YS Journal アメリカからの雑感

政治、経済、手当たり次第、そしてゴルフ

みのりのかっちゃん 追記有り

2010-03-11 14:10:59 | 非常に個人的な昔話
突然、毛色の違うシリーズなので不思議に思われる方は、「非常に個人的な昔話」シリーズを書こうと思った訳をお読み下さい。

出身の宇和町は予讃線が通っている。卯之町駅は今でも特急が止まる駅である。卯之町は、開明学校、高野長英の隠れ家や江戸時代の街並みが残っていたりして、昔から栄えた宿場町である。確か二宮敬作が開業医をしており、オランダお稲も暮らした事がある街である。

小さい頃、汽車(小さいときに蒸気機関車が走っていたかどうかは記憶が無い、でも今でも電車ではなくディーゼル機関車)に乗るのは、母の里帰りのとき位である。母の出身は北宇和郡(現宇和島市)三間町で、歯長峠を挟んで山一つ向うなのだが、当時はバス、汽車しかないので、予讃線、予土線を乗り継いで行っていた。明間から国鉄バスで卯之町に出て、卯之町駅で汽車に乗るのである。(四国遍路すると、42番(仏木寺)から43番(明石寺)の途中で、歯長峠を越える事になる)

さて、みのり食堂は、駅から歩いて数分の商店街(昔の目抜き通り?)から、ちょっと入ったところにある。この食堂に知恵遅れの子供(私が子供の時には、既に大人だったと思う)がいた。彼が「みのりのかっちゃん」だ。

卯之町駅を使う度にかっちゃんを見かけたので、毎日のように駅に行っていたのだろう。かっちゃんは、自分が卯之町駅の職員だと思い込んでいたのではないかと思う。駅員さんも心得たもので、そんな彼を優しく扱っていた。あとで聞いた噂では、卯之町駅から宇和島までの汽車は只で乗っていたらしい。沿線駅の職員も心得たもので、それを許していたようだ。のんびりした時代であった。かっちゃんも、掃除などの簡単な頼まれ事を喜んでやっていたと思う。(JR四国になって、無賃乗車は出来なくなったと言う噂も聞いた)

国鉄時代であったので、職員は凛と(田舎なので威張っている感じは無かった)した感じがあり、当時の駅の持っている威厳と秩序を、かっちゃんは好きだったのだと思う。(勿論汽車も)

私のかっちゃんをの思い出は強烈である。どうも私はかっちゃんが大切にする駅の威厳を無視したようなのである。年に1回か2回しか汽車に乗る子供が、駅でじっとしているわけは無い。改札の横に柵があったのだが、これが丁度遊ぶのにもってこいだったので、弟とジャングルジムのようにして遊んでいると、かっちゃんに大声で怒られたのである。

それ以前にかっちゃんを知っていたかどうかは覚えてないが、変な感じ(知恵遅れ独特の風貌と言うと分かってもらえるかなー)のおじさんが、真剣な顔をして怒っているのである。本能的に危険を感じて母親のもとに逃げた。このときは本当に怖かった。

その後、町内に一つしかない卯之町にある中学校に通うようになって、みのり食堂の近所に住む同級生から、上記の様なかっちゃん情報をいろいろ教えてもらう事になった。

私にとっては怖いだけの存在だったが、近所ではそういう人と言う認識で受け入れられていたようだ。かっちゃん、男の人に呼びかけるときは、必ず「あにきー」というので、これは友達内ではギャグにしていた。その後も、街でかっちゃんを見かけると、友達は普通に接していたが、私はどうしても恐怖心が抜けきらず、接近遭遇はついに無かった。

しかし、こんな人が普通にいた時代や場所の経験は、心の奥の大事なところにあるような気がする。

昔から私にとっては年齢不詳であったが、もう亡くなっていると思う。4年程前、家族で帰省したときに、みのり食堂に行ったのだが、さすがにかっちゃんの聞く事は出来なかった。

みのり食堂は、正統派の田舎の食堂だ。味も田舎風だが悪くない。(4年前から変わっていなければだが)


追記:3-13-10
早速、地元の友人からメールを貰った。みのりのかっちゃんは健在だそうだ。友人は、人生の大先輩なので語る時は【「みのりのかっちゃん」(さん)】と敬称をつけなければダメと言われてしまいました。

尚,健在と言う事もあり「知恵遅れ」の表現は不適当との指摘も受けました。エッセンスが失われる様な気がするので本文の訂正はしませんが、後は本人や関係者にご迷惑が掛からない事を祈るばかりです。

「非常に個人的な昔話」シリーズを書こうと思った訳

2010-03-11 09:18:56 | 非常に個人的な昔話
実は、自分でも良く分からないのだ。

日本への里心が付いたと思うのが自然なのだが、取り上げる話題は、いろんな機会にあちこち、日本でもアメリカでも話している事がほとんどなので、俄かに納得出来ない。深層心理で何か変化があったのかもしれないが、自分自身では知る由も無い。

ブログのネタとして苦し紛れに思い付いた。これは真実ではあるのだが、スタートしてから半年、特に今年は毎日一エントリーを心掛けているので、このアイデアを思い付くのに時間が掛かり過ぎている気がする。

娘たちに自分史をキチンと残したい。しかし、アメリカ生まれのアメリカ育ちの二人に昭和40年代前半の、それも日本の田舎の昔話を残してどうなるのかと思いがある。

いろんな要素が重なって書こうという気持ちになったとしか言いようが無い。田舎を捨てた形ではあるが、今でも自分故郷(両親、親戚や関係のあった人々)に誇りを持っており、何らかの形で感謝したいと言う思いがあるのかもしれない。(非常に僭越ではあるのだが)

さて、本名は出さないが、出身地と年齢位は明らかにしておく。

中学校2年生までは、文字通り生家、生まれた家で暮らしていた。(私を取り上げてくれた産婆さんの息子が高校のときの体育の先生だった。)愛媛県東宇和郡(現西予市)宇和町明間(住所からして田舎臭い)、肱川上流近くにある河岸段丘が比較的広くなっている所である。明間の由来は、両脇の山が迫るように続いている途中で急に拓けた場所なので、この地名になったのではないかと個人的には思っている。

生まれたのは、昭和36年(1961年)だ。

アメリカに暮らしているので記憶に頼っている上に、既に亡くなった人から聞きかじった自慢話や法螺話の類もあるので、信憑性は非常に怪しい。自分の経験さえも歪んで覚えている可能性も高い。ノンフィクション風と捉えてもらえてもらえればと思う。

頻度は、思い付くままです。(追記:年代、場所、話題もランダム)