徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「少年と自転車」―寄り添うことで孤独から救われる少年の愛の物語―

2012-05-09 11:00:00 | 映画


 ・・・一緒にいてくれたら、ただそれだけでいい。
 日本の女性弁護士から聞かされた話から、この物語は生まれた。
 赤ん坊の頃から施設に預けられた少年が、親が迎えに来てくれるのを屋根に上って待ち続けたという話に着想を得て、映画化された。

 親に捨てられた少年が、初めて信頼できる大人の女性と出会ったことで、心を開き成長していく。
 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督の、ベルギー・フランス・イタリア合作映画だ。
 ベルギー出身のダルデンヌ兄弟は、子供や若者の問題を中心に、社会と人間のありかたを追及する作家として知られる。
 少年の心の軌跡を、丁寧に暖かく描いた作品で、フランスカンヌ国際映画祭グランプリ受賞作である。





     
少年リシル(トマ・ドレ)は、もうすぐ12歳になる。

彼の願いは、自分を児童相談所へ預けた父親(ジェレミー・レニエ)を見つけ出し、再び一緒に暮らすことであった。
そんな時、シリルは美容院を経営するサマンサ(セシル・ドゥ・フランス)と出会った。
シリルは、週末を彼女の家で過ごすようになった。

シリルは、自転車で街中を駆け回って、サマンサとともにようやく父親を探し出した。
だが、父親の態度はすげなかった。
そればかりか、「おれに二度と会いに来るな」と言い放たれる始末だ。

シリルが、実の親に再び見捨てられる姿を目のあたりにして、サマンサは、付き合っていた恋人との間に軋轢を生んででしまうほど、これまで以上にシリルと真直ぐに向き合い始めるのだった。
人との接し方、夜遅く外出しないこと、悪いことをしたら誠意をもって謝ること・・・、少年シリルの心は、サマンサとの触れ合いの中で、少しずつ変化し始める。
しかし、そんな折り、シリルが起こしたある事件がきっかけで、シリルは窮地に追い込まれる・・・。

ダルデンヌ兄弟といえば、カンヌ国際映画祭で2度のパルムドール大賞(「ロゼッタ」「ある子供」)、主演男優賞(「息子のまなざし」)、脚本賞ロルナの祈り」)、そしてこの作品でグランプリを獲得した。
5作品連続で、カンヌの主要賞を総なめにするという、史上初の快挙を成し遂げ、いまや世界の名匠としての名をほしいままにしている。

少年がサマンサという女性と親しくなり、週末には彼女の美容院へ遊びにいく。
サマンサが、リシルの里親である。
このサマンサ役のセシル・ドゥ・フランスが、、爽やかで優しく、すがすがしい。
彼女は少年の面倒を見ることで忙しくなり、「おれを取るのか、この子を取るのか」と、恋人の男からなじられもする。
その時、サマンサはすかさず、「この子を取る」とはっきり言うのだ。
根性の小さな男に、吐き棄てるように投げられるこのセリフは、とってもきっぷがよい。

一方、父の行方を探し当てても、自分の息子一人育てることもできない父親の情けなさは、少年シリルにどう映っただろうか。
ドラマの中で、父親に認めてもらいたいシリルが、調理している鍋を両手でかき回そうとするシーンがいじらしい。
ここは、自分を捨てた父親に、それでも自分をいい息子だと見てもらいたかった、そのシリルの心情が吐露されていて、ぐっとくる場面だ。

シリルは、父の買ってくれた自転車を持っていたが、あるときそれが無くなっていて、盗まれたのだと思った。
実は、その自転車を売ってしまったのは父だった。
自転車を持っている人を見つけ、盗まれたと思っているシリルが追跡するシーンがある。
肉親といえども、その絆の脆さが浮かび上がる。

シリルが強盗をし、それで得た金を全部父親に渡そうとして拒否され、夜の街路を自転車で疾走する場面も、少年を取り巻く夜の闇とともに、そこに少年の痛切な孤独も浮かび上がる。
この映画のラスト、水辺をサマンサとシリルの乗った自転車が爽やかに並走するシーンは、言い知れぬ心の和やかさを感じさせて、素晴らしい。
女性の母性が、恋人よりも少年を選んだあたりも、実に爽快だ。

子供から大人への過程で、とくに男の子たちが体験する、様々な困難や環境のゆがみや軋みの中で、ゆっくりとではあるが、少年の心が快方に向かっていく。
少年シリル役の、13歳の新人トマ・ドレの気負いのない演技もさることながら、サマンサ役のセシル・ドゥ・フランスの好演も光っている。
人は誰かとつながることで、ささやかであっても希望を見出していくものだ。
この作品「少年と自転車」という小さな愛の物語は、小品ながら心憎い演出と相まって、実は純粋でとてつもない「愛の物語」だといえる。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


映画「僕等がいた」(後篇)―出会いの前篇に続くその後の主人公たちのメロドラマ―

2012-05-07 12:00:01 | 映画


 この映画の前篇は、初恋の甘いムード全開だった。
 さて、後篇はどうか。
 三木孝浩監督は、少し大人になった若者たちをどう描いたか。

 ・・・あの日、確かにここにいた。
 何度も、失敗を繰り返した。
 それでも、永遠があると信じていた。
 出会い、失い、そして最愛を信じたという、永遠の(?)純愛物語の、未来を誓った運命の後篇が完結する。
 メロドラマの常道をたどって迎える、この物語の結末は、はたして・・・?








           
6年後、東京・・・。

大学を卒業し、出版社に勤め、多忙な日々を送る七美(吉高由里子)がいた。
その七美のそばには、矢野(生田斗真)ではなく、彼女を見守り続けてきた竹内(高岡蒼甫)の姿があった。

ある日のこと、七美の出版社の同僚で、矢野の転校先の同級生だった千見寺希子(比嘉愛未)から、矢野を目撃したと知らされる。
空白の6年間に、矢野に何が起こったのか。
何故、矢野は七美の前から姿を消したのか。

両親が離婚することになって、矢野は、母親と東京に越すことになった。
矢野は、最初のうちは恋人七美に毎日のように電話をかけていたが、母親の失職、ガン発覚、闘病が重なり、あげくの果てにその母の自死という最悪の環境の中で、七美への電話さえもままならなくなっていたのだった。

釧路で電話を待ち続ける七美は、ひたすら矢野を信じていた。
七美は東京の大学に進学し、卒業して就職したが、矢野とは一度も会えないままだった。
その間、たえず七美を慰めていたのは竹内だったが、その竹内がついに七美にプロポーズを・・・。

そんな時、七美は千見寺から、矢野を目撃したとの話を聞かされたのだ。
七美の心は、矢野への抑えがたい想いと、竹内の愛情の狭間で揺れ続けた。
そして、七美は、迷いながらも、ある決心ををするのだったが・・・。

かつて、「君の名は」(菊田一夫原作)という人気ドラマがあったが、この作品もそんなメロドラマの展開をたどる。
後篇は、やや大人になった彼らの、男と女のそれぞれの思惑が交錯し、かつてのふわふわしたどこか頼りない恋愛から、どろどろとした大人の恋愛へと変わっていく。
矢野と七美のすれ違い、竹内の裏切り、矢野と有里(本仮屋ユイカ)の秘密の暴露といろいろある中で、もちろん推敲不足と思われるような筋書きやお膳立ても目立つが、後篇は、前篇のくだくだしたドラマより数段よくなった。
これは、前作の比ではないと感じ入った。

この映画は、前篇を見ていなくても、後篇だけでも十分物語としては理解できる。
それから、あえて言えば前後篇の二部作にする必要はなく、全体で2時間のドラマ1本にまとめあげたほうがいい。
それは十分に可能だし、その方が、よりメリハリの効いた作品となったのではないか。
登場人物の年齢が、俳優たちの実年齢に近くなったことで、まあ多少違和感もなくなった。
ドラマがメロドラマなのは相変わらずで、とくにこれといった新味を感じるものではない。

多感な思春期から大人の青春期へ、時は流れ、人は変わろうとも、記憶は単なる思い出に変わってしまうのか。
このドラマの終盤には、原作とはまた違った、映画オリジナルの運命の完結編が用意された。
三木孝浩監督映画「僕等がいた」(後篇)のラストシーン、それは、北海道釧路の廃校となる、母校の屋上にひとりたたずむ七美の姿を映し出していた。
あの頃の、眩しい記憶がよみがえるなかで・・・。
それにしても、累計1200万部突破というベストセラー、小畑友紀の大人気コミックには恐れ入りました。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「KOTOKO」―病み壊れていく精神の痛苦な叫び―

2012-05-05 21:00:00 | 映画


 強烈な個性のアーティストの登場だ。
 この映画の鑑賞は、好むと好まざるとにかかわらず、衝撃の映像体験をすることになる。

 Coccoに心酔する塚本晋也監督は、ここで演技を超えた肉体表現を試みる。
 人が生きること、それがいかに苦しいことか。いかに困難なことか。
 企画、製作から、脚本、撮影、編集、出演まですべてに関与して映画を作り上げる。
 その創作スタイルは健在だ。
 彼の稀有な才能が、この作品で爆発する。
 それこそ、生きろ、生きろ、生きろだ。
 その声が、歌が、そして祈りが、叫び続ける・・・。








     
琴子(Cocco)は、ひとり幼い息子大二郎を育てている。
琴子はシングルマザーだ。

彼女には、世界が二つに見えている。
だから、うっかり油断すると、命にかかわる日々を過ごしている。
琴子は、いつも気を許せない。
彼女は、どんどん神経が過敏になってゆく。
大二郎に近づいてくるものを殴り、蹴り倒し、必死に子供を守ろうとする。
琴子の世界が“ひとつ”になるのは、歌っている時だけなのだ。

大二郎を散歩に連れて行くと、大二郎はいつも激しく泣き続ける。
琴子は、大二郎が喜ぶことなら何でもする。
外に出かけて、高台に立つ。
そこで、もし抱いているわが子の手を放したらどうなるか。
強迫観念が、琴子を追い詰める。
ついには幼児虐待を疑われ、大二郎は遠く離れた琴子の姉のところに預けられる。

琴子は、自分の体を傷つけることで確認する。
存在することの意味と、「生きる」ことの意味を・・・。
ひとりで毎日過ごす琴子に、小説家の田中(塚本晋也)が近づいてくる。
琴子が沖縄にいる大二郎を一度訪ねたとき、車内で彼女を見つめていた男だった。
田中は、バスの中で聞いた琴子の歌声に魅了されたという。
彼女は、彼を暴力で遠ざける。

琴子が遠ざけても遠ざけても、田中は、自分が傷だらけになりながらまたやってくる。
そうして、とうとう結婚指輪を携えてきた。
自分で答えを出すことができない琴子は、田中と二人で大二郎のいる沖縄を訪れる。
沖縄で、田中とともに穏やかに眠る大二郎を見て、琴子は「私は幸せになる」と心をきめる。

しかし・・・、琴子に憎悪と恐怖の遠い記憶が甦る。
一緒に暮らし始めた田中を縛り上げて、琴子はぼろぼろにする。
田中は無抵抗のままである。
制御のきかなくなった自分を忘れて、琴子が暴れる。叫ぶ。
田中は、「大丈夫です、大丈夫です」と繰り返しながら、血まみれの体で抱きしめる・・・。

まあ、こんな風なあらすじ(?)なのだが、主人公役のCoccoは、魂に共鳴する歌声、心を揺さぶるような詞、独特の世界観と他を圧倒する存在感で、登場する。
琴子には、世界が二つに見えているのだ、二つに・・・。
それでも、歌っている時だけは、世界がひとつに見える。
琴子には、誰よりも大切な幼い息子がいる。
彼を守りたいと強く思っている。
そう思えば思うほど、社会に対して過敏になり、神経のバランスが壊れていく。
琴子は、そういう女なのだ。
その琴子が、見知らぬ男から声をかけられる。
男は小説家で、ふと耳にした彼女の歌声に魅了されて・・・。
そして、やがて二人は一緒に暮らし始め、世界はひとつになったかのように見えたはずなのであった・・・。

琴子は、〈生きる〉ために自分の体を傷つける。
幼い息子を愛することで、精神の均衡を失い、病んでいく。
その彼女を狂ったように追いかける小説家は、まるでストーカーだ。
琴子は、現実と虚構の間を行ったり来たりして、彷徨い続ける。
わが子を溺愛(?!)するあまり、世界から遠ざかり、孤立していく。

こう見てくると、愛とは、子供とは、いったい何なのだろうか。
この世には、危険がいっぱいだ。
その危険から、子供を守ろうとする女の本能を、根源まで突き詰めると、子供は母親の一部となり、一体となる(?!)。
そこにまた、母親の新たな苦悩と煩悶が生まれる。
その時、女は歌うのか。

精神を病むとは、どういうことか。
映画とかドラマ性をどうこう言うより、この作品は、そうした人間の病める現代の狂気のアートだ。
大音響の効果音や、いたずらなノイズががんがん響いてくる。
観ている方は、大変な忍耐を要する場面だ。
狂気の連鎖、救いのない妄念・・・。
生を実感するため、自分の体を傷つける。
自傷行為とともに、女は壊れていく。病んでいく。
確実に、間違いなく、人間が崩壊していく。
そして狂う。狂いまくる。
人間は、こうした選択しかできないものだろうか。

塚本晋也監督映画「KOTOKO」は、母性への敬愛を描きながら、女の精神の内面を探り続ける構成で、作者が心の中で、子供が安心して未来を迎えられるようにしていくために、自分が何をしなければいけないか、深い悩みを抱える母親への警鐘は、去年の3.11大震災が引き金になっているようだ。
作品は映像そのものが衝撃的なので、その厳しさも半端なものではない。
みずからを傷つけて、血を流し、「生」を問う女性の内省的な暴力を、いったいどこまで昇華させようというのだろうか。
そして、昇華したのか、しなかったのか。わからない。
歌うことも踊ることも、祈りなのか。
・・・しかし、この作品、塚本ワールドの信奉者(?!)には大変申し訳ないが、精神の慟哭と再生の物語(?)としては、映像表現においても決して後味の良いものではなかった。
どう見ても不穏この上ないドラマで、上映中に逃げるように退場した観客が数人いたことが、この作品の本質をいささかたりとも物語っている。
     [JULIENの評価・・・★★☆☆☆](★五つが最高点


映画「わが母の記」―離反していた心を結ぶ母と子の絆―

2012-05-03 12:00:00 | 映画


 家族だから、言えないことがある。
 家族だから、許せないことがある。
 それでも、いつかきっと想いは伝わるものだ。
 時代が変わっても、家族の絆だけは変わらない。

 「クライマーズ・ハイ」などの社会派作品で評価されている、原田眞人監督が、昭和を代表する文豪井上靖の自伝的な原作「わが母の記~花の下・月の光・雪の面~」を映画化した。
 撮影は、井上靖が家族と過ごした、東京世田谷の自宅でも行われた。













      


                
小説家の伊上洪作(役所広司)は、子供の頃両親と離れて育てられた。

そのことから、洪作は、母に捨てられたという想いを強く抱きながら生きてきた。
父・隼人(三國連太郎)が亡くなり、残された母・八重(樹木希林)の暮らしが心配になり、長男である洪作は、妻・美津(赤間麻里子)、琴子(宮崎あおいら三人の娘たち、そして妹たちに支えられ、これまで距離をおいてきた八重と真直ぐ向き合うことになった。

だが、年老いた母の記憶は次第に薄れてゆく。
その中で、ただひとつ消し去ることのできなかった真実があった。
それは、洪作が5歳から8歳の間伊豆の山奥で、洪作を育てた曾祖父の妾おぬいのことだった・・・。
そして、初めて母の口からこぼれ落ちる、伝えられなかった想いが、いま50年の時を超えて母と子をつないでいこうとしていた。

ここに井上靖という作家の、知られざる家庭人としての、その素顔の一面が浮き彫りにされる。
昭和の時代を生きた大家族は、お互いに悲しみ、笑い、苦楽を共にして過ごしてきたのだった。
原作には男の子たちも登場するが、映画では「リア王」みたいな三姉妹に変更され、女性たちが主役を務めきった。
映画は、母親が次第に記憶を失くしていくことに伴う周囲の反応を、ほほえましいタッチで描いている。
樹木希林は、ほどよいユーモアで時には笑わせ、全体に恬淡とした物語でありながら、ほのぼのとしたものが伝わってくる。

登場人物たちには、主人公はじめあまり強いインパクトは感じない。
原田監督は、井上靖の原作に書かれなかった母と子の心理を、まずは自分に見捨てられたと思わせておいて、それを母子の愛情物語へつないでいこうとした形跡がうかがえる。
実際の祖母は、映画の中の樹木希林よりももっと小柄で、細目で、気性の激しい人だったようだ。
東京の井上邸は、取り壊される直前に撮影を終えたことで、当時の書斎はそのまま映画のセットになった。

三世代の家族の、心の引き継ぎと絆を描いたこの作品は、ふと往年の小津映画を思わせるものがある。
そういえば、洪作の着物姿だって、小津映画の佐分利信にスタイルが似ている。
井上靖「通夜の客」を映画化した「わが愛」も、彼が主役だった。
原田眞人監督映画「わが母の記」は、母と子の物語を中心に、普遍的な家族愛を描いて、国際的にも高い評価(モントリオール世界映画祭審査員特別グランプリ受賞)を得ているようだ
映画館は、満員札止めまで出たのには少々驚いた。

ただ、この作品の冒頭で、洪作の子供のころの記憶として、洪作が土砂降りの雨の中で軒下に立って、向かい側にいる不機嫌な顔をした母と幼い二人の妹が映っているシーン以外は、母と子の離反の要因となったいきさつや真相は、ほとんど語られていない。
原作では、井上靖は曾祖父のことを一生傍若無人で通した人だという記述があり、自分が‘祖母’おぬいの手で育てられた理由について、特にこれといった理由はなかったと語っている。
おぬいとの思い出に生きた洪作は、八重との間に距離を置くことにまでなったはずである。
それが今日まで、洪作の大きなトラウマだったというのだが、八重についても洪作についても、突っ込んだ実像は十分描かれていない気がする。
むしろ、ドラマははじめから、何事もなかったかのようにあまりにも穏やかに、ほのぼのと綴られていく。
長年の怒りとか苦悩や葛藤といった、複雑な想いがあるだろうが、それらは画面からは立ち上ってこないのだ。
原田監督は、あえてそれを避けたのかもしれないのだが、どうも洪作と八重の表出が甘く、弱い。
母子の溝は、実際どんな形のものだったのだろうか。溝というほどのものだったのか。
いや、そんなことはここでは
ドラマのテーマではないだろう。
母子が、離れ離れに暮らしていた期間があった、ただそれだけのことかもしれない。
洪作の記憶と、八重の薄れかけている記憶の齟齬、あるいは互いの思い違いがあるとしても・・・。


それにしても、八重に認知症の症状が出てくるあたり、樹木希林の演技は相変わらず上手い。
洪作への愛を確かめようとして、眠ってしまった記憶をたどるもどかしさも、観客をくすぐる場面だ。
映画は、故郷である伊豆湯ヶ島、軽井沢を舞台に、山のふもとに広がるわさび田、落合楼のつり橋、昭和の懐かしいボンネットバス、海から臨む富士山など、日本の原風景を存分に切り取って見せてくれている。
50歳をとうに超えた洪作が、年老いて小さくなった母の八重を背負って、渚をゆっくりと歩いていくラストがなかなか印象的だ。
やや人気が先行しているきらいがあるが、昭和の日本の家族のありようが描かれていて、日本映画の佳作に入れてもよいのではないかという気はする。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点