ヤフー知恵袋より引用
パラリンピックを放送しないのは差別で、24時間テレビを放送するならパラを放送せよ。
と言う人が意外に多いようです。
そのような人々は、女子プロ野球を放送しないのは女性差別、と言うのでしょうか。
テレビを慈善事業だと思う随分世間知らずだなあと思います。
むしろ、関心が低いこの状況で「放送しろ」という人ほど
「障害者は、障害を持っても頑張っているから照らされなければならない」と
健常者と区別する差別主義者だと思います。
*************
前回からの続き。
前回は、
なぜ、パラリンピックを報道しなければいけないのかを
障害者差別解消法の観点から、
女子プロ野球とパラリンピックの違いを
オリンピック・パラリンピック一体の国際的なスポーツイベントという観点から
考えました。
今回は、
障害者は、障害を持っても頑張っているから、
照らされなければならない(報道しなければならない)というのは、
逆に健常者に対する差別になるのではないか
という指摘について。
要は、
障害者を特別扱いすることは問題ではないか
という話。
関連するものとして、
健常者は駐車してはいけない障害者用の駐車スペース
電車やバスで駅員が車椅子利用者を誘導する特別対応
が
障害者の優遇であり、健常者に対する差別ではないか
という論点。
取扱いが異なること(差別、区別の存在)については、争いがない。
争点は、
不合理な差別、区別であり、許されないものかどうか
ということ。
憲法を学ぶと、14条違反の論点として、
議論するテーマ
です。
こういう場合は、
目的の合理性
と
手段の相当性
から、
そのような異なる対応が許されるのか
が判断されることになります。
駐車スペースの設置の目的は、
駐車スペースを設置することで、障害者が安全かつ負担を少なくすること。
→目的は正当。
手段は、
比較的目的建物から近い場所に数台分障害者用の駐車場を用意すること。
→手段としても、数台分であれば、目的を達成するために合理的。
これが、全部が障害者用であるとか、大多数であるという場合は、
目的を達成するための手段としては、行き過ぎであり、不合理
ということになります。
駅員などのサポートの目的は、
障害者が安全に乗車、降車できるようにすること。
→目的は正当。
手段は、
障害者の乗車、降車時に台を設置するなどのサポートをすること。
→手段としても、つきっきりというわけでもなく、過大な負担というわけでもない。
パラリンピックの報道の目的は、
オリンピックと一体として開催されている世界的なイベントにおいて、
障害者スポーツについての知る権利を保障し、理解と普及に協力すること。
→目的は正当。
手段は、中継や、取材・報道をすること。
→手段としても、全ての協議を全中継することまで、強要されるわけでもなく、
目的達成の手段として合理性を有する。
そのため、
パラリンピックの報道を行っても、逆差別にはならない。
むしろ、
国民の知る権利を保障するメディアの役割
障害者差別解消法が日本で制定されていること
よりよい社会の実現のためには相互理解が必要であること
などからすれば、
報道しないことの方が問題
というわけです。
では、さらに、議論を深めて、
テレビ局が、パラリンピック開催中は、毎日10分間の枠を設けることを義務づけた場合
通常のスポーツが報道されなくなってしまい、
逆差別となる
のでは?
これは、
差別是正措置、アファーマティブ・アクション
の論点です。
アファーマティブ・アクションを語る上では、
バッキー裁判
は欠かせまん。
アメリカでは、
黒人が迫害を受けてきた歴史から、
学習環境も白人に有利となっており
普通に受験すると、白人ばかりが受かってしまう。
そのため、
医師の黒人比率(マイノリティー比率)を高めるため、
メディカルスクール(日本で言う医学部)の試験で、マイノリティー枠(16%)が設けられていた。
白人学生のバッキーは
このマイノリティー枠がなければ合格していたが、
2年連続で不合格となってしまった。
そのため、
黒人枠(マイノリティ枠)は、違憲である
としてカリフォルニア州デーヴィス校医学部を訴えた。
裁判「カリフォルニア大学理事会対バッキー事件」(1978)では、
選抜にあたって人種を考慮することは違憲とは言えない
として
アファーマティブ・アクション
については、妥当性を有すると判断しました。
ただ、
16%のマイノリティー枠は違法である
とし、
バッキーは入学を認めました。
これは、16%という枠を設定するという手段は、
目的達成の手段として、合理性を欠く
という判断がなされたということができます。
テレビ局に対する放送枠の設定も、
障害者スポーツの理解、普及のため
とはいえ、
テレビ局があまりにも多くの放送時間の枠を設定した場合
には、
手段としての合理性を欠く
ということになります。
個人的には、
今の無視にも近い状況なら、毎日10分程度の枠なら合理性を有する
と思います。
ただ、
放送枠の設定までは、行き過ぎだ
という判断もあると思います。
このあたりは、
価値判断が絡む
ところです。
こういう点を議論していくと、
感情のみで批判しあう
よりも、
知的な議論につながり、
双方が納得できる(妥協できる)解決につながる
ことになると思います。
メディアの仕事は、
こういう学術的な専門知識を提供し、議論を深め、
そういう考え方もあるのか
でも、自分は、こう考える
という
自分で考えられるようにサポートする
ことだと思います。
今のメディアは、
コメンテーターや解説は、素人や専門外の学者・元記者が多く、
感情論や、イメージの話ばかりで、
得られるものが少なく、
酷い場合は、わざと怒らせようと失礼な態度を取ったり、
扇動する意図すら見受けられます。
そのため、知的に成長できず、役に立たない。
パラリンピックを放送しないのは差別で、24時間テレビを放送するならパラを放送せよ。
と言う人が意外に多いようです。
そのような人々は、女子プロ野球を放送しないのは女性差別、と言うのでしょうか。
テレビを慈善事業だと思う随分世間知らずだなあと思います。
むしろ、関心が低いこの状況で「放送しろ」という人ほど
「障害者は、障害を持っても頑張っているから照らされなければならない」と
健常者と区別する差別主義者だと思います。
*************
前回からの続き。
前回は、
なぜ、パラリンピックを報道しなければいけないのかを
障害者差別解消法の観点から、
女子プロ野球とパラリンピックの違いを
オリンピック・パラリンピック一体の国際的なスポーツイベントという観点から
考えました。
今回は、
障害者は、障害を持っても頑張っているから、
照らされなければならない(報道しなければならない)というのは、
逆に健常者に対する差別になるのではないか
という指摘について。
要は、
障害者を特別扱いすることは問題ではないか
という話。
関連するものとして、
健常者は駐車してはいけない障害者用の駐車スペース
電車やバスで駅員が車椅子利用者を誘導する特別対応
が
障害者の優遇であり、健常者に対する差別ではないか
という論点。
取扱いが異なること(差別、区別の存在)については、争いがない。
争点は、
不合理な差別、区別であり、許されないものかどうか
ということ。
憲法を学ぶと、14条違反の論点として、
議論するテーマ
です。
こういう場合は、
目的の合理性
と
手段の相当性
から、
そのような異なる対応が許されるのか
が判断されることになります。
駐車スペースの設置の目的は、
駐車スペースを設置することで、障害者が安全かつ負担を少なくすること。
→目的は正当。
手段は、
比較的目的建物から近い場所に数台分障害者用の駐車場を用意すること。
→手段としても、数台分であれば、目的を達成するために合理的。
これが、全部が障害者用であるとか、大多数であるという場合は、
目的を達成するための手段としては、行き過ぎであり、不合理
ということになります。
駅員などのサポートの目的は、
障害者が安全に乗車、降車できるようにすること。
→目的は正当。
手段は、
障害者の乗車、降車時に台を設置するなどのサポートをすること。
→手段としても、つきっきりというわけでもなく、過大な負担というわけでもない。
パラリンピックの報道の目的は、
オリンピックと一体として開催されている世界的なイベントにおいて、
障害者スポーツについての知る権利を保障し、理解と普及に協力すること。
→目的は正当。
手段は、中継や、取材・報道をすること。
→手段としても、全ての協議を全中継することまで、強要されるわけでもなく、
目的達成の手段として合理性を有する。
そのため、
パラリンピックの報道を行っても、逆差別にはならない。
むしろ、
国民の知る権利を保障するメディアの役割
障害者差別解消法が日本で制定されていること
よりよい社会の実現のためには相互理解が必要であること
などからすれば、
報道しないことの方が問題
というわけです。
では、さらに、議論を深めて、
テレビ局が、パラリンピック開催中は、毎日10分間の枠を設けることを義務づけた場合
通常のスポーツが報道されなくなってしまい、
逆差別となる
のでは?
これは、
差別是正措置、アファーマティブ・アクション
の論点です。
アファーマティブ・アクションを語る上では、
バッキー裁判
は欠かせまん。
アメリカでは、
黒人が迫害を受けてきた歴史から、
学習環境も白人に有利となっており
普通に受験すると、白人ばかりが受かってしまう。
そのため、
医師の黒人比率(マイノリティー比率)を高めるため、
メディカルスクール(日本で言う医学部)の試験で、マイノリティー枠(16%)が設けられていた。
白人学生のバッキーは
このマイノリティー枠がなければ合格していたが、
2年連続で不合格となってしまった。
そのため、
黒人枠(マイノリティ枠)は、違憲である
としてカリフォルニア州デーヴィス校医学部を訴えた。
裁判「カリフォルニア大学理事会対バッキー事件」(1978)では、
選抜にあたって人種を考慮することは違憲とは言えない
として
アファーマティブ・アクション
については、妥当性を有すると判断しました。
ただ、
16%のマイノリティー枠は違法である
とし、
バッキーは入学を認めました。
これは、16%という枠を設定するという手段は、
目的達成の手段として、合理性を欠く
という判断がなされたということができます。
テレビ局に対する放送枠の設定も、
障害者スポーツの理解、普及のため
とはいえ、
テレビ局があまりにも多くの放送時間の枠を設定した場合
には、
手段としての合理性を欠く
ということになります。
個人的には、
今の無視にも近い状況なら、毎日10分程度の枠なら合理性を有する
と思います。
ただ、
放送枠の設定までは、行き過ぎだ
という判断もあると思います。
このあたりは、
価値判断が絡む
ところです。
こういう点を議論していくと、
感情のみで批判しあう
よりも、
知的な議論につながり、
双方が納得できる(妥協できる)解決につながる
ことになると思います。
メディアの仕事は、
こういう学術的な専門知識を提供し、議論を深め、
そういう考え方もあるのか
でも、自分は、こう考える
という
自分で考えられるようにサポートする
ことだと思います。
今のメディアは、
コメンテーターや解説は、素人や専門外の学者・元記者が多く、
感情論や、イメージの話ばかりで、
得られるものが少なく、
酷い場合は、わざと怒らせようと失礼な態度を取ったり、
扇動する意図すら見受けられます。
そのため、知的に成長できず、役に立たない。