年金受給者の日々へ 悪戦苦闘の記録から

自分のXデーに向かってまっすぐに走る日々
   年金受給前の悪戦苦闘の日々より

宮澤賢治と高村光太郎

2016-04-10 00:00:00 | Weblog
 賢治と縁のあった花巻温泉に9日の日に宿泊した旅館のご主人は、親しみを込めて宮澤賢治さんといつもさん付けで呼んでいた。この地は名前の残る多くの偉人を親しみを込めて呼んでいる。
 自分のやっている就労支援などの「ナンチャッテまがい物風カウンセラー」の前に、今賢治さんが仕事のことで相談に来れば、果たして私はどのように傾聴するんだろうかと考えた。優秀な成績で卒業した盛岡中学から、現岩手大農学部を出られた賢治さんが回り道をしながら高校の先生となるや続けることもなく、さっさと教職を辞して本格的なプロ百姓を目指すとなれば、現代・・と云うより今の経済的生活価値観のフィルターを通してみると、百姓なんて止めなさい、それより学校の先生を継続し安定的な生活を目指しなさいとアドバイスでもするんだろうか・・・。
 また光太郎さんが奥さんの智恵子さんを亡くし一人の身孤独であり、しかも、東京での生活においては戦争賛成の立場でいた自分の身を恥じ入り、自己流謫として自分を東京から花巻の地へと処刑するようにして光太郎の命でもあった彫刻することを封印し、彫刻刀に代えてペンを取り執筆活動をしていた。光太郎さんが、夜な夜な小屋の裏の小高い山に登り奥さんの名前を叫んでいた逸話などが残る、その対象喪失感にあふれた光太郎さんが、私の前に居られればどのように対応するんだろうか・・・などととんでもない空想をしてみた。

 農学校の教職を辞めて百姓となった背景に冷害による飢饉がある。農地が荒れ農作物が採れなくなった・・じゃ・どうしようかと百姓たちに肥料のことなど教えていた。

 羅須地人協会の跡地に、この文の続きを石碑に高村光太郎さんが書いている。賢治さんと光太郎さんとは接点があった。
 
下の畑は

 北上川河原、この2~3キロ上流にイギリス海岸がある。

 花巻駅にほど近い町中で三陸地震津波の年に生まれている。家業が質店の息子であった賢治は、農民がこの地域を繰り返し襲った冷害などによる凶作で生活が困窮するたびに家財道具などを売って当座の生活費に充てる姿をたびたび見ていた。自分は裕福な生まれではあるが、農民の悲惨な姿を見ていてつまり金持ちと貧乏の境遇の違いから贖罪感があったのだろうことは想像できる。
 
 経済的な困窮さをまじかに見ていたことで農民への支援を考えたに違いない。また妹とは仲が良かった。日本女子大に進学していた妹と、高村光太郎の智恵子夫人も同大学の先輩後輩にあたりつながりのあったことで東京から光太郎さんが花巻へ疎開されたのかもしれない。父親からのDNAを受け継ぐも自分を責めて彫刻の代わりに文や書を描いたり野菜をつくったりの隠遁生活をここでやっていたとか。




厠から戸を見れば左の光の文字が見える。

 そして寂しくなると、ここに登り夫人の名を叫んでたんだろう。

みんなみんな孤独を背負ってやり過ごしておる。

 賢治さんに光太郎さんは失意の中に居て、もがきそして動いている。自分をいじめること以上に希望なる指標を携えて生きていたことがここにきて理解できた。きっと戦争を賛成していた自分を思い切り恥じ入り落ち込みの続く毎日、トイレにしゃがみ込んでしきりに光のある方へと思いめぐらしていたのだろうと・・・