知的成長戦略論-クールに生きる

かっこよく生きるためのメモ。
知的に成長し、どんな状況でも平静を保てる力を身につける。

社会について考える5 社会とは?

2014年02月28日 | 国家論
 正義が確固たるものではない
という前提で考えていくと、
 今、起きている現象が見えてくる
と思います。

国家の三要素は、
 領土、人、統治権。

正義は、
 人に対して、権力の正当性を与える
もので、
 統治権を基礎づける
とイメージしておくとよいと思います。

人が、
 この権力は正当なものだから従おう
と考えている。


絶対王政の場合、
 王様は神から権力を与えられた方だから従わなければならない
と考えている。
そのため、
 王の命令は正当性を有し、かつ、命令に従うことは正義に適う。

キリスト教国家における教会の命令も同じ。

今の時代は、
 総理大臣は、国民の選挙で選ばれた国会議員によって選ばれているから正当性を有する
 法律は、国会の決議で憲法に従って制定されているから正当性を有する
と考えている。
そのため、
 法律は正当性を有し、かつ、法を守ることが正義に適う。

どの時代でも、
 このロジックが背景に存在している
わけです。


そして、
 絶対王政など安定している時には、問題は生じない。
しかし、
 国民の生活が苦しくなると、国家に不満が渦巻くようになる。

 こんなに税金が高いのは、王のせいではないだろうか?

こう考える人が多くなると、「正義」が揺らぐようになる。
そして、
 新たな「正義」が生まれ、支持を集めるようになる。

すなわち、
 社会契約論。

国民は生まれながら、権利を有している。
国民が契約により、社会を作って身を守ってもらうため、
 権力を王に与えた。
ゆえに、王が国民の権利を侵害するような行為に出た場合は、
 契約を破棄し、王制を倒してもよい。

これが、革命権。

こうなってくると、
 国民を苦しめるような王は倒し、国民の権利を守ることが正義である
ということになる。

正義が揺らぐ。


つまり、
 人は生活が安定していれば、そのときの観念が正義に適う
とし、
 生活を維持する方向に向かう。
しかし、
 生活が不安定になれば、その責めを時の権力者に向け、
 権力者を倒す方向に向かう。
その際には、
 正義の転換が起こる。



もっとも、
 今の時代では、正義の転換が見えにくくなっている。

そもそも、国民主権という正義論が中心になっているため、
 国民主権という大きな器の中で、さらに細かな部分の正義の転換
 (大きな政府、小さな政府。自由主義、福祉主義。)
が振り子のように起きている。

厄介なのは、
 同じ国民において、正義の対立が起こった場合
です。

 国家が人、領土、権力で構成されている
ため、
 正義の対立が起こった場合、深刻な事態になる。

内戦、デモ、テロ…

すべては、正義の対立から生じている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社会について考える4 正義論

2014年02月27日 | 国家論
正義と法律は一致する。
社会的正義を文章にまとめたものが法律である。

人を殺してはいけない=正義に反する
人を殺さないための規範を作ろう。
その規範をまとめたのが刑法。
破れば処罰する。


多くの場合、このような考え方になると思います。
しかし、本当にそうか?

これが、今回のテーマ。


戦争で人を殺せば、手柄を立てたと褒められる。
クーデターで大統領を殺せば、新政権からは褒められる。

人を殺す=正義

子供に、
「人」を殺してはいけない
と教えながら、
戦争やテロで敵である「人」を殺すのはよい
と教える。

一部、その過程において、巻き込まれる「人」がいても
やむを得ないと教える。


つまり、絶対的な正義などないということ。

場合において、あるいは、権力によって、
 正義がつくられる
ということ。


その作られた正義に基づいて、
 法律を制定し、統治をする
というのが、権力である。

これは、世界史を学ぶとよく分かると思います。

帝国が滅び、新たな帝国が生まれる。
その際に、歴史を書き換え、自身を正当化する。

物事には、良い面と悪い面があるため、
 どちらに力点を置いて、語るかによって、
 物事を正当化することができる。

そのため、
 たいてい滅ぼされた王については、
 こんなひどい奴で国をめちゃめちゃにしたんだ
という史実が語られ、
 新たな帝国を打ち立てた王は、偉大な聖君として描かれることが多い。


これは、政権交代も同じ。
すでに、国民の記憶からは消えつつある、民主党政権誕生時。

消えた年金問題、公共事業の不正、天下り問題、財政危機・・・

無駄な税金の支出を辞めさせるとマニフェストを打ち立てた民主党が選挙で
政権奪取。
長期政権における自民党の腐敗ぶりが前面に出てきた。

その後、仕分け作業がなしくずしになり、
東日本大震災で、民主党政権の無能ぶりが明らかになり、
防衛戦略もひどいありさま。
子供手当など福祉はばら撒きとなる。

そんな中で、民主党が悪者になり、再び自民党政権へ。
自民党政権は、
 政権担当能力を前面に出しながらも、
 大型公共事業予算を組み、従前の利権構造が復活。

振り子のようにふれているわけです。

酷い有様←是正する権力←酷い有様←是正する権力


話を戻すと、
 権力の交代においては、前の権力が衰退し、不平が生まれ、
 権力を倒すことが正義であるとの価値観が生まれ、
 それが社会を形作る。

正義は、それほど、確固たるものではなく、
 人や時代や環境などにより、相対的に形を変えるものである
ということ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社会について考える3 法律の役割

2014年02月20日 | 国家論
見て見ぬふりをした人は、
 そもそも刑法の構成要件に該当しない。

数人を救うために切り替えて一人を死なせた人は、
 刑法の構成要件に該当する。

それって、おかしいのでは?

この問題は、
 法律の役割から見ていくと謎が解ける
わけです。

法律の役割は、
 立法趣旨というもの
によって決まっています。

刑法であれば、
 人権保障と秩序維持。

刑法の場合は、
 法益保護
といったりします。

法が守る大事なものというのが、法益。
ざっくりいうと、個人の生命、身体、財産。
社会、国家などの安全。


法益を守るために、
 してはならない事柄を犯罪を構成する要件として、列挙して決めている。
これが、構成要件。

 人を殺してはいけない。
 人を殺したものは、死刑または無期、もしくは5年以上の有期懲役に処します。

だから、人は殺してはいけない。

刑法は、
 してはならないことを決め、それによって、個人の生命身体財産や、国家、社会の安全を守ろうとしている
わけです。

仮に、数人を救うためでも、
 人を殺してはいけない
という
 「規範」がある
ので、
 それに違反すれば、刑法の構成要件には該当する
ことになります。

事情があるのであれば、
 その事業を別途考慮して、処罰するかどうかは決めましょう。

そういうスタンス。

そのため、
 線路を切り替えて一人を死なせた
場合も、
 その人を殺す目的で行ったのか
 数人を救う目的で行ったのか
が調査されることになるわけです。

何もしないで、結果として数人が死亡しても、
 刑法の規範では、数人が死にそうな時に、助けなかったものは、処罰するという「犯罪はない」ので、処罰される可能性はない
ということです。

こういう犯罪が法律で定められていない場合には、処罰されないことを、
 罪刑法定主義
といいます。


結局、数人を助けようとして、
 線路を切り替えて人を死なせた場合も、人を死なせている以上、
 本当にやむを得ない場合かは慎重に審理しないといけない
わけです。

そうでなければ、
 本当にそうかは、分からない状態で、勝手に数人が死ぬと誤った判断の元、
 線路を切り替えられて人が死ぬ
ということが起こりかねない。

そうなると、人の生命が脅かされる。

そのため、
 人を殺すな
という規範がある以上、
 構成要件には該当する
ものとし、
 やむを得ない事業があったかを吟味し、処罰するかどうかを決める
わけです。


 サンデル教授の正義論では、功利主義の立場すると、
 数人を救うために一人を犠牲にすることは「正義」に適う
ことになります。

刑法も、構成要件には該当する者も、本当にそのような事実関係が認められれば、
 違法性がないだとか、責任がないという理由で、処罰はしない。

正義と法律はリンクする。

しかし、
 正義に適う行動(数人を救うために一人を犠牲する行動)をとらなかったとしても、
 法律は処罰をしない。

正義と法律の関係は、どのようなものか?

次回へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社会について考える2

2014年02月17日 | 国家論
前回では、
 弁護士は、線路を切り替えない。

なぜか?
今回はここから。


これは、刑法を知っていれば分かること。

線路を切り替えて人を死なせた場合、
 数人の命を守るために、あの人が死んでも構わないと思い線路を切り替える
と、
 殺人罪の構成要件に該当
します。


えっ、数人を助けるためなのに?

でも、人を死なせた事実は、消えないわけです。

でも、かわいそうじないか?
数人を助けるためにやむをえずにした行為なのに、
 刑法に該当するなんて…。

確かに。

そこで、
 こういうケースでは、緊急避難(刑法37条)で罰しない
とされています。

刑法37条
1.自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、
やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。

刑法では、構成要件に該当するけど、
 違法性がない
とか
 非難できない(責任がない)
など犯罪を成立させないための要件を定めて、こういうケースを救済しています。

でも、うっかり、切り替えたあとで、亡くなった人が多かった場合には、
 緊急避難にあたらなくなる
おそれがあります。

こういうのを
 過剰避難
といいます。

リスキーですよね。
だから、弁護士は確実に人が死ぬと分かっていたら切り替えない。


えっ、でも、数人を見殺しにするの?

仮に、何もしなくて数人を見殺しにしても、
 犯罪にはならない。

なぜか?

犯罪は、自分の「行為」を罰するものなので、
 原則として、何もしないという「不作為」は刑法の構成要件に該当しない
わけです。

例外的に、作為をしなければならない義務がある場合に、しない場合には不作為は処罰されますが
(保護責任者遺棄罪など)、例外的なケースです。


行為しないことが自分の身を守ることになるわけです。

何もしないで見殺すことが、法的には正解だなんて、おかしいじゃないか!!

確かに、たくさんの命を守るための行動を取った人が、
 処罰されるおそれがあり、
何もしないで見殺しにした人が
 そもそも処罰される可能性もない
なんておかしいような気もします。

そこで、「法」って何?ってところを、次回見て行きましょう。

(次回へ続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社会について考える1

2014年02月13日 | 国家論
不況になると、
 ナショナリストが増える。

第一次世界大戦、第二次世界大戦など典型例。

ヒトラーやムッソリーニが台頭したのもそうです。



どうしてか?

生活が安定していると、人は国家という物を意識しません。
法律もあまり必要ありません。

例えば、
 仕事が安定
 給料も安定
 将来の不安もない
 犯罪も少ない
 不満も少ない。

こういうときは、国家の運営はそれほど難しくありません。
高度成長期の日本はまさにこんな感じ。

しかし、
 仕事がなくなる
 給料がなくなる
 将来の不安が襲ってくる
 犯罪の増加
 不満が高まる。

こういうときは、
 国民は「はけ口」を求めるようになります。

はけ口を自国政府に向けた場合、
 デモ
という形で現れます。
これが、タイや欧州のデモ。

はけ口を「敵国」に向けた場合、
 ナショナリズム
という形で現れます。
これが、中国、韓国、日本の最近の動き。

領土問題、愛国心…


責任をどこにぶつけるのかによって、
 自国政府にぶつければ革命
になり、
 他国にぶつければ戦争
になるというわけです。

基本、原因は同じ。


 国民の生活が厳しくなり、不満が渦巻いている
ということ。


今後、中国の経済成長が鈍化し、
農村部や都市部の低所得層が、
 はけ口を内に見出せば、共産党独裁の破綻。
 はけ口を外に見出せば、武力衝突。

こういうシナリオを取ることになります。

そのため、
 いずれにせよ、軍備の拡張が不可欠なわけです。

よく中国の軍事費の伸びがクローズアップされていますが、
 対外的な要因のほか、
 暴動の鎮静化のために強力な軍が必要となる
という内向きな理由もあると思います。 
今後、第二の天安門事件が起これば、迷わず軍を出すはず。
波及すれば、国家が崩壊しかねないからです。

そして、日本も同じようなもので、
 ナショナリズムの力が増えつつある。

国家を考えること自体は、決して悪いことではないわけですが、
 権力者に洗脳され、いつの間にか、国家が国民の権利よりも上に位置づけられるようになる
と、
 国民が不幸になります。

この点が重要です。


つまり、国家を愛するという愛国心の教育や、日本国の誇り、道徳教育はよいものだとしても、
 日本国の為に、自らの命を犠牲にすべきだ
という思想観は間違っているということです。
戦時中の日本は、思想統制を行い、反体制的な思想を弾圧しました。

愛国心教育を重視し過ぎると、
 一人の国民の価値よりも、国の価値が上だという誤った発想
につながるおそれがあります。

そのあたりをうまく教えることは本当に大変です。

 国を守るためには、犠牲はつきものだ。
 ドラマ「24」のテーマ。
 ジャックバウワーは国を守るために個人の命が犠牲にされてもやむを得ないという発想の持ち主。
 そのため、時には拷問など暴走をする。

ここで、マイケル・サンデル教授の「正義」の講義とリンクする。

数人の命を救うために、一人の命を犠牲にすることはできるか?
電車が数人いるところに、突っ込もうとしている。
あなたは、線路を切り替えるポイントに立っている。
あなたが、切り替えると電車の進路が変わり、数人の命が助かる。
しかし、切り替わった先にいる一人の命が失われる。
あなたは、線路を切り替えるか? 


弁護士であれば、切り替えないはず。

なぜか?
(このあたりは次回)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする