいずは、そういうやづなんだ」棟方が、ぽつりと言った。

 チヤは、そっと本を広げた。泣き出してしまいそうだった。

 そのページを声に出して読んでみた。

   大和し美し

    大和は國のまほろばたたなずく青垣山隠れる大和し美し

    黄金葉の奢りに散りて沼に落つれば 踠くにつれて底の泥

     その身をつつみ離つなし・・・

 詩人、佐藤一英が書いた「大和し美し」

 倭建命の一代記を描いた三千字に及ぶこの長詩が、その後、棟方の

 人生を変えるものになろうとは、このチヤが気づくはずもなかった。

 

 佐藤一英 「大和し美し」の作詞者。 1899年 愛知県生まれ。

          

     

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「板上に咲く」第7話

2024-03-30 | 日記

ついにチヤの堪忍袋の緒が切れた。

もうチヤは返事を書かなかった。その代わり、旅支度を始めた。

まる一昼夜汽車に揺られ、帝都・東京へやってきた。

 彼が住んでいるのは野方の沼袋。

一帯は田園風景が広がり、一瞬、青森に逆戻り?

どんな華やかな都会に暮らしをしているかと

 カエルの合唱が始まった~拍子抜けしてしまった。

次第にあたりが暗くなってきた。

畦道の交差点で自転車が止まった…男がサドルを持ったまま

 こちらを見ている…「チヤ? チヤでねが?」

 

夫がかれこれ五年あまりも居候を決め込んでいる

 松木満史の家は、沼袋の集落の一角にあった。

 松木との共同生活がどんなふうだか、詳しくは聞かされて

 いなかったのだが、なんと松木には妻がいた。

同郷の夫人と家庭を築くために一軒家を新築してすぐに、

 棟方が居候を続けているというから、そうとうな図々しさである。

 さらにまたひとり、棟方の妻子という

 招かれざる客が加わったわけだ。

 

 1932年(昭和7年) 東京・中野

チヤがマッチ箱にラベルを貼っている。

 内職のラベル作りを含め、松木夫人の(量)が担ってきた

家事のいっさいをチヤが引き受けていた。

 「チヤさが いでくれで助かるわ、おかげで主人も絵に集中

   できるはんで」、と言ってくれるのだが、肩身が狭い思いは

 微塵も変わらない。

 

 親子三人が寝起きする部屋は、足の踏み場もないほど

 いろいろなものであふれていた。 絵の具や墨などの画材

 ~まるでよろづ屋の店先のよになっている。

  が、染みだらけの壁にぽつんと…そこには<ひまわり>が、

 「白樺」に載っていたゴッホの絵の複製画のページが切りとられて

 貼り付けられている。

 まるで神仏に捧げる供物のようだ。

 実は棟方が目下夢中になっているのは油絵でなく、木版画だった。

 

  画業修行のために東京へ出てきた後、川上澄生という版画家の

 木版画を見る機会があった。その明瞭で詩情あふれる作風にすっかり

 心を奪われた棟方は、自分でもやってみたくなり、自己流で始めて

 みたところ、これが面白いように作れた… ということだった。

 

「川上澄生 1895年横浜生まれ 

1921年宇都宮中学校の教師となり、

その頃から版画の制作を始める。  

 <初夏の風> は代表作   

   

 少し彼の作品をご紹介しましょう。

    「遊女とランプ」

      「南蛮入津」

        「横浜十二番」

 

 しかし、棟方は油絵をあきらめたわけではなかった。

彼には帝展入選という大命題がある。

今年も出品の時期が近づいていた。

 

第13回帝展の入選者が発表された。そこに棟方志功の名前はなかった。

 

軒先を叩く雨音を耳にしながら、チヤは居間でひとり墨を磨っている。

 ずっと摺り続けている。

朝が来れば、チヤけようとともにこの家を出る。

 青森へ帰るのだ。

ふたりめの子供を宿したチヤは、臨月を迎えるまえに実家へ

 帰ることにした。

いま実家に戻ったら、また東京で棟方と一緒に暮らせるかどうか

 わからない。子ども増え、松木の家で親子4人が厄介になるなど

 どう考えても無理な話だ。もう帰ってこられないかもしれない。

 

 松木夫婦の部屋から、松木が出てきて、懸命に墨を磨っている

 チヤのかたわらに腰を下ろすと、

  「明日、帰るづのに、けっぱるなぁ。

     もう、それぐれでいいんでねが?」小声で話しかけた。

 ややあって、声をひそめて言った。

「なぁ、チヤさ。ヮっきゃ、スコは油絵でねぐで版画一本でいったほうがいど思ってら。

 実は、本人もそったほうがいど思ってらんだ。すたばって、できねんだ。

 なすてが、わがるが?」

 

 松木は、油絵と版画の価値について説明する。

 一枚売ると〇〇円、帝展入選の肩書がつけばもっと高く売れるようになる。

 しかし版画は、世間が認めてくれてない。何枚でも摺れる…チラシみたいなものと。

 価値を認めてもらえなければ~と、言うわけで、版画一本には絞り切れないんだよ。と。

 

 たしかにその通りだった。

  この1年間、棟方の創作意欲は旺盛だった。

 帝展には落選したが、むしろ躍起になって油絵をどんどん描いた。

 一方で、民間の芸術団体・国画会や日本版画協会に新作版画を多数

 出品してもいた。

 そして、版画を活用した内職にも精を出していた。

 

 棟方の意思をチヤがはっきり知ったのは、ある冬の晩のことだった。

  

 居間にいる松木と棟方が絵画論を闘わせていた。

 本気で職業画家を目指すなら版画はもうやめて油絵に注力しろ、

  さもなければこの先帝展入選は難しいぞ…と松木が諭して言うのに、

 棟方は猛然と反発した。

 *** 版画は藝術でねっづのが?

   木版画だば、日本で生まれた純粋な日本の芸術だ。

   油絵は西洋の真似コにすぎね。

   ワきゃ、芸術革命を起こしで。そいは…そいは版画なんだ!

 版画こそっが自分にとって革命の引き金になる。

 棟方はゴッホを引き合いに出した。

 ゴッホがあんなにも情熱的で革新的な絵画を創作するようになったか。

 ー浮世絵があったからだー

 ゴッホは画家修業のためにパリに出てきて浮世絵と出会った。

 また、大勢の前衛画家たちは浮世絵の特異性に気が付いたー

 北斎、広重、歌麿、英泉。

 清澄な色、くっきりした線描、大胆な構図。

 ゴッホは夢中になった。

 

  ゴッホに憧れて、ゴッホになりたいと願っている自分は、

  ゴッホが憧れて、ゴッホがなりたいと願った日本人だ。

  そしていま、ゴッホが勉強して勉強しきった木版画の

  道へ進もうと、その入口に立っている。

  この道こそが自分の進むべき道だ。

  ゴッホの後を追いかけるのではなく、その先へ行くのだ。

  *** ゴッホを超えて ***

 松木は何も言い返さなかった。

 ただ黙って棟方の心の叫びを受け止めているに違いなかった。

  彼こそは、誰よりも行く末を案じ、

          友の成功を願っている人だった。

上野駅には 棟方に見送られてチヤけようがいた。

  「そいだば、行ってぎます」

       棟方はうなずいた。 

汽笛が鳴り響き、車体が大きく揺れて、動き出した。

棟方の姿がだんだん遠ざかる~やがて流れゆく風景の中に消え去った。

 

 秋が来て、男のこが生まれた。

  棟方が「巴里爾」と名づけた。

   冬が来て、年末になった。

  チヤは再び、火の玉になった。

  巴里爾をおぶい、けようの手を引いて

  今度は工業用ミシンを引っ提げて、雪の降りしきる中、

  青森駅へ向かった。

 

  スコさ、待っててケ。 もうすぐ、帰るじゃ。

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「板上に咲く」第6話

2024-03-28 | 日記

チヤは、棟方とともに結婚という名の冒険を始めたのだった。

 チヤは手紙を書いている。 夫、棟方へだ

          

 昔は、画家先生に読んでもらうものだからと、おかしなこと

 書いては恥ずかしいと書く前から緊張し、練習し、清書。

 せっせと郵便ポストまで通ったものだ。

 、夫もさるもの~向こうからもどんどん手紙がくる。

 多い時は一日三通も来る・・・

 

結婚して約一年半。

いまなを離れ離れに暮らすふたりのあいだをつなぐ手紙には

やさしい愛の言葉などひとつもなかった。

 

チヤは鉛筆を走らせながら~夫に向かってつぶやく。

  「私は、いつまで、こんな暮らしを、そなければ、

       なら・・・ねんだよもぅっ!」

       思わず机に向かって鉛筆を投げつけた。

  

ほんの半刻まえに届いた棟方からの手紙。 

そこにも相変わらず長いながい言い訳めいた言葉が連なっていた。

「お前と子供と離れ離れで生活しなければならないのを申し訳なく思っている。

 しかし、自分ひとりですら食べるのに苦労して現状では、どんなに呼び寄せ

 たくても無理なのだ。おまえと子供と一緒に暮らしたいのは自分も同じだ。

 そのために一生懸命仕事をしている。 ・・・・(略)・・・・

  夫婦の契りを交わしたときに、しばらく我慢してくれと言ったじゃないか  

 我慢しますとお前も答えたじゃないか。 ただ、その通りになっているだけだ。

 これ以上、俺を苦しめないでくれ。」 云々 かんぬん。

 

  ーーーだまされだんだがなぁ~   イトちゃが言っでだみでに。

      うんにゃ、そんたごどは、ね。 絶対に、ね。

     スコさは、ゴッホになるんだもの。

        世界一の絵描きになるんだもの。

  チヤは箪笥の引き出しにしまっていた雑誌「白樺」を取り出して広げた。

  目の覚めるような青を背景に咲き乱れるひまわりの花。

               

  くじけそうになれば、この絵のページを開いて飽きることなく眺め続けた。

 

 遠く八甲田山の山肌が紅葉の錦で覆われ始めた頃、

      

   待ちに待った吉報がチヤのもとに届けられた。

 

  棟方の作品が、三年ぶりに帝展に入選したのである。

 

  【辛くも再入選するが、その頃には「版画か油絵か」の思いは、版画の方に

    傾きかけていた。公募展での油絵での入選率と版画でのそれを比べると、

    版画は落選知らずである。色彩豊かな油絵の魅力は断ち難いが、自分は

    近視の弱視で、遠近感も掴めない。西洋伝来の遠近法を基本とする油絵が

    向いているとは言いにくい。   版画は黒と白の世界である。

    平面で表現するもので、遠近法にこだわる必要もない。

            あのゴッホさえも、浮世絵に憧れたではないか。

     それは版画だ!   という論理の展開である。  

                    別冊太陽 日本のこころ より】

    

 チヤさっそく手紙をしたためた~

 ところが、待てども待てどもなかなか返事が来なかった。

  ワッきゃもう、我慢ならね。・・・・

 それから間もなくして、手紙ではなく、小包が送られてきた。

 チヤは胸を躍らせた~きっと、中身は~

 おくるみ とか 赤ん坊のおもちゃとか…娘の「けよう」の

 ためのものに違いない。

  包みを解いた~

   現れたのは、…色とりどりの絵。木版画だった。

 

 全部で十枚の版画集。

 {西洋風の女性たち、遠い異国の姫君たち。提灯のように膨らんだスカートを身に着け

   長い裳裾を従者の少年にひかせている 等等。 目が覚めるような出来栄えだった。

  

 貴女等箒星を観る                 花か蝶か

文字も描いてある<花か蝶々か 蝶々か花か 来てはちらちら >この文字も彫って

 摺ってあるのだろうか。 

  

  聖堂を出る         星座の絵           貴婦人と蝶々

 

    貴女・裳を引く             聖堂に並ぶ三貴女

  

     べチレヘムに聖星を観る             貴女

 

       表紙がつけられていた{ 星座の花嫁 版画集 }

     *昭和6年発表 創作版画倶楽部より刊行された版画集の名称

         昭和3~5年までに発表した10点を収めている。

 ◆版画集の刊行にあたって棟方が描いた文章~

  <版画は見せ、聞かせ、味わわせ、澄みを物語る物語り、

    それまで摺られていなければならないと思ている。

    全版画が、紙と摺られた線、調子による道連れに、

    仲善い力で生き、静かな息づきまで知らせなければ、

    断言できる善い版画とはいえない気がする。

   いま自分が版画を創るとき、それを目標としております。>

 

   チヤは、息をのんで版画集を胸に抱いた。

       ー 花束だ  そう思った。

       

    棟方から自分と娘に贈られた、これは花束なのだと。

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続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。