暘州通信

日本の山車

◆甚五郎の招き猫

2010年02月17日 | 日本の山車 左甚五郎
◆甚五郎の招き猫
 江戸時代、江戸の町で小間物の行商をしていた忠兵衛、さな(佐奈)という夫婦があった。子はなく一匹の猫を飼っていたがたいそう忠兵衛になついていた。三月を迎えたある日、いつものように忠兵衛は行商に出かけたのだが、その日は風が強く大火事が発生した。後に言う振袖火事、明暦の大火である。江戸の町は火に包まれ、この火事で天守閣も焼け落ちた。伝馬町の牢屋では、一時的に囚人を解き放つ、解き放ちが行われた。これ以後千代田城には天守が築かれることはなかった。また一時的に解き放たれた囚人たちは恩徳に感じて全員戻ったといわれる。
 行商埼でこの火事を知った忠兵衛も急いで我が家に飛んで帰ったのだが、幸い妻は無事であったが火が迫るのに猫が忠兵衛の帰りを待ち続けて、家を出ようとしないというのである。 忠兵衛は火の粉の舞う家並みを通り抜けて、燃え盛る我が家に飛び込むと、愛猫を抱いて飛び出したのだった。
 しかし、猫は焼け落ちた梁に前足を挟まれ、哀れ不具になってしまった。ちょうどこのころ江戸にいた甚五郎のうわさを聞いた夫婦は甚五郎のところに相談に来た。「わしは医者じゃないからどうにもならんが…」といいながらも、気のいい甚五郎は木で猫の前足を作ってやったのだった。不思議なことにこの日から猫は普通に立って歩けるようになり、どこで見つけたかお嫁さんまで連れてきたのだった。
 やがて寿命で猫が息を引き取ると夫婦はそのさびしさにさいなまれるのだったが、夫婦で相談をして、甚五郎さんに猫の遺影を彫ってもらおうということになったが、甚五郎はどこかに旅立って江戸にはいなかった。うわさをたどって、上州伊勢崎でようやく甚五郎をたずねあて「しかじかで…」と話すと、甚五郎は前足を作ってやった猫をよく覚えていて、そっくりの猫を木で彫り上げてくれたのだった。しかしこの猫は動かなかったので少しがっかりしたが、それでも喜んで江戸に戻ったのだった。それからしばらくたったある日のこと、仏壇の前に飾っておいた猫があまりにも生前の姿に似ていたので、思わず猫の名前を呼ぶと猫は眼をあけ、片足を上げて「みゃあ」と嬉しそうに鳴いたから忠兵衛はびっくり仰天、それからというもの毎日名前をよんでは頭をなでてやると、猫はのどをごろごろいわせて喜ぶのだった。やがてその年も迫り、十一月ともなると浅草の長國山鷲山寺の酉の市に、夫婦そろってお参りし、おかめ笹で作った福笹を買って帰ったのだが、面白半分に笹についていた打出の小槌を猫にもたせたところ、猫は喜んでそれを振ったから、たちまち福が舞い込み、商売は繁盛、家普請でき、以前にもましてはんえいするようになった。この猫は世田谷の豪徳寺の猫と兄弟だったという。
 浅草の長國山鷲山寺には左甚五郎が奉納した大鷲があったというが、夫婦が献納した猫ともども大正時代の関東大震災で失われた。



◆甚五郎の子授け地蔵

2010年02月17日 | 日本の山車 左甚五郎
◆甚五郎の子授け地蔵
 日向の国、延岡のお殿様延稜公に招かれて、豊前臼杵から南に向かっていた左甚五郎はある村で宿を借りた。夫婦は好人物で甚五郎をあたたかくもてなしてくれたのだが、なぜか家のなかがわびしい。だがそのわけはすぐにわかった、夫婦に子供がいないのである。長年連れ添い夫婦仲もいいのだが、近くのお地蔵さんにお参りしてお願いしても、なぜか授からぬものは仕方が無い。もう諦めているという話だった。一部始終を聞き終わった甚五郎は翌日、あるじにお地蔵さんまで案内してもらった。しばらくお地蔵さんを眺めていた甚五郎は祠を寄進して差し上げようといい、お地蔵さんのおうちを作ってそちらに移ってもらったのだった。夫婦はたいそう喜んで毎日団子を作ってお供えし、せっせと日参したのだが、やはり子宝に恵まれなかったのである。夫婦は世間で評判の左甚五郎さんもたいしたことはないわい。もう明日からはおまいりもやめようなどと夫婦は愚痴を言いながら帰ってきたのだったが、その夜のこと、夫婦の枕元に件のお地蔵さんが現れたから驚いた。お地蔵さんいわく、「そちたちのお陰で毎日腹がふくれているのはありがたいが、聞けば子宝を望んでいるそうじゃの?」、「さようでございます、しかしお地蔵さんが望みをかなえてくださらないので…」思わず愚痴を言ったところ、お地蔵さんが言うには「わしは、団子はもう食い飽きた、明日から餅をあげよ」というなりぱっと姿が消えた。後で聞いたら妻も同じ夢を見たという。「不思議なこともあるものじゃ?」、しかしお地蔵さんのお告げなので翌日は餅を搗いてお地蔵さんに備えたのだった。その夜のこと妻が真っ赤になってもじもじしているのを見た主人、「ははあ? そういうことだったか」とすべてを理解した。「甚五郎さまのご利益はありがたい」。仲のよい夫婦に子供が恵まれたのはそれからまもなくのことだった。
 子宝に恵まれない夫婦は餅を搗いてお地蔵さんに供えると子供が授かるというのでたいそう評判になって、お参り衆があとを絶たなかった。

□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
◇日本の山車 ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/ypjcd447/
◇日本の山車 ホームページ
http://hiyou.easy-magic.com/

◇日光に行ってきました~!
2008/3/4(火) 午前 9:58
... 親子杉や夫婦杉など御神木があって、夫婦円満に良いと書い ... このお地蔵さんの名称は並び地蔵なんですけど、 行きに数えたお地蔵さんの数と帰りに数えた数が絶対に合わないという ... 名匠左甚五郎の名に因んで名付けられたという 日光甚五郎煎餅を買って帰り ... http://blogs.yahoo.co.jp/chikatyu2000/54154948.html

◇祇園祭小事典ラインナップ
2006/7/5(水) 午前 0:56
... 8月の地蔵盆、9月の御施餓鬼  27日:長刀鉾 ... 左甚五郎の兎の彫刻、豪華な屋根回り  18日:白楽天山 → 禅問答の御人形、学問のお守り  19日:芦刈山 → 別れた夫婦が再び一緒に、山口華揚のライオンの前掛、鶴の見送  20日:太子山 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/kobayan717/38485279.html




◆左甚五郎と五合庵

2010年02月17日 | 日本の山車 左甚五郎
◆左甚五郎と五合庵
 ある秋の黄昏がた、左甚五郎は越後寺泊をすぎたあたりの海辺で、空腹に耐えながら暮ゆく向かいの佐渡島を眺めていたときだった。「どうしなさった」と声をかけてきたものがいる。振り返ると破笠に破衣の貧相な僧である。甚五郎は苦笑いしながら「じつは腹が減って…」、それを聞いた僧はまじめな顔で「それはお困りじゃろう」しばらくお待ちなされといって姿を消したがしばらくすると、古鍋を提げてもどってきた。
 しして、ふところから今日の托鉢で得たと思しき一合ほどのこめを鍋にあけ海の水で炊いで、お粥を炊いてくれたのだった。「さあ、食べなされ」、僧は甚五郎にすすめ、自分も一緒になって食べたのだった。甚五郎は尋ねるともなくたずねると、どうやらこの近くの僧らしいが、行く雲、流れる水。臥所を定めぬ常住の住まいもないらしい。
 話を聴き終えた甚五郎は、僧のために、弥彦神社の南斜面の空き地に翌日から三日ほどかけて、小さな小屋を建ててやった。六畳と三畳ほどの粗末で小さな庵だったが、拾い集めた小枝を囲炉裏にくべると、部屋はたいそう暖かかだった。
 「神社には話をしておいたから、この庵で過ごしなされ」と甚五郎は言い、立ち去ったが、近くには湧き水もあり、それからはまれには尋ねてくる人もあり、米、醤油なども届けられ、紙、筆、硯も次第に備わってまずは不自由の無い暮らしであった。
 この貧しげな僧とは良寛で、訪ねてくる人の求めに応じて書を認めるのだった。
 あとで、庵を提供してくれたのが左甚五郎だと知った良寛は、この庵を、一合の雑炊を分けて食べた甚五郎を偲んで「半合庵(ごごうあん)」と名づけた。さらに、飛騨のたくみを詠んだ詩一編をつくって甚五郎の徳をしのんだのだった。「飛騨のたくみの打つ墨縄の…」とある。良寛はこの庵にしばらく住まいし、老いてのちに麓に移った。「半合庵」はその後無住となり、ひとびとは「五合庵」とよんで、明治の初め頃までは存在したらしいが、ついに朽ちたのだった。いまは良寛を讃える人々によって、往時を偲ぶ五合庵が復元されている。