知的成長戦略論-クールに生きる

かっこよく生きるためのメモ。
知的に成長し、どんな状況でも平静を保てる力を身につける。

ルールが変わったら対応すればよいだけのこと。

2010年03月27日 | 自分の未来を組み立てる。
不況なら、不況のルール。
好景気なら、好景気のルール。

 状況に応じて、行動パターンを変えていけばよい。
これは、進化論の発想です。
強い者や賢いものではなく、
 変化に対応したものが生き残る。

IQが低くても、学歴が低くても、
お金持の家に生まれなくても、
いい会社に入れなくても、
 ルールを見極めて、対応できるように努力し続ければ大丈夫
だと思います。

変化に対応するといわれても、
 どうしたらよいのか。

これが、僕の最近のテーマでした。
現時点での考えられるのが、
 情報収集能力
 情報分析能力
です。

 変化を知るということ。

最近、ユニクロやイトーヨーカ堂、ヤマト運輸の中国進出。
スズキのフォルクスワーゲン提携。
ネットでは、フリー。

こういったことを本を読んだり、カンブリアを見たり(宣伝しすぎ?)
して学んでいました。


あとは、
 固執しない
ということが大切だと思います。
これが、一番だと思うのですが、
 変化できない人
というのは、
 自分の考えが正しい
と固執している人です。

過去にうまくいったなど。

しかし、ルールが変われば、手法を変えないとうまくいかない。
だから、同じ手法でやり続けていると、衰退してしまう。
商店街のシャッター街化がその例です。

知的成長戦略は、新しいことを学んで吸収していくというスタイル。
そして、固執しないということは、
 新しいことを学ぶ前提として不可欠の要素。

つまり、固執して頭に時代に合わないことが入っていたら、
 いくら知的に成長しようとしても、頭に入っていきません。


世の中に、絶対的に正しいということはありません。
 人を殺してはいけない。
これも、客観的状況によっては、誤った考え方となりえます。
正当防衛が認められるような、
 急迫不正の侵害を相手が及ぼしてきた
場合であれば、
 きちんと対抗すべき
です。
もちろん、やりすぎは、過剰防衛となりますが、
 相当な程度の対抗によって、運悪く相手を殺してしまったとしても
違法性がなくなる(あなたは悪くはないですよと認められるということ)ので、
罪には問われません。
そのため、
 人を殺してはいけない。
という考えは、絶対的に正しいというわけではない。


状況に応じて、行動を変える。
固定観念にとらわれすぎてはいけない。

これは、老子の思想に通じるものです。

 固執しない。

お金を手に入れても、お金には固執しない。
お気に入りの10万円のヴィトンの手帳を買っても、固執しない。
失ったら、縁がなかったんだなと思って、
また、別のものを手に入れる。

大好きな恋人と別れても、固執しない。
新しく巡り合える人を探す。

親と死に別れても、固執しない。
そのために、生きているうちに感謝の気持ちを示して、十分に親孝行をしておく。

大事なものであれば、あるほど、
 固執
することになると思います。

ただ、いつかは、手放す時が来ます。
 その時間が長いか短いかにすぎない
わけです。

だったら、すぐに手放さずにすむように努力したり、
手放したときに後悔しないように、手元にあるうちに大切にすればよいということになります。

失うという客観的事実自体は、コントロールできませんが、
手放さずにすむように努力したり、手放したときに後悔しないよう大切にしたりすることは、
 コントロールできる事柄
です。


人モノ金以外に、
 思想にも固執しない。
手放すべき時期(客観的に目的が達成できなくなった時期)がきたら、
 固執しないで捨て去る。

共産主義者だろうが、資本主義至上主義者だろうが、
 みんな幸せに生きる
という目的は共通しているわけです。

ただ、手法で争いがあるだけ。
相手の手法で、正しいことがあるのであれば、その部分は受け入れて、
 共に政策を実現していく
ということがあってもよいわけです。

思想にも固執せず、
 新しいルールになれば対応する。

これが、少し前から書いている
 中国の発展
ともかかわってきます。

小平以降の開放路線。
マルクス共産主義からすると、おかしなことがいっぱいあります。
しかし、国民を豊かにするという目的には資する政策であれば、
 それを行えばよい
と考えて受け入れているわけです。

固執しなかったからこそ、発展した。
文化大革命の反省のもと、戦略を練り直した。

一言で言うならば、
 ネズミをとる猫がよい猫
ってことです。



***********
実は、議論によって、考え方が変わるということが、
 民主主義の基本
にあります。

色々な人がいるけれど、
 議会で議論して、みんなの言い分を集約して、幸せになるという目的を実現していきましょう
というわけです。

自民党だから、反対票。
民主党だから、賛成票。
なんてことになれば、国会審議の場はいらなくなります。
選挙で、議席数が決まった瞬間に、すべての議案の成否が決まることになるからです。

国会議員が、高い報酬がもらえる理由は、
 一生懸命、政策について勉強して、
 何が国民の幸せにつながるのかを考えて、
 議論を通じて、政策を修正したり、自分の考えを改めたりしながら、
 よりよいものを作り上げる
ということにあります。

昨日、○川議員が、
 「愚か者めが!」
と叫んでいて、大笑いました。
へんなバラエティー番組よりも面白かったです(あれは、コメディーです)。
ユーチューブとかであったら見てみると面白いかもしれないです。
→あった。http://www.youtube.com/watch?v=T7fPvfEEO-4

個人的には、神聖な議会の場でヤジを出すというのは、民主主義の理念に反すると思います。ましては暴力行為などは論外。

知的レベルの低い議員は、こういった国会審議の意義を理解していないと思います。
政党でマニュアルを渡されて、
 ヤジを出す練習
をしたり(練習を指示している時点で、先輩議員も憲法を勉強していない)、
 国民にアピールするパネルの作り方
を学んだりしているようですが・・・

国会審議は、初めから答えが決まっていて、儀式的に時間を費やしているようなイメージです。
だったら、議員の数を半分にして、参議院を廃止しても問題はないと思います。
予算も浮く。


政策を決する頭の部分がこのようでは、
この国が滅んでいく理由の論証としては、十分だと思いませんか?
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