YS Journal アメリカからの雑感

政治、経済、手当たり次第、そしてゴルフ

ナイヤガラ大瀑布

2020-03-30 08:25:32 | 非常に個人的な昔話
来年60歳になる。又、現在の雇用契約が来年1月で切れるので、人生の次を考えていた。その上、この新型コロナ騒ぎである。

いくら思い巡らせてもここまでと同じで、取り止めがない。仕方が無いので、手始めに Bucket List でも作ってみるかと思い立ったのだが上手くいかない。

最近少し旅したい気分があるので、ローマ、イスラエル、マチュピチュ、北アフリカ、南極と挙げてみるが心が昂ぶらない。そういう体質なのであろう。

亡くなった母にデトロイトからナイヤガラまで車で4時間程度だよと何気なく話した時、中学生の時使っていた教科書に載っていた「ナイヤガラ大瀑布」に行ってみたいとずっと思っていたと言う。

全くそんな事を言わなかった母が、たった一つの Bucket List アイテムだったのかもしれない。叶わなかったけど。

映画館 in 明間

2020-01-27 00:49:00 | 非常に個人的な昔話
年が明けてハリウッドは表彰式シーズンである。

華やかな舞台裏で、映画業界、特に映画館経営は益々厳しくなるとの見方が多い。2019年売上げの4割をディズニー映画に頼っている状況であり、Netflex等の普及で映画の見方が変わってきている。

テレビの普及した40-50年前に映画館が減ったのだが、インターネット普及でのインパクトはもっと大きそうだ。

アメリカでも独立系映画館が無くなってきている。観客の減少に加えてデジタル化が進み機材等への投資が出来ず、負のスパイラルになっている。私が行く映画館も何軒かのメガシアターを展開する地元の大手チェーンだ。

一方で、映画館もエンターテイメントハブへの脱皮を目指している。レストラン、ボーリング場等の併設などが進んでいる。

映画館が潰れて廃墟になるイメージが湧いたところで、児童不足で小学校が閉校になったド田舎である地元明間にも映画館があった事を突然思い出した。

テレビ普及で閉館したのだろう、私が小学校のころには既に廃墟化していた。元々映画館なのでガランとしており破れた壁から日が入るので、雨の日曜日の昼間に屋内練習場の様にキャッチボールをしたりして遊んだりした。

知らないうちに取り壊されて無くなったのだが、その辺の記憶が無い。

メキシコ ケレタロの匂い

2017-09-04 21:09:55 | 非常に個人的な昔話
ケレタロ滞在先はダウンタウンから少し離れた幹線道路沿いのホテル。周辺を少しぶらぶら歩いてみた。交通量が多く、鼻につくのは排気ガスの匂い。古い車が多いせいか、排気ガスに不燃焼のガソリンが混じった独特の懐かしい香りだ。

父は、私の生まれる前から車を所有しており、車はずっと身近な存在であった。初めて運転したのは七つの時、8トラックで広沢虎造の「清水次郎長伝」を聞いたりしていた。父が、クランク棒を差し込んでエンジン掛けたり、ヘッドライトのヒューズが切れた時は、ワイパーので代用したりしたのを記憶している。車の構造が単純だった事もあるが、父は器用な人であった。

ガレージは、祖父母が住む母屋とうちの間にあり、冬場の暖気運転の時は、この排気ガスに不燃焼ガソリンが混ざった匂いがしていた。最近は、フュエル、排気系が進歩して、排ガスの匂いばかりかガソリンが不燃で排気パイプから出てくることも無い。

ノスタルジックな気分の出る匂いであったが、徘徊中ずっとには辟易。単純比較は危険であるが、メキシコは日本の昭和40年代という感じであろうか?

明間小学校 閉校

2017-03-12 20:34:25 | 非常に個人的な昔話
平成29年3月31日で、わが母校、明間小学校が閉校となる。(ホームページはこちら

私が卒業したときは、全校生徒80人程度で同級生は15人。随分前に複式学級になっていた様だ。

野村ダム建設に伴い、校舎もすっかり新しくなっているし周りの風景も変わっているので、帰省する度に、タイムスリップした上にパラレルワールドに迷い込んだような感覚になる。新しいと思っていた鉄筋校舎も、耐震対策が取られておらず再利用の道も閉ざされているようだ。

40年以上も前の事で卒業以来近くに住んでいないので、思い出は淡くなっている。小学校4年の時の担任が、宿直(昔は先生が学校に交代で泊まっていたのだ)で酔っぱらって校長先生とケンカして免職になったりとか、してない万引きを校長先生に呼び出されて叱られたりとか、ランダムで奇妙な記憶がフラッシュバックする位だ。

これからも恒例の運動会とか、盆踊り大会とか、地域の行事は、校庭で続けられるのだろうか?閉校は、過疎、少子化、高齢化のシンボルのようなものなので、結論は見えているような気もする。自分の中でも、

アメリカの空から勝手に詮無き心配をしても仕方ないが、ちょっとだけセンチメンタルになってもバチは当たらんだろう。

ダム建設以来、植林が進み、明間小学校の周辺は今では桜の名所になっている。

バレンタインデー

2016-02-17 01:30:37 | 非常に個人的な昔話
机からあふれんばかりのチョコを貰うやつを尻目に、生涯通算取得数は3個程度。でも、唯一ハッキリ覚えているのは、中学一年生の時に貰った最初のチョコ。

商店街の町立病院入口にあった酒店の卓球が上手で小柄な可愛い女の子からであった。(実名を入れたい所ではあるが、分かる人には分かるので割愛)

アヤフヤな記憶では、もうこの酒店は無いし、町立病院(市町村合併で市病院)は移転している。

中一の時に同じクラスだっただけで、その後の展開は皆無。以来、まともに話したことすら無いのだ。その上、二年、三年では別のクラスだったし、付き合うどころか交換日記さえしなかった。(その当時、私の田舎では交換日記が付き合っている証であった)自分の好きだった気持ちの記憶はあるのだが、彼女の想いは未だに分からない。チョコをプレゼントされた行為だけが、淡い記憶としてポツンと残っているだけだ。

彼女んちは卓球好きで有名で、家に卓球台が備えてあり夜遅くまでお父さんが特訓しているという話であった。お姉さん、弟もやっていた。

中学卒業後は、済美高校(当時は女子高)に入って、全国大会とかに出場してたと思う。それからの消息は全く知らない。

新幹線、初乗車の思い出

2014-10-02 07:45:01 | 非常に個人的な昔話
初めて新幹線に乗ったのは5歳の時だから1966年。横須賀と小田原に住む父方の叔母の結婚式に出席する父に連れられてである。(同じ時期に叔母二人が結婚式を挙げたと思い込んでいるが、なんだか怪しい。父は11人兄弟の長男で、下の4人は当時神奈川に住んでいた)

新幹線は、岡山から新横浜まで乗ったと思っていたが、このエントリーを書くために調べてみると山陽新幹線開業が1972年なので、新大阪からしか乗れない。当時の経路は、予讃線:卯之町ー高松、宇高連絡線、宇野線:宇野ー岡山、山陽本線:岡山ー大阪、大阪ー新大阪、新幹線:新大阪ー新横浜、だと思うのだが、当時ひかりは新横浜に止まらなかったはずなので、こだまへの乗換えをしているか、東京まで出て折り返したのかも。

中学、高校のときにこのルートで上京した記憶とごっちゃになっているのだろう。大学生になってからは松山から飛行機を利用する事が多くなり、本四連絡橋が出来たので、現在ではルート自体が存在しなくなっている。

自分の記憶に残っているのは、薄暗い時に家を出たのと、父に抱かれて叔父のアパートの階段を上がる風景、それとこれから書く新幹線の中の出来事だ。(幼過ぎて連れていって貰えなかった弟に自慢して口惜しがらせた記憶もある)

書きながら段々と記憶の怪しさが増してくるが、東海道新幹線開業50年のお祝いという事で私の断片的な思い出を。でも、自分で覚えていると言うより、父が母に語った事を、後々母が私に話してくれて、辛うじて自分の記憶になっているようだ。

行きの新幹線の中で、父がアイスクリームを買ってくれそうだ。それまでアイスクリームなど食べた事がない田舎者の5歳児の私は、洗練された美味しさ(帝国ホテルブランド?)に圧倒されたのだろう、もっと食べたいとねだったのだ。父は食べすぎを心配して買ってくれなかったのだが、私の愛くるしさにほだされて隣に座っていた紳士が買ってくれたそうだ。(騒がしいのに業を煮やした可能性も高いが、穏やかな印象しか残っていない)

そして父の心配の通り吐いてしまったそうだ。当時から食い意地の張ったコントロールが効かない阿呆であった。

この旅行では東京見物もしており皇居とか東京タワーでの写真があるのだが、記憶が全く無い。父が「宮城」に行くと言ったのを、すっかり「球場」と勘違いしていてガッカリしたのを覚えているだけだ。

自分の中では微笑ましい思い出なのだが、書いてみると実につまらん!! 失礼いたしました。

フー・マンチュー

2013-02-12 20:27:29 | 非常に個人的な昔話
長い休みの時は髭を剃らない。

去年のクリスマス、正月休みは2週間も無精髭を生やしたままにしていた。休みが明けてマスタッシュ、ゴーティのコンビネーションに形に整えて、そのまま残している。

休み明けに、イギリス人の同僚に「フー・マンチュー」を気取っているのかとからかわれた。フー・マンチューが誰だか、どんな人相をしているのだかサッパリ思い付かなかったが、語感が愉快だったので家族に話しら、それから家ではそう呼ばれる様になった。(呼び名は愉快がっているが、髭はいつもの通り不評である)

昔から何だか妙に髭に憧れが有り、時々こうして生やすのだが、結局手入れが面倒になったり鬱陶しくなって剃ってしまう。今日は一日中会議だったので手持ち無沙汰で弄っていたら、案の定鬱陶しくなってきた。今週末にでも剃ろうと思う。

小学校3,4年頃の冬休みのある日、なぜだか親父の使っている電気髭剃りに突然興味を持った事がある。10歳そこらの男の子に髭がある訳が無いし、頭髪を剃るは出来ない。突然閃いて、眉毛、それも両方ともを綺麗に剃った。見事な剃り味であった。

眉毛の無い私を見た母は、ビックリと言うか呆れた表情で、その日、町に歳末の買い物に付いて行く私に眉墨で、眉を書いてくれた。

初詣

2012-12-31 08:28:44 | 非常に個人的な昔話
明治神宮に初詣に行った事が一度だけある。大学生の時、友人(男)とその知り合いの女子中学生二人と一緒であった。そのうちの一人はお正月なので着物を着ていた。

帰りになぜか新宿東口の喫茶店でお茶したのだが、トイレに行ったかなにかで着物が少しはだけた様になってしまった。着ている本人も、連れの女の子も、勿論アホ男子大学生も着付けの心得が有る訳が無く、途方に暮れそうになった。

すると、私達をサーブしていたウエイトレスさんが気付き、従業員控え室に連れて行ってキチンと着付け直しをしてくれた。

数年に一度位日本でお正月を過ごすのであるが、段々とお正月らしさが無くなってきていると感じる。アメリカで暮らしているので、その華やかさからは尚更程遠い。

日本のお正月とその季節感がよぎる度に、元旦から新宿の喫茶店で制服を着て働く喫茶店のウエイトレスが、普通の事の様に着付けしてくれた日本を思い出す。

NHK テレビ時代劇 『天下御免』

2012-11-25 18:59:25 | 非常に個人的な昔話
日本出張帰りの成田空港で、吉村昭の『わたしの普段着』と『冬の鷹』の文庫を購入した。

『冬の鷹』は、江戸時代にオランダの医学書『ターヘル・アナトミア』を訳した『解体新書』の中心人物、前野良沢を描いた本であるが、『解体新書』といえば杉田玄白しか思い浮かなかったので、非常に面白かった。(書評は近々)

脇役として平賀源内が登場するのであるが、杉田玄白ととも彼等のイメージは、小学校低学年の頃に観た NHK テレビ時代劇『天下御免』で確立されていたことに気が付いた。

『天下御免』の中の平賀源内は溌剌としていたが、実像は溢れる才能を食い散らかした挙げ句、落ちぶれた晩年に酔って人殺しの罪で獄死するという、典型的な才能に飲み込まれた哀れな人であった。

番組で記憶に残るエピソードは2つ。杉田玄白が著した『蘭学事始』の挿話、「鼻がフルヘッヘンドしたもの」の訳に苦労していた時に「庭を掃除すれば落葉や土などがフルヘッヘンドする」から、フルヘッヘンドは隆起したものと読み解いて感激する場面。(但し、この挿話は杉田玄白の創作の可能性が高い)もうひとつは、平賀源内が、新造された大きな橋(当然木製)が祭り行列の重さに耐えかねて崩壊した原因を、江戸と京の物差し両方を使って建設したことに求め、物差しの基準がバラバラである事の矛盾を糾弾する話だ。

テレビ時代劇として斬新だった記憶ばかりがあるが、史実を間違ったままで覚えていた事で、改めて自分の浅学無知を思い知らされる。

平賀源内役は石坂浩二だとボンヤリした記憶があったのだが、山口崇であった。(やや似ている様な)中野良子や坂本九も出演している。1971年から翌年に掛けての放映で、NHK にさえフィルムが残ってないそうだ。残念。

濁音

2012-04-07 02:22:01 | 非常に個人的な昔話
「ちょせん、ちょせんと、パカにすな、おなじコメくて、とこちがう」を初めて聞いたのは、中学校の国語の先生からであった。

昭和40年代の四国のド田舎には、土着の日本人がいるだけで、在日朝鮮人なんて、見た事も聞いた事もなく、純粋な中学生の私には想像さえも出来なかった。それでも差別的な響きがあるのは理解出来たし、強烈なインパクトがあり、記憶に強く残った。

誰かが創作した訳でなく、本当に使われてた可能性も高いが、日本人の歪んだ優越感で、韓国人が濁音の発音が苦手なのと一般的に激しいと思われる気骨を上手に表現した名文句(迷文句?)だと思う。


で、時と所は変わって、ドイツはデュセルドルフの繁華街にある韓国焼き肉レストラン。

チョゴリをきた韓国人の女将さんが、濁音、吃音バリバリのドイツ語でサーブしているのを見たときはひっくり返りそうになった。


この気持ち、「わかるかなぁ~わかんねぇだろうなぁ~」

糞尿譚

2012-02-20 23:36:35 | 非常に個人的な昔話
ブックマークで紹介している「おおた 葉一郎のしょーと・しょーと・えっせい 」の今日のエントリー「反逆する風景(辺見庸著)」の後半には、大いに刺激された。(辺見庸は一冊も読んだ事が無いので、機会があれば挑戦してみたい)

変態の卦は誰でも少なからず持っていると思う。私は変態成分が多いというより、変態に同調したり、共感する感情が豊かな気がする。それも、糞尿系については感度が高く、セックス系には関心が低い。

ここで紹介されている二人のなかで、奥さんが長身なので段々と背の低い女の子にのめっていく男には、共感どころが唾棄したい気分になる。

しかし、もう1人の風呂の中で大きいのを排泄するのが趣味の男の方は刺激的だ。勿論、私にこんな趣味は無い。

ここからは、段々と汚くなっていくので注意。


私は小さい頃、水の中でおしっこをするのが好きであった。お風呂の中でもしたし、プールでもした。(一緒に泳いだ皆様ごめんなさい)

まあ、サーファーは体温を保つためにウエットスーツの中にオシッコをするらしいので、私の行為は可愛らしいものだ。今でも海では当然の様にする。(これは、結構一般的だと思うのだが)


お風呂で排泄をしたことは無いのであるが、小学校の頃、一回だけ、本当に一回だけ、お風呂で肛門に指を突っ込んでウンチを穿り出した事がある。田舎の裸電球の薄暗い五右衛門風呂だったので、そのまま気づかず出てきたのであるが、お風呂には小さいウンチのかけらが、浮いていた様だ。その後に入浴しようとした母が下着姿(一旦裸になって、怒りに任せて着直した)で、すごい形相で迫ってきて、こっぴどく叱られた。

肛門に指を出し入れする行為(感覚)に歓びがあったのだと記憶するが、その後、繰り返す事もなく、ゲイにもならなかった。


海と排泄に関しては、一度だけ海で大きいのをした事がある。高校生の時、のんびりと沖の方まで泳いでいた時に、急にもよおした。陸までは遠く離れていたので、覚悟を決めて立ち泳ぎをしながら事に及んだ。踏ん張れなかったが、もよおした勢いが凄くて、ご立派な物が浮かんでいた。

今でも泳ぎはそれなりに達者です。


失礼いたしました。

蝶結び

2012-01-28 19:21:41 | 非常に個人的な昔話
蝶結びは、母から習ったのだろう。

母は結構大雑把な人なので、私がずっと縦結びにしていたのは、最初から気付いてないし、気にもしてなかったと思う。

大学生の時、初めてキチンと付き合った女の子に靴ひもの縦結びを笑われた。そして、ちゃんとした結び方を教えてもらった。

昨日、下の娘のドレスの後ろの飾りになっている紐を結び直しながら、その女の子の笑顔を思い出した。

テレビに向かって叫ぶ

2011-11-01 07:09:18 | 非常に個人的な昔話
小学校の頃に母の実家へ里帰りすると、まだ未婚で同居していた母の妹、祖母、そして母でテレビドラマを一緒に見る機会が多かった。

特にメロドラマ風のストーリーで、去って行く男を追わない女が登場すると、叔母が「なぜ、追い掛けぬ」とテレビに向かって叫んでいた。

さて、昨日の日曜日、テレビジャパンで大河ドラマ「江:大阪冬の陣」を見たのだが、こっそり大阪城に淀と秀頼を訪ねた徳川秀忠が真田幸村と廊下で擦れ違う場面で、緊張する秀忠に幸村が「戦いは戦場で」といってやり過ごす場面を観て、思わず、「甘いぞ、幸村」とテレビに向かって叫んでしまった。

終盤には、戦場から帰ってきた秀忠が、淀と秀頼を説得出来なかった事を、膝をついて江に謝る場面があり、ここでも「甘いぞ、秀忠」と叫んでしまった。

それにしても、この大河ドラマ、余りに酷過ぎる。(淀と江の着物だけは観てて楽しいが、歴史考察は正しいのか?)

妙に興奮しているお父さんを子どもがどう受け取ったかは知る術も無いが、大きくなって、是非ともテレビに向かって叫んでもらいたいものだ。


そう言えば、うちのばあちゃん(父方)はプロレスが好きで、テレビに向かって
「馬場、後ろから来よるぞ」と、全く違う意味で、よく叫んでいた。

ホームラン、ソフトクリームが上にのっているかき氷

2011-07-19 07:30:40 | 非常に個人的な昔話
ミシガンも暑い日が続いているので、先週の土曜日、娘2人を連れて、DQ (Daily Queen)にソフトクリームを食べに行って来た。

私の記憶のでは、松山の映画館に DQ があったのだが、知らない間に日本から撤退してしまっていた。(想像としては、どこかの系列の映画館のテナントとして店舗展開をしていたのだと思う)子どもの頃の刷り込みは恐ろしいもので、松山(都会)、映画館(文化的)というコンビネーションで、食べた記憶も無いのに、DQ への憧れだけは根強く残っていた。元々アイスクリーム系が好きだという事もあり、チャンスがある毎にチョコレートディップのソフトクリームのラージを、今でも食べている。(最近は、Banana Split とか、今回は、Hawaiian Blizzard とか、守備範囲拡大中)

DQ のソフトクリームは、コクがあって美味しいのだが、コクのあるソフトクリームで思い出すのは、卯之町にあった「ホームラン」のソフトクリームである。それも、ソフトクリームとしてでは無く、かき氷の上に、たっぷりのっかったソフトクリームかき氷(?)としてである。かき氷に練乳を掛けるのは普通だが、ソフトクリームというのは、絶妙のアイデアであった。全国のソフトクリーム、かき氷を食べ歩いたわけでは無いが、他ではお目に掛かった事が無い。

中学校夏休み、部活帰りに食べるのが最高であった。

当時のホームランは、チャンポンとか簡単な食事を出す、簡易食堂と言う趣の店であった。ネットで調べるとは今でもやっている様だ。このメニューも残っている事を願わずにはいられない。

マムシ

2011-06-23 10:23:08 | 非常に個人的な昔話
ブックマークにも入れてある、郷里、明間在住のゴミ箱観光さんのブログで、『外貨をどういう手段で得ていくべきなんやろか』(外貨と言っても、明間の外からのお金)というエントリーがあり、僭越ながら、アイデアを2つコメントしてみた。

まずは、観音水の水を売るアイデア。利権などが絡んでいて敢え無く没。次に、マムシの養殖を提案したが、ゴミ箱観光さんが個人的に苦手だという事で、あっさりと却下。外貨獲得への道のりは険しそうだ。


さて、マムシ養殖のアイデアは、明間周辺の山には、結構、マムシがいると思い出したからだ。小さい頃は、マムシではなく、方言で、ハメと呼んでいたような気がするが、インテリで都会指向の私は、山に行く事もあまり無く、接近遭遇した事も無いのだが、実家は農業だけでなく林業もやっていたので、親父はなんだかんだと山に頻繁に行っていた。

今にして思えば、親父は田んぼよりも山の方が好きだった気がする。いろんな状況があり、自分一人で対応する仕事というのが性に合っていたのだろう。(稲作は基本的に単純作業だ)人恋しい割には、孤独に強く、一人で何でもする事が圧倒的に好きな性格だったのだ。私が、アメリカで比較的気楽にやっていられるのは、親父に似て、孤独に強く、一人上手(ちょっと妙な表現だが)だからである。アメリカは基本的に孤独な国だ。(その反動で、家族愛などが強くなるのではないかと思う)

で、マムシ見つけると、将来の安全の為に必ず殺すと言っていた。(夜の運転でイタチの目が光ると、これも必ず轢き殺そうとしていた。池の鯉を穫ったり、家畜にちょっかいを出したりするからだ)たまにマムシを捕まえて帰ってきたりもした。右手で雁首を掴み、左手一本でトラック(勿論、マニュアルでコラムシフト)を運転して。そのマムシは、一升瓶に水を少し入れて空気穴を開けたふたをし、床下の芋部屋(?)に置いておき、何週間か糞抜き(?)していた。(その後は知人にあげたりして、どのように料理(始末?)するのかは知らない)

マムシは雁首を掴まれると、大人しくダランとしているそうだ。青大将などは、腕に絡んでくるらしい。(蛇嫌いの私にとっては、どちらにしろ想像を絶する)

マムシを掴めて帰ってくるのは普通の事(?)らしく、親父の知人は、捕まえたマムシを空になったアルミの弁当箱に入れたことを忘れて、そのまま奥さんに渡して、大騒ぎになったと聞いた事もある。

中学校の時には、ワイルドな同級生がおり、マムシを町の市場に持って行くと5千円になると言っていた。(今もこんな所が相場だそうで、赤マムシはその3倍するそうだ)

では、親父がどうやってマムシを見つけていたかというと、マムシは鳴くのだそうだ。(マムシの匂いがするとも言っていた)