オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

立ち飲みの日

2015-11-12 | Weblog

11/12(木) 昨日今日と、人形町界隈の「立ち飲みの日」イベントの開催日。タイミングよくUSUI老が会社に来るというので、スタッフのAOKI君を交えて一献となった。立ち飲みの参加店はチケット制だが、既に入手済みであった。

昨年はこの界隈を四軒廻ったが、今年は・・・・・。七時過ぎに退社し、直ぐそばのワインBAR「ハチ」にてワインの立ち飲みとなった。二軒目は、ウロウロするのが面倒になり、立ち飲みの日参加店でもある「ちょっぷく」でお茶を濁した。三人で飲んでいると、HOYA兄いからの電話「今、どこにいるんだよ」と訊く。

間もなくして、HOYAさんとマッチャンが姿を現した。お通夜のような顔で飲んでいたが、これで場は一気に大賑わいとなった。老とHOYA兄いのインドネシア駐在時代のあれこれ、トルコからソープにネーミングが変わったのいつか、バブル時代の経験・享受の有無と、話は次から次へ森羅万象・有象無象・玉石混交で終止が付かなくなった。

 

                            

                     店長&チーフ揃い踏みでのお見送り「帰りにまた寄れよ」と。

盛り上がったところで「セイジュ」でカラオケとなった。なるべきところ、あるべき場所へと落ち着いたが、なんとセイジュのカウンターが満席だった。これこそ青天の霹靂と云うやつだ。席を占めていたのは、K鉄系の販社のメンバーで、「高松」で夜毎酒宴を繰り広げている面々だ。我等は、奥のテーブル席に入った。

               

AOKIがわざわざ会社まで戻って持参した焼酎「利八」を飲りながら、カウンター席とのマイク合戦。AOKIには「演歌縛りだからな」と、きつく今宵のルールを教えた。オイラの「津軽海峡冬景色」で口火をきり、HOYA兄いの津軽シリーズがつづいた。今週は三日連続の津軽海峡・・・、セイジュ日参となった。

ゲストとも云える老には、AOKIが昔老が唄った歌を思い出しながら、入れていた。「夢芝居」「舟歌」と、老は「声がでねえ」と騒ぎながら、楽しんでいたようだ。仕事から上り、近所に買い物に出るくらいらしい。おまけに、奥さんは肺癌になって手術をすることになったそうだ。『まだ手術ができるから、いいよ。よくなる可能性が高い』と、気休めを言うしかない。

賑やかな一夜、店を出た後は三々五々、それぞれの塒ならぬ、酒場散った。オイラの帰りは「ちょっぷく」だ。しかし、かなり草臥れモードだった。最寄駅の学芸大学着は、零時に五分前。改札前のスーパー東急ストアにて、明日の菜を買っての帰宅。

 

そして、朝を迎えた。今日の弁当は、茄子シリーズだ、昨夜贖ってきた茄子・挽肉・エビを使った菜だ。

                  

「挽肉の茄子挟み揚げ」「茄子の挽肉味噌炒め」エビフライ」「丸干し秋刀魚焼き」「卵焼き」、以上であった。昨夜の帰りの車中、朦朧とした頭の中で考え、材料を買っての弁当だ。大した努力じゃねぇかい・・・・・?

                        

 

 

 

 

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飲まなきゃいいのに・・・

2015-11-11 | Weblog

11/11(水) 昨夜会社を出たのは、八時に三分前だった。八時になると、表のシャッターが下りるので裏口からの出入りとなる。表が開いているうちに出ようと云うわけだ。雨は小降りで傘を差さずに歩けるぐらい。このまま地下鉄・小伝馬町駅に直行し、帰ろうかと思った・・・。健全なる心は未だ残っている。

それを確認し、反対の人形町駅方面へと足は向かっていた。八時ともなればこの辺りを歩く人の姿は少ない。ましてや小雨で暗い中なのだ。我が心も闇に沈み、水溜まりを避ける足元も覚束ない。

トボトボと闇を引きづりながら「ローカーボ」の前に差し掛かった。と、ドアを開けた店内から、聞き覚えのある元気な声が響いてきた。カウンターに、HOYA兄いの広い背中があった。先週金曜日、夜の秋田で飲んでいるところに電話があった「やってるかい」と。

陸奥二人旅の報告もある、一杯だけ飲んでいくかと店に入ったのであった。これが一杯で終わればいいのだが・・・、そうはいかぬ、させてくれないのが人の道と云うやっだ。例の如くハイボールを啜り、HOYAちゃんと雑談が始まった。と、マスターが「NAKAMURAさんからの預かりもの」と、小城羊羹を置いた。

                         

NAKAMURAさんは、佐賀から来るソフト会社のオーナーである。月に二度は上京し、この界隈で呑んで行く、いわば酒場仲間のお一人だ。そのNAKAさんが、佐賀名物・小城羊羹を持ってきてくれたとのこと。小城と云うのは、佐賀市に隣接する地名で、ここの羊羹は広く知られている。少なくとも九州では。

羊羹を肴に飲むわけにもいかない、有難く頂戴して帰ることにした(そして、今朝までそんなことはすっかり忘れていた)。そこへ、悪徳ちゃんならぬ、不動産業のマッチャンが姿を現した。これで、三役揃い踏みか?

前夜「SEIJU]に行ったこと、津軽海峡冬景色を唄ったことも、HOYA兄いは知っていた。それやまあ、BLOGでオープンにしてるからね・・・・。で、今夜も行こう「石川さゆりを歌おうぜ」と誘う。そうまで言われちゃ・・・、と「SEIJU」に向かうことになった。マッチャンは、何処ぞ寄るところがあると夜の巷に消えた。

おいら達二人で、客の姿がない「SEIJU」カウンターに陣取り、早々にカラオケ。酒は先日持ち込んだ、焼酎・伊佐美である。この夜で一升瓶が空いた、次には補給しておかないと・・・。二人して、ああでもないこうでもないとマイクを握ったのは云うまでもない。

                        

そして最後はやっぱ「ちょっぷく」だろうと、促されるままに閉店近い店に寄ったのであった。

                          

都合三時間弱の「酒場にて」だったが、妙に疲れが残っている。遅くに帰宅しての飯がよくないだろうな・・・分かっちゃいるが、その時間帯は殆ど脳味噌が働いてないからネ。訳が分からずに喰って仕舞うんだな!

 

今夜は飲まないでおこう?などとは思っていない。今夕にUSUI老が現るとのこと。それに「立ち飲みの日」ウィークが、人形町は今日・明日なのだ。このチケットもゲットしてある。相手変われど主やかわらずだ・・・。

弁当だが、撮ったつもりの写真が残ってない。残である。あのキムチスマホがどうも具合が宜しくない。使い方じゃないよ、端末の所為だからね・・・。

今朝は「トンカツ」「肉ミンチ揚げ」「大根煮&水餃子」「豚味噌漬け焼」「卵焼き」、と云う処。これに、鮭オムスビ五個、稲荷すし10個を作ったが、これは末娘がアパート暮らしを始めるとのことで、今日荷物を運ぶそうだ。その為の弁当というか、引っ越し手伝い用の飯だ。甘やかしすぎか?

 

 

 

 

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秋田市民市場

2015-11-10 | Weblog

11/10(火) 金曜日、秋田市内のホテルに着いたのは、午後7時30分。私が当初に想定したとおりの時間であった。夕日が真っ赤に十三湖を染める景色を見ながら、S・BINの故郷・中里町から太宰の生誕地・金木町を通り、津軽線(ストーブ列車で知られる)の踏切を渡って、ひたすら車は走り続けた。

道の駅フリークのTOKIOと私は、この看板を見ると必ず立ち寄った。が、二軒は休業、二軒は閉店時間となっていた。唯一、十三湖高原道の駅にだけ入ることが出来た。特産の生き蜆を販売していたので、1Kgを贖って送る。K/2000円に冷蔵送料が掛かるので、年金老人にとっては高い買い物と云える。

自動車専用道路、高速道路そして一般道と、夕暮れから闇に変わり行く中をひたすら秋田市を目指した。『おい、なんでまたわざわざ秋田に宿を取ったんだ?行ったことが、泊まったことがない土地なら弘前も同じだろうに』と。「早く言ってくれたら弘前にしたんだけど、同行すると聞いたのが遅かったから・・・」。

弘前に泊まるなら、丁度N社のブラバンのOB達が施設訪問で来る。それに「ばっけ」のメンバーとも会えたのにな・・・・。出発の三日前に決めた旅だ、TOKIOのスケジュールに合すしかねえ、しょうがねえか・・・・。

秋田のホテルに入り、先ずは今宵の飯&酒の店をチェックした。ホテルに置いてある案内書で、それらしき店を何軒か選び街に出た。少し肌寒いが、思ったよりは冷え込まない。飲み屋街の店をチェックしながら歩き、入った店はチラシとは関係ない店だった。

秋田の食材、酒を置いた落ち着いた雰囲気の店だった。先ずは、ぬる燗の酒を頼み、肴は地魚の刺し盛り、キリタンポ味噌焼きや地鶏焼きなど。飲んで話込んでいるところに、突然「なまはげ」が闖入して大声を発した・・・、近づいたのを全く気付かずにいた。驚いたぜ!!  二次会は自粛し、静かに眠りについた。

翌朝、駅前に在ると云う「市民市場」に寄ることにした。九時過ぎにその市場に着いたが、時間が早いのか買い物客の姿は少ない。ビルの中にあるのだが思ったより広い。鮮魚と野菜・果物に別れているが、どちらも店が多く品物も豊富。

どれだけ前のことになるか、覚えていないぐらいの以前、秋田の市場で鯛を買って送ったことがあった。この市場じゃないはずだが、そんなことを思いだした。店先に並んだ魚を物色しながらブラブラする。と、ポリバケツに入った鰻が泳いでいるのを見つけた。

なんと「八郎潟天然ウナギ」と書いてあった。これやぁ見逃すわけにいかんぜよ! 鰻とあっちゃ血が騒ぐ。もう二年も、郷里の安田川の脂が乗りむっちりとした鰻を喰ってないんだ。ここであったが百年目、安田川の恨みを八郎潟で晴らせるか?

500gから1Kg超えまでの奴が、十匹ほど泳いでいた。八郎潟って全面干拓じゃなかったか?そんなことが浮かんだが、ウナギを目の前にしてそんなことはどうでもいい。『天然ものですか?こんなんが獲れるんですネ』と、店のもんに話しかけていた。

                     

                       八郎潟天然ウナギ

店主らしき男に『幾らですか?』と訊くと「5000円だよ」と返ってきた。要は、1キロが5000円と云うことだ。市場の単位は、ほぼキロ単位で金額が表示されているのだ。築地市場で鍛えているからね、なんでも訊いてくれ?

大きいのを捌いて送ってくれますか?と訊くと。OKだよ、とのことだ。じゃついでに、鯛も腹を取って入れてよ。となった、更に秋田と云えばハタハタだ。これも一皿頼んだ。

鰻は獲れるところによって、味が大きく変わるんんだよ。果たしてこの立派な鰻が美味いのか、旨くないか。それが問題だ、されど問題は口に入れないと解けない。解を得るために1.2Kgの鰻を手に入れた。果たして結果やいかんに・・・・。

                        

                                              これから捌きます

こいつが美味かったら、あらためて取り寄せ、安田川の鰻の代用でHIROさんに振舞うつもりだが・・・・。大きさの割には、身の厚みがな?

土曜の朝だ、上手く行けば日曜日の午前に届くかと、微かに期待をしていた。実は日曜日の午後、次女のところで赤ん坊の「初食い」のセレモ二ーをすると、呼ばれていたのだ。間に合えば、この天然タイを持参して、焼くなり切るなり、汁にするなりと、思っていたんだが・・・・。

魚を送り、おまけに今度はリンゴだ。秋田産の、なにやらほにゃらと云うリンゴを郷里の妹に送った。兄貴と云うのも中々大変なんだ・・・・。

午後一番の飛行機なので余裕がある。TOKIOに道の駅に行くように指令を出した。気の毒に、一人山形を経由して帰京するので早く発ちたい気分だろうにと、心の内で同情しながら・・・、道の駅「あきた港」なる、港の傍の道の駅へ。

この道の駅が今回の旅ではベストだった。港の傍だし、お魚さん中心かと思っていたが、さに非ず・米・秋田の名産品の数々、野菜から冷凍品と豊富な品揃え。そんな品揃えに惑わされたのか、秋田名物「キリタンポ鍋セット」「稲庭うどん」「小豆」「餅米」と買い込んだ。糯米と小豆は、翌日のお祝いに赤飯を炊こうと云う算段である。

昔から着物は好きなんだよ、特に地方に出掛けると土地の珍しい食い物を買いたがる。根っからの食いしん坊だな。食いしん坊万歳ならぬ、食いしん坊肥満さ  。結構買い物はしたよ、龍飛岬の名物お母っさんの処が皮切りだった。

で、肝心の魚は日曜の午前に着いたか?って。残念!着いたのは夜の八時半であった。冷凍庫に眠ることとなったが、蜆だけは翌月曜の朝に味噌汁にして頂いた。旨かったよ。

                        

                      十三湖しじみ汁       子持ちハタハタに着け

二日連続して、弁当が出て来てない。忘れたのかと思われちゃ癪なので一応お披露目を。但し、長女が月・火と仕事が休みとかで、弁当は不要だった。従って、作ったのは家人の弁当だけであった。

月曜日は、「鶏唐揚げ」「蓮根の挟み揚げ」「シシトウの素揚げ」「鯵干物焼き」「卵焼き」以上である。

               

そして今朝は、「カツ煮」「ジャーマンポテト」「オムレツ風卵焼き」、昨日頂いたチャ-シュウを一切れ。

                  

 

昨夕、ライターのOGURAさんが来社。スタッフとの打ち合わせ後、二人で「高松」へ。OGURAさんは、日曜日に弘前から戻っている。施設への音楽訪問のことや、「ばっけ」の元メンバーのことなど聞きながら焼酎金魚ソーダを飲った。

OGURAさんと知り合ったのは、二十年前になるが、「ばっけ」の公演を取材に訪れた折に、彼等のサポーターをしていた。それがきっかけで、仕事の関わりが出来たのだ。十年ひと昔、とすればふた昔前からの付き合いだが、生い立ちや若い頃の仕事の話などを聞いたのは、この夜が初めてだった。

約二時間、一緒に飲み、そして分かれた。その後、独り酒で「ローカーボ」に顔出し、次いで「SEIJU]へ。客が居ないのでこれ幸いと、一人カラオケに興じた。小一時間経った頃、「ちょっぷく」の店長YAMAちゃんが入って来た。「客が四人来るから」と急いた声で云う。そして迎えに店に戻った。

『漸く客が来たか、それじゃ失礼するよ』と、腰を上げた。ここに居る現場を押さえられたんじゃ「ちょっぷく」に顔を出さぬのも義理が立たん。男は辛いなぁ・・・・・。

                           

今度は赤ワインにした、安~いワインだ。それを飲みながら競馬の話を聞く。勿論YAMAちゃんの駄法螺話さ。最後は今年の収支と、勝率をスマホで確認しはじめた。

                     

 

その結果は?案の定、負けていた。ボヤくボヤく・・・・。

23時30分には帰宅したはずだが、今朝も眠かった。昨夜25時30分まで、リビングの椅子に寝ちまった。これが良くねえんっだろうな・・・・。

 

 

 

 

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津軽海峡冬景色

2015-11-09 | Weblog

11/9(月) 先週の金曜日、晩秋と云うよりは初冬の津軽半島は、薄曇りの中に晴れ間が覘くと云う天候だった。半島の先っぽになる地区、港の三厩から台上にあたる灯台へと向かう。海面からの高度は100m程か。道は、斜面を行くので距離としては遠い。

三厩地区の路地から、山頂となる灯台下まで「階段国道」と呼ばれる唯一の車が通れない国道があるのだが、無論私は歩くことない。歩けない身だ。TOKIOは、取材だとカメラを手にして降りて行った。行けば帰りは、上りを歩くしかない。四国・金毘羅さんの階段に比べれば楽か?362段、総延長382mだそうな。

国道階段の降り口の手前に、国民的歌謡曲、名曲演歌と云える「津軽海峡冬景色」の記念碑が聳えている。それだけ立派な碑と云うこと。詩碑の前の赤いボタンを押すと、石川さゆりの唄が大きく流れる。

見ていると、この碑の前に立つ人は、くる人も来る人もボタンを押す。そして歌が、風に乗って山頂にも届くのである。「ごらんあれが龍飛岬北のはずれと、見知らにひとが指をさす・・・」、思わず口ずさみたくなるのは、演歌世代の中毒か?

類いに漏れず、私もボタンを押した。誰も周りに居ないことを見計らってだ。そして思ったのは、『なんで昨夜、この歌を唄わなかったんだ』であった。前夜、セイジュでカラオケだったというのに。

そんな馬鹿なことを思いながら、道路を渡ると「龍飛のお母っさん」と書いた幟旗を掲げた軽四輪が・・・、その脇にお齢に似合わぬ綺麗な化粧の婆さんがオイデオイデをする。彼の有名な、オバサン、敬意を表して今やオバサンと呼ぶべきかな?何度もTVの旅番組で出てくる。港の海峡亭より、その頻度は多かろう。

「兄さん、なんか買っていきなよ」と、中々の商売人、商売上手である。息を切らして戻って来たTOKIOが、写真を撮ろうとすると横を向いた。「買わなきゃ駄目だよ」と、はっきりしているのだ。売ってるもので、欲しいものはコレッポチもない。が、ここは敬老精神と婆ちゃんの商売気に敬意を表するしかない。ホタテの燻製とやら、二袋1000円也を買った(セコイな)。

                        

すると、ニッコリ笑って腕をってポーズするのであった。

山上の灯台に上がる。空は薄陽、、風強し。海の彼方20km先の函館を臨むことはでっきなかったが、眼下遥かに見下ろす岩礁に、日本海の波が打ち寄せる様は絶景、見応えがあった。

                            

 

ここから少し離れた「、青函トンネル記念館」に向かう。計画からすると数十年、建設開始から26年の年月を経て、昭和63年に開業したとある。因みに総工費は、6900億円とあったか。

                    

この津軽海峡の海面下140m、トンネルの延長53kmの世界最長のトンネルだそうな。そんな現代の史跡があるならば、情報取集して紹介する必要がある。そんな理由から、津軽半島で三件目の視察&取材を敢行した。

オイラの本音は、高い処と暗いところは嫌いなんだ。とは云いながら取材と云われちゃ、致し方ない。「青函トンネル記念館」に行き、そこから海底のトンネルへとおりたのである。

いや~暗い、長~い、流石に大トンネルだ。一部を見ただけだけど。記念駅から地下に降りるトロッコ電車?のようなケーブルカーのような、ガタゴトと揺れる電車?に乗った。定員は20人程度かな。我らが下りた時は、七人の乗客に運転手と説明員であった。

               

下のトンネルに着くのに8分とか言われたような気がするが?ミュージアムになっており、見学コースを終えるまでの所要時間は40分だったようだ。そのうちの20分は、トンネル内を説明を受けながら歩く。とは云いながら、パネル展示があり説明テープが流れる。流石にトンネル内は涼しい。

来年から北海道新幹線が開業だとかで、その工事の関係で「海底千トンネル駅」の見学は中止になっていた。既に新幹線の試験運用は始まっているとか。

                           

津軽半島でのスケジュールが狩猟したのは、午後3時30分頃であったか。四時には、津軽国定公園を後にしたようだ。次の目的地は、秋田市である。

ここから、高速道路が繋がっていれば早いのだが…。途中途中に在るだけで、一般道も相当ある。とは云いながら、運転手はTOKIOだ。彼の運転は安心して座っていれる。何の心配も要らないのだ。カーナビを見ると、秋田着は22時になっている。そうは掛からんな、オイラの見立ては7時半着だが?

津軽半島の先っぽから、日本海を右手にして半島の中央部から日本海側へと、行き交う車も希なる道路を、つづら折りの道を快調に走った。海の傍の道路に出る頃、真っ赤な夕日が沈もうとしている処であった。

 

急げ、秋田へ・・・・。秋田オバコが呼んでるぜ!早く行かないと店が閉まるぜ!

 

 

 

 

 

 

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津軽半島へ・・・

2015-11-07 | Weblog

11/7(日) 金曜日の夕刻、取引先の某社社長が来社。ここ数年取り組んできた或る案件、殆どビジネスに繫がっていないシステム販売の今後についての意識合せであった。打ち合わせ後、早々に一献となり「高松」へ。某社長との懇談は凡そ一年ぶりであった。

                      

人形町まで来てくれたので、界隈の安酒場にて懇談することにした次第。高松では、久しぶりに”金魚ソーダ”を飲ることに、一緒に席を囲んだ、担当スタッフのAOKI君が、社長にも勧めたが辞退されて焼酎の水割りを所望された。二時間ほど飲み、場を変えることに。人形町安酒場巡りなので「ちょっぷく」から「セイジュ」と渡り、カラオケなんぞでお開きとした。

翌日の土曜日、朝一便で青森に飛ぶことになっていた私は極力アルコール摂取量を抑えることに勤めた。それでも、これまでのご乱行続きで酒精分の蓄積、貯金が溜まりにたまっているので、酔いが早い。下手な演歌を唄って、発散することに努めたのは云うまでもないが・・・・・。

土曜日、五時半過ぎに家を出て空港に向かう。心配していた乗り遅れもなく、搭乗。定刻に青森空港に降り立った。九時、前夜に車まで青森に入っていたTOKIOが迎えてくれた。青森空港には、来るべき雪に備えた除雪車がスタンバイし、北国の空港らしさを見せていた。

 

そして、津軽半島へと向かった。津軽半島、陸奥湾に面した外ヶ浦町に在る通称「津軽の塔」(昭和53年竣工の電波塔)へと。

この塔の撮影と、周辺の様子をWEBサイトで紹介するのが今回の目的である。空港から陸奥湾沿いに一時間ほど走り、道の駅で一休みしようと立ち寄った。と、彼方にそれらしき塔が見えた。目指すNTTの電波塔、既に役割を終えているが、そのコンクリートの威容だけは、衰えていなかった。

               

左端は1㎞程離れた、休業(冬季の)の道の駅から撮った。塔は、海沿いの道路から10m程上に建っており、真下の道路から撮ったのが二番目の写真。短い坂道を、つる草をかき分けて登り敷地内に入ると、見上げるばかりのコンクリート作りの塔が聳えたっていた。

 

撮影を終え、周辺情報を取集するために半島の先「『竜飛岬」へと向かう。小一時間も走ると、竜飛の集落である。岬の山塊が海に迫り、海沿いの狭い道路に覆い被さるよう迫る。その行き止まりに小さな漁港があった。

太宰治は、戦中に書いた紀行小説とも云える「津軽」のなかで、ここのことを行き止まりの袋小路と云っていいる。ここから先に道はない。港の奥へと廻りこむ、漁船繋留場と防波堤で行き止まりとなった。太宰が訪れた当時、こんな立派な防波堤や港はなかったに違いない。

この防波堤を前に、後ろにタコブラクダのような岩山を背にしたコブの間に挟まるように「海峡亭」という食堂が在る。この立地ゆえか、メニューの本マグロ丼なのか、TVで何度か見た記憶がある。ここで「海峡丼を食べたい」と云うのが、同行のTOKIOのささやかなる願いであった。時刻は正午前であったが、早朝から行動の私も腹ペコになっていた。

店内は薄暗く、今時は、東南アジアの田舎辺りでしか見かけないような、そんな雰囲気。二十畳ほどの座敷に座りテーブルが幾つか並び、客は空いている処に適当に座り、そこに座布団を敷く。お茶はテーブルの端に置いた、ポットとプラ湯のみにセルフ。

メニューの方は、入り口の左手、厨房との仕切り・目隠し用に掛かった暖簾の上の壁に紙が下がっていた。本マグロ丼、本マグロ刺身定食はともに1500円、、海峡丼1700円などと。一番の安値は牛丼の600円。仕事らしい、役所関係らしき三人は、牛丼を喰っていた。店前に停まった山形ナンバーの二人連れは、本マグロ丼辺りを注文か?

TOKIOが厨房に向かって問うた、「海峡丼ってなんですか?」と、厨房の中から年配のしゃがれ声で「刺身だよ」と、明快・正しく間違いのない答えが・・・・。???と、TOKIOが困ったような顔を・・・。それやぁそうだ、魚の種類を訊いているんだから。少なくても、ここのメニューにカツ丼や親子丼はない、あるのは牛丼の600円だけだ。

気を取り直したTOKIOは「それじゃ、それをお願いします」とオーダーを発した・・・・。が、返ってきたのは「それは無い」の一言であった。その時の、唖然茫然、困った顔、情けない表情は、未だ脳裏に刻まれたままだ。「なんでこんな仕打ちを受けなきゃならないんだ、なんでこれほどまでに不親切なんだ、なんで・・・なんで・・・・」の十連発ぐらいか?

諦めきれない思いを残しながらもTOKIOは、私と同じ「本マグロ刺身定食」をオーダーしたのであった。刺身定食をつつきながら「本マグロとホタテの、ハーフ丼を食べたかったのに・・・」と、未練が断ちきれないようだった。で、味の方はどうだったって?『刺身の切れ数は多かった、本マグロらしい味かと問われれば?だった」。お値段1500円じゃ、ねぇ~。

                          

サービスマインド・客あしらい、雰囲気、清潔度はと訊かれれば、点数の付けようがない。例えて云えば、まるでオイラの日常生活のようなもんだ。

 食事の後、腹こなしに短い岸壁に出た。舟は二艘だけ繋がれていたが、他に見るべきものはなし。丁度其処に、地元の人間らしきオヤジが、杖を片手にこちらへと歩いて生きた・・・。『時分の漁はなにが獲れているのか』訊いてみようと思った。ら、なんと何と、防波堤に向かって”立ちション”を始めやがった。とんだ、バカヤロ―であった。

                        

                        岸壁から岬を望む          岬の灯台から港を・・・      

港の風景が好きな私だが、この小さな本州最果ての港は「食いもの屋と立ちション」の二題話で、印象が悪くなってしまった。ゴメンな!

 

腹ごしらえの後は、愈々龍飛岬の頂上、燈台へと向かう。頂上に向かう坂道に入る手前の「太宰治」の記念碑と、太宰が泊まった宿「龍飛館」が残っている。太宰を読んでから数十年は経っので、内容は殆ど覚えてないが・・・「津軽」だけは、所々ながら残っていた。

 そろそろ燈台を、津軽海峡冬景色をと青函トンネルの世界を目指そう・・・。

 

 

 

 

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時間切れ・・・

2015-11-05 | Weblog

11/5(木) 今日も上天気だ、が体は重い。昨晩の帰宅は、24時35分のはずだ。中目黒駅で、日比谷線から乗り換えた東急線は、横浜中華街行の最終電車。最寄りの駅の階段をヨタヨタと降りて改札前の時計を見ると24時30分だった。自宅までは、千鳥足で歩くと五分程であろうから、概ねの帰宅時間は判る。

会社を出たのは19時30分前だった。その足で「ローカーボ」に向かってハイボールを二杯。この夜のローカーボには、常連客の姿は未だなかった。どうやら、口切りの客だった。病み上がりのマスターと雑談をし、早々に次の店「セイジュ」へ。ここも当然、口開け客だ。暫く顔を出してないので、ご挨拶と云う次第。

因みに、口切りとは初めて茶壺の蓋を開けると云う茶道の習わしから来てるそうだ。そんなことも知らないで、言葉を使ってきたんだが・・・・。いい年をして、知らないことばかりだ。

「セイジュ」では、ひとりカラオケだ。カラオケが好きな訳じゃない、声をだし、滑舌よくする為のものだ。それにエネルギーの発散で、酔いを覚ますのにいい。「酒を飲みながら酔いを覚ますとは、何事だ!」と、上戸からお叱りを受けそうだが、こっちは下戸なんだ。それが、涙ぐましい努力で飲んでんだからネ!勘弁してよ・・・

小一時間程で、客が二人姿を現した。これで、おいらの役目はお仕舞と、とっとと店を後にした。次の店は「ちょっぷく」さ、こうして駅にだんだんと近づいている訳だ。敬虔なる仏教徒&神道徒である吾輩は、帰宅の段取りをしながら飲んでいると云うことだ。

「ちょっぷく」では、安ワインの白にした。さっきまでの、セイジュでは焼酎だった。それで思い出したが、今度「セイジュ」にマイボトルを持参することにしたのを。持ち込み可か?と訊かれそうだが、OKOKのOK牧場さ(古いぎゃぐだな)。

持ち込み料なんか不要さ、もともと時間制で飲ませてるし、良い酒は置いてないんだ。持ち込めば、店の酒は減らず大助かりと云う塩梅だ。一時間、お一人様2千円と云う格安料金(HOYA兄さんの提案だ)なのだ。そうそう良い酒を出せるはずがねえゃ・・・。おいらは見栄っ張りだから、2千ばかりの小銭は置かねえが、それでも出てくる酒はおんなじだ。

余談が長くなったな・・・・。「ちょっぷく」で安ワインの白を啜っていると、スタッフのRIE嬢が姿を見せたんだ。『どうしたんだ?』と訊くと「この前、店に傘を忘れたんで取りに寄った」とのこと。『安傘なぞ要らんだろう』と、酷いことをいいながら『折角だから一杯やってきなよ』と、無理強いした。

時間は十時頃であったろうか、こっちは少々酔いが廻っていた。連れができたので、更に利いてきたようだ。考えてみても、みなくても、この時間まで仕事をしてたわけだ。その間、おいらは三軒目で飲んでいると云う体たらくだ。申し訳ないな・・・・ ひたすらこれだね。

ここらで、あげとけばいいものを・・・。客足が途絶え、店長のYAMAちゃんが席に来た。『江連子の女(えづれこのひと)、セイジュになかったよ』と云うと、「ちょっと待ってケロ」と、スマホで曲を流し始めた。この歌は、店長の郷里岩手県にある地名からとった、いわばご当地ソングだが、中々良い歌なんだ。

とうとう二人で、口ずさみ唄い出す始末。客は未だいると云うのに、あわや、カラオケ居酒屋になるところだった。これやぁ危ねえと、『ちょっくらセイジュにいって来るよ』と、舞い戻ったのだ。この時点で、かなり出来合上がっていたんで、唄を歌った記憶は抜け落ちてしまった。ママさんの帰り時間となり、またしても”ちょっぷく”に舞い戻ると、帰り支度をしていた。一杯ぐらい飲んだんかな?

そんな健康的な夜さ、帰宅して着替えはしたが…、気が付くとリビングの椅子でテーブルに俯せっていた。2時30分だった、二時間近く正気を失くしていた。朝になって考えると、目の前に在ったバナナを喰ったのを思いだした。それも二本!

で、今朝の起床は7時になってしまった。それから鍋飯を炊き、菜を作る・・・。時間、足りねや・・・。今朝の予定メニューは「掻揚げ」、これがメインなんだ。揚げ物ついでに、蓮根のエビしんじょう挟み揚げとコロッケも揚げる。コロッケとエビシンジョウは、出来合の冷凍品だ。

                         

煮物は「大根・人参と鶏肉」、焼き物は「冷凍秋刀魚」を。それに、冷凍シューマイと卵焼きだ。以上であったが、長女が寄った時は、ご飯が炊きあがったばかり、秋刀魚は焼けていたが・・・・。

「夜食べるから、とっといてよ」とのことだ。と云うことになると、孫娘のも用意をしなくちゃ・・・。よく気が廻るOYAJIだぜ。孫は海苔が好きなんで、海苔巻き弁当だ。コロッケは、弁当に入らなかったよ・・・・

                              

 

明日は、早朝の便で青森に飛ぶ。津軽半島の先っぽにある外ヶ浜・無線中継塔の撮影だ。帰路は秋田に泊って、きりたんぽ鍋か?土曜の午後に帰京予定。明日は五時半過ぎには家を出る予定だ。残念ながら、弁当の出番はないな・・・・。

 

 

 

 

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同じ失敗を・・・

2015-11-04 | Weblog

11/4(水) 昨夕は家人が出掛けていたので、晩飯を作った。オヤジの作る夕飯なんぞは、たいしたことは出来やしない。が、冷凍で取り置いてあった「剥き栗」を始末しようと「栗ご飯」を炊くことにしたのだ。

 ベッタラ市の祭り用に、スタッフのNOBORUが実家から持ってきた、米ともち米が残っていたのでこれを頂いたのだ。米の方は、この日に祝日勤務をしているスタッフに「オムスビ」にして持っていた。このもち米と新米の「栗ご飯」を、という魂胆だ。

味噌汁を作り、ヤマメの揚げ物、鮎焼き、サラダ、最後は牛焼肉と、万端ととのえた。肝心の栗ご飯だが、もち米四:新米一の配合で、栗を乗せて電気釜のスイッチをONにした。後は、美味い栗ご飯の出来上がりを待つばかりさ・・・・・。

四十分後、釜のスイッチが切れた。さてどうかと、蓋を開ける・・・。栗は美味そうな香りだ、してその下のご飯は、と混ぜる。これが滅茶柔らかい・・・、柔飯は嫌いなんだ!

もち米を炊く時は水は少な目に、この鉄則を忘れて、何時もの新米炊きと同じ水量にしてしまったのだ。普段から炊いてないので、ついつい鉄則を忘れていた。べチャ飯の栗ご飯と成り果てていた。帰宅した家人曰く「お餅のような栗ご飯だね」だって。

肩凝りをしながら剥いた栗にも、NOBORUっちの糯米にも、相すまぬことであった。おまけに四合も炊いたのだから、今朝の弁当にも使うしかない・・・。

で、今朝の弁当ご飯は、あの栗飯である。不幸中の幸いとは、長女が「私は柔らかなご飯が好きだからOKだよ」と、言ったことか。

菜の方は、自家製の「粕漬け焼き」「チンジャオロースー」「小松菜の卵とじ」、出来合のシューマイであった。以上、三十分の台所遊びである。

                    

余談ながら、平和島のボート遊びは祝日の火曜日、最終前と最終レースと連敗した。月曜日の夜、奈加野のオヤジから電話が来た。「おーい、明日は最終日の優勝戦だから行くぞ!。日曜日のリベンジだから、前もって連絡したんだ」と。丁度、「高松」で飲み始めた時であった。

『明日は、スタッフも出勤するんで会社に行く予定だ。ボート遊びは、ちょっと難しいな』と、返したのだが・・・・。昼にオムスビを持参して会社に出たが、平和島が、ボートの爆音がどうも気になる。それに、奈加野のオヤジを最後まで一人にせておくのも同郷の後輩としては、引っ掻かかる・・・。

などと、勝ってな思案の末に、折角会社に出たのにも関らず(もっとも仕事もないのだが)早々と、会社を後にすることにした。出社しているスタッフには『これから、稼ぎ仕事に行ってくるからネ』と、ニッコリ微笑んでの上で。

急かす気持ちをなだめながら、ボートレース場に着くと三時半になっていた。残りのレースは11,12の二レースだけだ。しかし、YOSHIOが持っていたスポーツ紙とネットで、素人ながらも予想・検討だけはしておいたさ。

奈加野のオヤジを探すと、日曜日と同じ席に居た。その肩は落ち、背は丸まっていた…、これで今日の結果は、明明白白と云うことだ。『どうなのよ?』と、一応は訊いてみる。「駄目だな・・・」と、案の定の応えだ。『暇つぶし、気晴らしに来てるんだから、いいじゃないのよ』と、心にもない返事をした。

                              

それから、二レース。お互いに関知せずに舟券を買ったのだが・・・・・。今一歩と言うべきか、付きがないと云おうか、読みが外れたと云うべきか、運がないと云うか、またしても勝利の女神は我が頭上に微笑まなかった。

こんなもんだろうと、二人して納得しながら、させながら、平和島を後にしたのであった。冬場となり、レースの終わりは早い。家に帰ると、未だ五時だった。それではと、晩飯を作ることにした次第だ。べチャ飯の栗ご飯になってしまったが・・・。ついてない日は、なにをしても駄目か。

 

冬の一日と人生は、黄昏が、幕が降りるのは早い。バカな遊びにうつつを抜かしていてはいかんが、人生には遊びも息抜きも必要なのだ・・・。そればっかじゃねえか、と外野の声が聴こえてきそうだな・・・。  

 

 

 

 

 

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弁当&尾道

2015-11-02 | Weblog

11/2(月) 先ずは、先週に訪れた尾道市のことについて軽く触れたい。同じ広島県の三次市布野町での取材を終え、我等は尾道に入ったのは水曜日。既に夜の帳が下りた時刻であった。このことは、先日に触れた。

尾道を訪うのは、二度目のはずだ。約三十年も前のことだと記憶する。その折は、現在T物産の社長をしているOKAZAKIさんが同行していたような覚えがある。とすれば、仕事で行ったことになるので、多分備後地方の取引先、縫製工場を訪問した時のはずだ。それ以来、訪れた記憶はないが、TVなどでもよく紹介されるので、何度もいったような気分である。

チェックイン後、駅前まで食事に出たが、駅舎とその周辺は様変わりだった。朧な記憶ながらも、情緒あった駅舎は近代的とと云うか、面白味がないと云うか、日本中そこ彼処にある顔であった。そして、そこ彼処に在るような居酒屋で一献交わし、食事を摂った。

翌朝は、目的である「中村憲吉」終焉の棲家へと向かった。広島空港からレンタカーを使っているので、動くには便利である。尾道のシンボル「千光寺公園」へと向かった。ここの頂上から、文学の小道とやらを下って千光寺、そのすぐ下にある憲吉終焉の住居(尾道市が終焉の地として保存管理)へと向かう。

                    

                                    山頂                          文学の小道

御承知のとおりに、尾道は坂の町だ。麓から歩いては、この弱った足も、同行のロートル取材陣は顎を上げ、舌を出してしまうに違いないのだ。行きはよいよい帰りは恐い、童謡ではないが、頂上付近に置いた車は? ご心配なく、ケーブルカーと云う便利な乗り物があるんだ。麓まで下りて、これで戻る。こう云う算段である。

千光寺公園からの眺めは素晴らしい。青い空の下に、大きな川、運河かと見紛うような尾道水道が、本州と向島を隔てている。それに連なるように瀬戸海の島々が重なり、彼方にまた陽光を受けた海が光っていた。

                     

               三重の塔(国宝らしい)    途中のカフェから   ケーブルから尾道大橋を望む

一望の後、文学の小道とやらを下る。志賀直哉・林文子・正岡子規とう、江戸・明治・大正の文豪、歌人・俳人の歌や句が、坂道の傍の石に刻まれている。千光寺を過ぎると、直ぐに中村憲吉旧居跡の標識が建っていた。工事中の家の下に、憲吉終焉の家が、立派な碑に篆刻された歌で示されていた。

                            

旧居には、転地療養の為に移った12月から、逝去までの半年ほどしか住んでいないが・・・・。住い、意外と小さい。十畳と六畳ほどの畳部屋に、狭い廻り廊下と、海に向かったガラス戸。三次・布野の生家を見て来た後だけに、そう感じた。然し、傾斜の急な山際、たおやかな海を臨み、陽光に恵まれた住いは快適であったろう。ましてや、買い物で坂を上り下りすることもないのだ。

                      

尾道と憲吉、そしてふる里・布野、それを繋ぐOBのMASUIさん。如何に紡ぐのか、ライターの苦労が思いやられるな。今回は私ではない、ああぁよかった。                            

時間が押されたので、弁当は写真だけで・・・・。ご勘弁を!

              

 煮物は、鶏・大根人参・油揚げ。焼き物は、シメジ・シシトウ・ピーマンのオリーブオイル炒め、鮭は生鮭のバターソテー。卵焼き、シューマイは出来合の冷凍品。ホウレンソウの胡麻和え。定番の卵焼きでした。

 

 

 

 

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久々の雨・・・

2015-11-02 | Weblog

11/2(月) 今朝の東京は久々の雨。朝方は強めの降りだったが、昼過ぎの今は上がったようだ。肌寒くて、スタッフの中にはマスク姿が・・・。電車の中でも同じようなマスク姿が目立つ。

先週の金曜日から土曜日にかけての旅行会、信州は白骨温泉へのバス旅行では、朝から帰りまで車中で飲みっ放し。すっかり飲み疲れてしまった。早や二十年近くにもなる、職場仲間との旅行。最近の様子や昔話と、すっかり愉しませて貰った。

往路の諏訪湖サービスエリアでランチを摂った。

                        

めいめいが好きなものを、券売所で買って諏訪湖を望む席へと向かう。不覚にも2880円也の「鰻重」のチケットを買ってしまった。案の定の大外れ『これじゃ、秋刀魚の蒲焼きか泥鰌の蒲焼きの方がましだぜ 』そんな、硬くて味気もない最悪の代物であった。

                          

今回、残念だったのは、鰻のことはさて置き、いつも陽気なKEIJIが仕事の関係で、ボソボソと俺に教訓めいたことを垂れるMIKOSHIBA君が脊柱管狭窄症とかで来れなかったことだ。日頃から行いが良くない?二人のことだから、致し方なしか。俺ぐらい品行方正なら、肝心の時は何の問題もないのになぁ~。

白骨温泉へは、松本を経由して行くらしい。一行は、その途中に在る松本城に立ち寄った。松本に足を入れたのは、二度目か三度目かだが、忘れるぐらい古いことだ。覚えのある時からでも、二十年は経っている。大手門を潜ると菊花展が開かれていた。本丸には上がらず、お城の入り口に在った蕎麦店で、ザルを食して舌に残った鰻の嫌な味を消した。でも喰い過ぎだな・・・。

                        

白骨温泉は初めてだが、中々いい温泉であった。山中の、本当に山の中の、それも深山と云えるような峡谷に、へばり付くように何軒かの宿が在った。薄く白濁した湯は柔らかで、心地よかった。 

                                       

出発の朝、ホテルの周囲を少し歩いた。この辺りの紅葉は既に終わり、木々は枝を幹を晒しヒマラヤ杉の葉は道を黄色に染める。遠い峰々は、片栗粉を散らしたように朝日に輝いていた。

                         

                             乗鞍岳だとか

帰路、安曇野の「大王わさび」と云うわさび農園&観光施設に寄った。百年の年月を掛けて整備したと云う、このわさび田の見事さには敬服した。それほど見事であった。スタッフのTOKIOは、ここ安曇野の出身なので、穏やかな平野の佇まいに、ついつい携帯を鳴らした。

                        

「安曇野にいるんだけど、君の家ってどこら辺りだ?」と、『川の向こうの山裾辺りですよ』と返ってきたが、何処が川やら、山に囲まれた平野の裾野は余りにも広すぎて、さっぱりイメージが湧かなかった。ただ、これだけの平野であれば渡来人達が大挙して移り住んだのも頷けた。

帰りの車中も、しっかり飲まされて、上野駅前に着いたのは夜の帳も降りた六時を過ぎていた。会社に寄ると、何時ものYOSHIOとFUJIKURAにAOKIが、仕事をしていた。天皇賞の検討をし、「ちょっぷく」に立ち寄ってYAMAちゃんの講釈を聞き流し、購入を依頼したのであった。

 

日曜の昨日、午前中は孫の”そら”の相手を一時間程し、碑文谷公園でボートに乗った。水面を泳ぐ水鳥を見て「追いかけて、追いかけて」と、煩いのだ・・・。誰に似たのか、遊んでいても直ぐに飽きてしまう(こっちは大助かりだが)。駄菓子屋で、安い菓子を与えて送り届けた。

昼、「奈加野」のオヤジから電話が入る「着いたよ・・・」と。十時前に電話をして『今日は平和島でボート遊びだろう?』と、コナかけておいた。着いたら(我が家の傍)連絡するとの約束が出来ていたのだ。と云うことで、オヤジの運転する車で久々にボートレースに出掛けた。

車中の会話『昨夜はどうだったの?忙しくはねえだろうな。渋谷のあの騒ぎじゃ』、「暇だったよ、街は歩けやしない。あれじゃ客は来ないよ。一組だけだったな、二階が空いているよ、と入って来たのは」。

勿論、あのハローウィンのバカ騒ぎのことだ。去年の大混雑、歩けない状態に懲りて、この時期は渋谷に近づかないようにしている。TVで見るだけでも唖然、茫然だ。それはさて置き、「KURAさんが、ああでもないこうでもないと言うので今日の天皇賞を買ったんだよ。どうかな?」と云う。

『そんなもんが俺に判る分けねぇよ。お祭りなんで、一応買ってはみてるけど』、そんな会話をしているうちに平和島競艇場に着いた。既に第四レースがスタートする処であった。冬場に入ると、レース開催が早くなり、早く終わるのだ。

僕らは、第五レースから参戦した。表現が、チョット大仰すぎたかね! 最初は離れ離れでレースを買っていた。最初の三レースは、勝った。それから、オヤジと一緒に見るようになって、四連敗を喰らった。オヤジもトータルで負けたようだ。

                            

「まあ、一日安く遊んだんだ。そう思えばな・・・・」と、敗軍の将は諦めと切り替えが早い。俺らもう一歩なんだが、それが上手く来ない。これは運がない、やって来ないのだと思っている。こうやって遊びながら運試しと、運を呼び込むトレーニングに励んでいるのだがな・・・・。秋の天皇賞もお互いにハズレ、二人とも運に見放されたのか?

真剣身が足りない、運を呼び込もうと云う真剣さ。思いが足りねえわな、特に俺の場合は。何時になったら真剣になるのか?そなれば、百円・二百円とちまちました子供のままごとのような買い方はしねえな。ひとレース、五千~一万は行くな・・・・。そうか!そういう勝負をしないから真剣にならねえんだ。運を掴もうとしないのか・・・・。

分ったようなきがするね、大勝負をするしかねえか? しかし、以前に相当痛い目に遭ってるからな。あの時は、数千万はやられたからな。あれも真剣さが足りなかったのは確かだが・・・・。目覚めよ、眠れる獅子よ! 。数十年の眠りから醒めよ! と、云うことだ。が、・・・果たして目覚める時はあるのか。来るのか?

 

と、云うことで今日の第一部はお仕舞。第二部は、弁当編と尾道編になります。

 

 

 

 

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