暘州通信

日本の山車

◆左甚五郎と五合庵

2010年02月17日 | 日本の山車 左甚五郎
◆左甚五郎と五合庵
 ある秋の黄昏がた、左甚五郎は越後寺泊をすぎたあたりの海辺で、空腹に耐えながら暮ゆく向かいの佐渡島を眺めていたときだった。「どうしなさった」と声をかけてきたものがいる。振り返ると破笠に破衣の貧相な僧である。甚五郎は苦笑いしながら「じつは腹が減って…」、それを聞いた僧はまじめな顔で「それはお困りじゃろう」しばらくお待ちなされといって姿を消したがしばらくすると、古鍋を提げてもどってきた。
 しして、ふところから今日の托鉢で得たと思しき一合ほどのこめを鍋にあけ海の水で炊いで、お粥を炊いてくれたのだった。「さあ、食べなされ」、僧は甚五郎にすすめ、自分も一緒になって食べたのだった。甚五郎は尋ねるともなくたずねると、どうやらこの近くの僧らしいが、行く雲、流れる水。臥所を定めぬ常住の住まいもないらしい。
 話を聴き終えた甚五郎は、僧のために、弥彦神社の南斜面の空き地に翌日から三日ほどかけて、小さな小屋を建ててやった。六畳と三畳ほどの粗末で小さな庵だったが、拾い集めた小枝を囲炉裏にくべると、部屋はたいそう暖かかだった。
 「神社には話をしておいたから、この庵で過ごしなされ」と甚五郎は言い、立ち去ったが、近くには湧き水もあり、それからはまれには尋ねてくる人もあり、米、醤油なども届けられ、紙、筆、硯も次第に備わってまずは不自由の無い暮らしであった。
 この貧しげな僧とは良寛で、訪ねてくる人の求めに応じて書を認めるのだった。
 あとで、庵を提供してくれたのが左甚五郎だと知った良寛は、この庵を、一合の雑炊を分けて食べた甚五郎を偲んで「半合庵(ごごうあん)」と名づけた。さらに、飛騨のたくみを詠んだ詩一編をつくって甚五郎の徳をしのんだのだった。「飛騨のたくみの打つ墨縄の…」とある。良寛はこの庵にしばらく住まいし、老いてのちに麓に移った。「半合庵」はその後無住となり、ひとびとは「五合庵」とよんで、明治の初め頃までは存在したらしいが、ついに朽ちたのだった。いまは良寛を讃える人々によって、往時を偲ぶ五合庵が復元されている。



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