徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「そして、私たちは愛に帰る」―それは無償の愛―

2009-01-14 19:00:00 | 映画

親と子は、そばに居ながらにしても心をつなぎ合えない。
一番近い、他人なのかも知れない。
ドイツとトルコ、2000キロの距離を越えて、三組の親子がさすらう、再生と希望のドラマだ。
彼らは、運命のままにめぐり逢い、別れ、再びつながってゆく。

ファティ・アキン監督の、ドイツ・トルコ合作というめずらしい作品である。
カンヌ国際映画祭最優秀脚本賞、ベルリン映画祭金熊賞(グランプリ)、全キリスト協会賞など、数多くの映画賞に輝く。
ドラマの構成とストーリーの展開は、東洋と西洋の交わる国トルコを舞台に、その光と影も描かれる。
1960年代、ドイツは多くの移民をトルコから受け入れ、現在では270万人ものトルコ人に対する差別が社会問題化している側面がある。
あまり知ることの出来ない、トルコの抱える社会問題が、登場人物たちの生活を背景に描かれる。

人間の根本を支えているのは、本当は家族の愛と絆なのだ。
人は、誰もが幸せになるために生まれてくるのだろう。
愛することは、許すことであり、許すことは愛することなのだ。

映画の中で描かれる、二人の女性の不慮の死はともにドラマティックで、やや唐突な感じがしないでもない。
だが、そのことが、このドラマの展開に大きく欠かせないものとなっている。
どうにもならない愛もあれば、慈愛にあふれた無償の愛もある。

父親と息子、母親と娘、異国の人間同士の愛が、国境を越えても変わることはない。
すれ違い、出逢い、惹かれあい、反発し合い、触れ合っては別れ、別れてはめぐり逢う。
運命のいたずらか、ドラマというものは何と切ないものかと思わせる。
このファティ・アキン監督作品「そして、私たちは愛に帰るは、きわめて簡潔なスタイルで語られているものの、愛と憎しみの交錯するこのドラマは、名優たちの演技と、トルコ系ドイツ人監督の手腕が高く評価されてよい。

ハンブルグに住む大学教授ネジャット(バーキ・ダヴラク)の老父アリ(トゥンジェル・クルティズは、ブレーメンで一人暮らしだったが、同郷の娼婦イェテル(ヌルセル・キョセと知り合い、一緒に暮らし始める。
ところが、アリは過ってイェテルを死なせてしまう。

ネジャットは、イェテルが故郷トルコに残してきた娘アイテン(ヌルギュル・イェシルチャイに会うために、イスタンブールに向かう。
そのアイテンは、反政府活動家として警察に追われ、出稼ぎでドイツへ渡った母を頼って、偽造パスポートで出国し、ドイツ人学生ロッテ(パトリシア・ジオクロースカ)と知り合った・・・。

ネジャットとアリ、アリと出稼ぎ娼婦となったイェテル、トルコを逃れた娘アイテン、そしてロッテとロッテの母スザンヌ(ハンナ・シグラ)・・・。
三組の親子のすれ違いは、人生の旅路のさすらいとなって、“愛”そして“喪失から生まれる希望”を見出すまで、「幸せと不幸せ」「生と死」が背中合わせに存在する人生の不思議を綴っていくのだ・・・。

・・・罪を償い、出所したのち強制送還されたアリが、トルコのアタチュルク空港に降り立つ。
同じ頃、スザンヌもドイツからトルコへ渡ってくる。
ロッテの遺品を引き取るためだ。
イスタンブールのホテルで、一人酒をあおり、号泣するスザンヌ・・・。
狂おしいまでの、愛の裏返し・・・。

複雑に入り組んだ物語を、全てここに簡潔に書き綴るのは困難だ。
ただ、それぞれの異なる背景を持つ三組の親子の交錯する人生の中で、反発し合いながらも、なお強く結びつく父と息子、母と娘の絆が印象的だ。
たとえ、取り返しのつかない過ちを犯したとしても、すべてを受け入れ、憎しみを超えて許そうとする深い愛が、人間を信じる心と希望をもたらすのだ。
この映画には、ひたひたとさざ波のように打ち寄せてくるものがある。
これは、何なのだろう。