オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

伊豆大川と先生

2018-10-30 | Weblog

10/30(火) 昨日につづき、伊豆大川にある若山先生の墓参について記す。

13:20分ごろであったか、伊豆急下田行きの電車は熱海駅を発車した。その車中で、同行のYOSHIOとFUJIKURAに『俺、若い頃にこの駅で小荷物掛かりのバイトしたことがあるんだよ。随分と昔になるけど年末の繁忙期のことだけどさ』と、話をした。

『その時に貰った臨時定期券が重宝なもので、何処までも何処の電車でもそれで乗れたんだよ。東京の私鉄にもそれで乗ったんだ。』いい時代の時の話さ・・・と。年末で伊東や下田方面からミカンの箱が沢山送られてき、それを積み替えていた。夜は休憩室で、夜食を作って食べていた時代のことだが、そんなシーンをこの駅を通るたびに思い出す。

電車は来宮から伊豆多賀、宇佐美と網代湾に輝く陽光を浴びながら進む。伊豆急線の駅名は未だ、その大方を諳んじている。それだけ通ったと云うことだが。

                       

伊東から富戸、川奈と過ぎ、城ケ崎(ここらに差しかかると城ケ崎ブルースと海岸の吊橋の話だ・・・)伊豆高原駅で後ろ三両が切り離され、出発してトンネルを抜けたら目指す「伊豆大川駅」に着いた。ホームも駅舎も昔と変わっちゃいないが・・・、ホームの両側に植わっているはずの「エリカ」の花が無い!

二人に、『エリカの花って知ってるか?、西田佐知子がエリカの花咲く頃っていう歌を唄ったんだよ。その可憐な紫色の花が、大川駅のホームに植わってるから・・・・』道中、そんなことを言ってきたのだが、植わっていたのはストレチア、極楽鳥花とか云うやつが、線路の両側端から端まで植えられていた。

                       

一番前の車両から降りたので、運転士に訊いた。エリカの花はどうなったの?と。返ってきた答えは「土壌が合わなくてこの辺りは育ちにくいようですよ」だった。じゃあ、西田佐知子の唄った「・・・伊豆の山陰にエリカの花は咲くと云う・・・・・」この歌をどうしてくれんだの気分に。どうやら、これから先の暗雲を予測してかのようだ。今、思い返せば・・・・。

私がこの地によく通っていた当時、エリカの花が両サイドのホームに植わっていた。一メートルに満たない箒のような低木で、薄紫の小さな花を沢山つけていた。この花に出会えず、ガッカリして改札への階段を上ったら、無人駅になっていた。ここは、伊豆の山々が海岸へと迫る狭い地域なのだ。

墓に飾る花も、ローソクも線香も準備できなかった。駅前にはタクーシーもなく(以前はいたように思うが)、お店もない。覚えのない、小さな足湯が設えられており観光らしき女性が二人足を浸けていた。湯加減を訊くと「丁度いいですよ、入りませんか」と、優しい言葉が・・・、混浴は不味いのでと笑いながら返した。

駅前の閉まってる店の横で作業をしている小父さんに、タクシーのことと線香など売っている店はないかと訊ねると「タクシーは熱川から呼ぶしかないね。線香はうちの店に寄っていきな家にあるのをあげるから、電話しとくからさ」と親切だった。店は五分程、坂道を上った旧道沿いで、ここに来ていた頃から在る店だった。

 店に寄ると、小母さんが線香を一束渡してくれた、和菓子や駄菓子を商うお店だった。FUJIKURAが気を利かせてどら焼きを三っ買った。私は、帰りに寄らせてもらいますと告げ、店から200m程先に在る、先生の自宅のことを訊いた。

「若山さんの奥さんは、引っ越されましたよ。家は他所の人が買って住んでますね・・・」との話。先生の奥さんが横浜に居る、MARIKOお嬢さんのとこに行ったことは承知していた。二年ほど前まで、盆暮れのやりとりを家人がしてくれていたから。奥様がお嬢様に気を使うかもしれないからと、止めてしまったが。

然し、家まで手放されたことはついぞ知らなかった。バブルが弾ける前、先生たちは四谷三丁目の交差点に近い処に住んでいた。一族の家族が何組かいたが、詳しいことは聞いていない。先生はそこの長男であった。一族は鉄鋼所を営んでいたが、時代の波の中で土地を処分して、先生はホテル経営をしている友人が居た伊豆大川に移った。海を臨む旧道沿いの敷地に、温泉を引いた立派な邸宅を構えたのだ。その家には何度か伺い、泊まらせて頂いた。

先生自慢のその家も手放されたか・・・と、少し残念な思いがした。墓参の帰りに、家の様子を窺うつもりだったが・・・・。

そんなことがあったが、気を取り直して墓地に向かうことにした。狭いながらも山の一本道、間違えることはない。谷川が流れ、黄色く熟れた柿、道端の畑のストレチアの花、竹やぶと道路に被さるような広葉樹の下を坂道を登る。長閑な山里、振り返ると青い海の向こうに見えるのは伊豆大島であろう。

                             

伊豆大川には、若山先生が移られる前からの因縁があった。先生の知人で、整体師をされていた木村オオスケ先生が弟子たちと、この地に居られた。木村先生を紹介してくれたのは若山先生である。それは、石廊崎に先生と奥様、先生を紹介してくれた友人のMATUMOTO夫妻、我が夫婦で一泊旅行の帰りに友達が居るからと立ち寄ったことから始まった。

木村先生は八光流の柔術家で、そこから整体の道に入った聞く。木村先生たちは、旧道から墓所のある山道に入って直ぐの民家を借りていた。先生たが生活する住居の上段に古い民家もあった。そんなことから、何がきっかけであったか覚えていないが、古い民家を足がかりに、その裏に家(小屋)を建てようと、独身寮時代の後輩たちを誘って伊豆大川通いがスタートしたのは、私の二十代が終盤になった頃だった。

自由に使っていいと言われた山から、柱にする木を運び出したりの力仕事だけでほとほと疲れ、屋根をふき一部屋の板の間を貼っただけで、我等の小屋作りは、見事失敗に終わった。道具や材料を車で運び込み、当初は意気込んだ後輩たちも息切れ、私が本社転勤になったこともあろう。一年程つづいた活動は消滅したが、それからも木村先生の元を何度か訪れた。

 或る時、木村先生が弟子だか奥様に言われたらしい「ARISAWA君は、ドロップアウトするんじゃないか」と、心配されたようだ。伊豆大川では、木村先生にも随分とお世話になったのである。その後、先生たちは小笠原に移り、先生は東京で亡くなった。ある年の暑い夏、弟子の一人から電話を貰った。駆け付けたのは文京区か豊島区か記憶は定かでない斎場、少人数に守られた先生の亡骸と面会した。奥様は先に亡くなれていた。

あの夏の夜から、一体どれだけの歳月を経たことになろうか・・・・。伊豆大川での出会いと出来事、そんなことを思い浮かべながら、坂道を墓地へと向かう、流れ始めた汗を拭いながら・・・・・。この地にも幾多の思い出が埋まっている。

 

 何故か、墓地までの距離が果てしない・・・・。坂道の途中ながら、今日はここまでにします。

つづいて、今朝の弁当を軽く紹介しますと、今朝はなんと「ステーキ」がメイン。それも国産黒毛和牛と云うやつだ(賞味期限間近の割引だが)。これに、アスパラ&ピーマンのベーコン炒め、レタス&セロリ・リンゴのサラダ、卵焼きと云うのが菜です。

             

ご飯の方は、鶏ごぼうご飯の素(グリコ)を使った炊きこみご飯にしたが、牛蒡と鶏肉を追加して出汁は少々自己流で工夫?ならぬ変形にした。

                     

炊きこみご飯の類は、義母が好みのようなので・・・。味噌汁を作り、自分用のスムージーはリンゴ・ブドウ・バナナ・キューイにした。そして、体重の過剰減少に歯止めをと、炊き込みご飯・サラダ・味噌汁を頂いた。

                         

 

 

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 土・日のことなど・・・ | トップ | 墓参 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事