暘州通信

日本の山車

◆00002 烏山山あげ祭

2010年02月27日 | 日本の山車
◆00002 烏山山あげ祭
栃木県那須烏山市(旧烏山町)
八雲神社
□祭は七月下旬。
□山車
・元田町
御拝飾 鶴に鯉 明治十年の作。
建造記録は不明。
・金井町
御拝飾 神功皇后と武内宿禰。
寛政八年(一七六九)。常陸美和村国鷲子(茨城県)の薄井武衛門の建造。
・仲町
御拝飾 須佐之男命の八岐大蛇退治。
明治三十七年の建造。
・泉町
御拝飾 神武天皇と金鵄。
明治四十一年の建造。
・鍛冶町
御拝飾 少彦名命大鷲退治。
明治四十年の建造。工匠は井上卯吉。
彫刻は鷲子の小林兵衛門
塗師は佐藤為義
・日野町
御拝飾 牛若丸と烏天狗。
山車の建造は大正元年。
旧鍛冶町だったが分離独立した町。
□汎論
 烏山山あげ祭の行われるのは盛夏。眼もくらむような暑いさなかに行われる。山車は前部およそ四分の一が屋臺
、後部四分の三ほどが、山あげの部材を積む臺車の形態で、町の辻に山車をとめて山をたて、歌舞伎が上演される。 永禄三年(一五六〇)那須資胤は天下泰平、五穀豊穣、疫病消除を祈願して城下五町の鎮守牛頭天王(素盞鳴命)を祀る八雲神社を創建した。永井氏が領主だった元禄期には狂言が行われたといい、やがて城主が大久保侯に移った
享保から宝暦年間にかけては、江戸歌舞伎が隆盛になったのを受け、山車藝能がはじまった。舞臺装置や背景も「山あげ」による大規模なものになり、江戸時代末期には、今日のような全国にも例を見ない絢欄豪華な「山あげ」による野外歌舞伎が行われるようになった。
山あげは、六町内が年番となって交代に行われ、山車の舞臺を中心に道路上の約一〇〇メートルに大山(おおやま)・中山(なかやま)・前山・館(やかた)・橋・波などを配し、舞臺のすべてをつかい、 新緑が一瞬にして紅葉に変わるなどの陰の演出には青年らが巨大な山を操作する。
歌舞伎は常磐津にあわせて上演されるという壮大なものである。盛夏の炎天で観客は身じろぎもせず見入る。所作狂言が終演すると、装置はあっというまにとりかたづけて山車に積み、つぎの上演場所に移動する。
山は竹を割って網代に編み烏山和紙を幾重にも重ね張りしてつくるが、山があまりにも大仕掛のため、和紙をはるのりにするうどん粉を多量要するため値上がりしたというエピソードがのこされている。
これまで演じられた藝題には
「平将門」
「戻り橋」
「宗清」
「狐忠信」
「梅川忠兵衛」
「関の扉」
「蛇姫様」
「自雷也」
「奥州安達ヶ原・黒塚」
などがある。




◆00001 近江日野祭

2010年02月27日 | 日本の山車
◆00001 近江日野祭
滋賀県蒲生郡日野町村井馬見岡
綿向神社
□祭は五月上旬。
・西大路
・本町
・新町
・越川町
・清水町
・双六町
・河原田町
・今井町
・仕出町
・杉野神町
・上鍛冶町
・金英町
・南大窪町
・岡本町
・大窪町
・上大窪町
休止
・下鍛冶   
・呉服町   
・白銀町 

□汎論
山車十六臺を曳く。
いずれも屋根のない露臺式の山車で上臺に「だし」とよぶ人形を飾る。
近江日野祭は弘治三年に神輿三基の渡御が行われている。
日野に山車が曳かれるようになったのは「近江輿地志略」によると享保十九年「山鉾二基ほかねり物」とあって享保年間頃で、飾山や舁山だったようである。それ以前には練物が出ていた。「和田日記」には享和二年、引山と見え二輪か四輪の山車が曳かれたようである。宝暦になると「山車十二基」とある。
江戸時代各地に出向いて活躍した近江商人の財力を傾けた見事な山車がのこるが、信州諏訪に出店のあったという岡氏とのかかわりから立川一門の山車彫刻が見られる。
蒲生郡は額田王ゆかりの地で、石塔寺は大陸起源の古石塔がたつ。また日野町には飛騨町がある。
日野祭の山車は俗に「重箱型」と表現される。
屋根がない露臺型で、上部を飾山という。
正面に階段を設ける。
町内の記録によれば、最初に山車が曳かれたのは弘治三年で、「練物」、「飾をつけた舁山」のようなものではなかったか? と推定されている。
享保期にはこの練物や舁山に二輪、あるいは四輪の車輪をつけたものが曳かれるようになった。
享保十九年の「近江輿地志略」によると、
「山鉾二基ほかねり物」の記述があり、 享和二年の「和田日記」には、 宝暦年中「山車十二基」とあるから、このころにはほぼ現在に近い臺数の山車が曳かれるようになったと推定される。
文化三年の越川町山車は、飾山囃場山車で車輪は四輪
正面に階段をつける。
文化四年新町飾山囃場山車はやはり四輪車で階段と向拝が付く山車だったようである。文政期、岡本町の山車は飾山四輪の囃場山車。階段と二階が付いたものだったという。天保四年西大路越川町の山車は、飾山囃場山車葉車輪八輪とあるのが珍しい。階段があり軒唐破風をつけたものだったようである。
新町山車は天保五年の作といわれ、階段部まで船木とよぶ部材が伸びている。
このあとに建造された岡本町山車は二層式で今見られる形がほぼ整ったとみてよいだろう。清水町の山車は向拝をつけるもので新しい形式である。
西大路山車は屋根を葺き、さらにその屋根には軒唐破風をつける。
しかも規模が大型化してきた。
大窪町の山車は塗装をしない素木のままの山車である
南大久保は蔓股彫刻に中国の仙人である、費長房を載せる。
日野町の山車は、更新のさい、旧臺を譲渡した例があり。鈴鹿関町の文化センターには
その面影の残る山車の部材と一部装飾品が展示されている。