暘州通信

日本の山車

◆00594 加納祭

2010年01月24日 | 日本の山車
◆00594 加納祭
岐阜県岐阜市加納天神町
加納天満宮祭
□祭神
菅原道真公
□山車
・鞍馬車(くらましゃ) 加納本町五丁目。
本座人形は牛若丸、大天狗(山伏)。
麾振人形は小天狗(采振り)
蟻通□(□、やま、文字なし、車偏に山)、傀儡車、と改称を重ねている。機巧人形を収める箱に、明治三十五年(一九〇二)とあり、この時期に鞍馬車に改称された考えられる。
機巧人形の牛若丸は戦前にすでに動かなくなっていたが、平成十五年の秋に復活した。
以下は山車が現存しない。
・本町一丁目 龍田人形車
・本町二丁目 文字書き唐子車。
・本町三丁目 恵比寿車。
・本町四丁目 猩々□(□は、やま、文字なし)
・本町六丁目 福寿□(□は、やま、文字なし)
・本町七丁目 鯰押□(□は、やま、文字なし)
 老寿車と呼ばれる山車があった。
・本町八丁目 湯取車
・新町 辨才天□(□は、やま、文字なし)
・清水町 大黒□(□は、やま、文字なし)
・加納天神町四丁目 融車
 源融の人形がのっていたと推定される。
□汎論
 加納天満宮の創祀は不明。
 斎藤宗円は土岐氏の家宰だったといい、斎藤利永はその嫡男である、美濃国守護代に任じられている。文安二年(一四四五)に、沓井城の築城のさい沓井城の鎮守として祀られたといわれる。沓井城は、岐阜市加納丸の内に築かれた平城だったが、天文七年(一五三八)に廃城となった。この沓井城を前期加納城という。
 慶長六年(一六〇一)に、金華山にあった岐阜城は加納に移され、加納藩となり、
慶長八年(一六〇三)に奥平信昌が入り、奥平氏の居城となった。後期加納城という。
 加納は岐阜市の南にあり、中山道六十九次の五十三番の内宿場町として栄えた。
 加納の山車は、昭和十七年に加納天満宮境内に曳き揃えられた五臺の山車を撮影した写真によると、すべて二層式、唐破風屋根、前面に屋根を設けない前棚があり、采をふる麾振人形がのっている。
 山車の名称は「車」のつくものと、「□、(□は、やま、車偏に山、あるいは山偏に車いずれも文字なし」がつかわれている。車偏に山と書く「やま」は、西濃(岐阜県南西部)、北陸の一部に見られる、本町七丁目の鯰押山はおそらく大垣祭の「鯰山」、大垣綾野祭「鯰山」などに見られる、老人が瓢箪でなまずを押さえようと苦慮するからくりが行われたかもしれない。
 岐阜市加納の山車はその形態を尾張にもとめながらも、一面で西濃を経て上方に志向があったと推定される。
 記録によれば加納町は本町三、四、五、六、七、八丁目、西天神町、清水、東天神町の九つの町内に山車があったといわれる。明治二十四年の濃尾大震災で多くの山車が失われたが、松屋町の山車も震災で罹災し、山車を失った。さらに戦争による空爆で壊滅的な打撃を受けた。
 近年盛時の山車の幕が見つかるなど地元の山車への関心は深い。山車の復活を期待したい。

 加納祭の記事中に誤りがあり、「八木工房さん」からご親切な指摘を頂き、また貴重な資料が記載されるホームページを参照させていただいた。誌して厚くお礼を申し上げたい。ぜひ、八木工房さんのホームページをご覧いただきたい。

◇八木工房ホームページ
 http://www.geocities.jp/yagi_koubou/T1.htm
 http://www.geocities.jp/yagi_koubou/E29.htm

□山車文献資料
・岐阜市史 通史編 民俗
・笠松町史 上、下
・八木工房資料

□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
◇日本の山車 ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/ypjcd447/
◇日本の山車 ホームページ
http://hiyou.easy-magic.com/

◇からくりの稽古始まる
2009/10/14(水) 午前 0:47
10月下旬の 加納天神祭 ただ一台の 山車が動きます その「からくり」人形の 稽古が始まりました まだ、衣裳は着けていません 牛若丸の からくり人形です

◆00007 大津祭 二の二

2010年01月24日 | 日本の山車
◆00007 大津祭 二の二
滋賀県大津市京町三丁目(旧四宮町)
天孫神社
□祭は一〇月上旬。
・石橋山 湊町
本座人形は寂昭(大江定基)。
古くは狂言にちなんだ「靫猿」とよばれていた。延享五年(一七四八)能楽の「石橋」に因む現在の臺名である「石橋」になった。「唐獅子山」の別名がある。
天台宗の僧、大江定基(寂昭)は修行のため宗の天台山(西涼山)に行くが、そこに架かる石の橋を渡ろうとしたとき、文珠菩薩の唐獅子が、牡丹の花に戯れているのを見た故実に因む。
正面と背面には牡丹を彫刻した見事な懸魚がある。この大きさは幅がおよそ一・五メートルにもおよぶ大きなものである。
天井の格間には菊の彫刻が施されている。
前の柱には牡丹の花や、たくさんの蕾があしらわれ、蝶が舞う。
胴幕は、中島來章の下絵で、正面は雪景色で月に三羽の雁が飛ぶ。
左側は、港の風景で、中国の三人の人物で一人は、遠眼鏡で船を見、牡丹が描かれる
右側は陸地と海を隔てて城がある。海には船が浮かび、白馬に乗った貴人がおり
出迎える人がいる。
見送り幕は、毛綴織で、上部には花束と鳥の模様が織りこまれている。
このような模様は大津祭の龍門瀧山、長浜祭の鳳凰山、京都祇園祭の鶏鉾に類型が見られる。
図柄は椅子にかける貴人を真ん中に左には貴婦人がいて、その後方には侍女が控え、右には壺を持った二人の男がいる。
後背には、遠く山並みが描かれている。
からくり
曵山奥には大きな岩があり、右手前には寂昭法師が立っている。所望の囃子が始まると岩の下方が割れて岩戸が開く。大きな目をした愛らしい唐獅子があらわれて、少し前に進んで跳ね、後ろ向きになって岩戸の中に入る。
昔は橋樋があって、曵山の前方飾られている牡丹の花に戯れる姿があったといわれる
が、今は見られない。
現在使用されている唐獅子は、昭和五十七年に復元修理された物を使用している。

・龍門瀧山 太間町
本座は鯉。鯉が勢いよく瀧を登って龍と化す機巧戯がある。
中国黄河の上流にある龍門山は、魚がさかのぼることの出来ない滝がある。この瀧をさかのぼることが出来た鯉は天に昇り龍になるといわれている。
見送幕は、国の重要文化財指定される。近年の研究で、十六世紀ベルギーで作られた毛綴織で、画題はギリシャの詩人ホメロスの叙事詩である「イリアッド」の物語。トロイ落城の情景を織りだしたといわれている。
瀧をのぼる鯉は何回か更新されているが、当初のからくりの鯉は、初代、林孫之進が宝暦十二年(一七六二)湖南の大工栄蔵の作には、寛政五年(一七九四)の銘がある。
さらに、製作年代不明の四代目林孫之進の三体が伝わる。これら三体の鯉は宵山から本祭に飾り展示される。
幕押しの彫刻「中国農村風景」は、左甚五郎作と伝える。、
からくり
曵山全体が龍門山をかたどり、天井は一面に雲を表した彫刻を施して天を表し、中央には大きな瀧がある。鯉はこの滝を尾や鰭を左右に振り動かして、落ちる水に何度も押し返されながら、幾度も上下を繰り返しつつ徐々に上へと上っていく
金色に塗られた鯉はやがて上部に達するや、やおら翼を左右に大きく広げ、そのまま、天井の雲の中へと姿を隠す。翼を大きく広げることで、鯉から龍へ変身できたことを表現している。このからくり藝は曵山の下床で、一人で操作されるため、外部からはからくりを操る人の姿は見えない。

・源氏山 中京町
本座は紫式部。全国でも二番目に古い近江八景の機巧がある。
「紫式部山」の別名がある
紫式部が石山寺において「源氏物語」を書いた
曵山が平安朝の王朝風の雰囲気を持つ
曵山内部は石山寺の観月臺を模した和様勾欄
下層廻りは蔀を装う
からくり
曵山中央の観月臺には紫式部が右手に持つ筆を動かし
左手に巻紙を開いている
その眼前には岩山があり
その左下にある岩戸が開いて、時代衣装の汐汲みの男女
帆掛け船を漕ぐ船頭、牛の曳く御所車
それに続く従者、傘持ちなど七体の人形が廻りながら
次々と姿を見せる。さらに岩山の中央では水車、松並木が出没して風景が変わる
執筆する紫式部、回転しながら趣向の変わった人形、背景の変化、
と三様の演出が平安絵巻を盛り上げる
近江八景
矢橋の帰帆
瀬田の夕照
粟津の晴嵐
三井の晩鐘
唐崎の夜雨
堅田の落雁
比良の暮雪
を題材にした欄間彫刻は注目に値する
天井画は、長谷川玉峰による萩、もみじ、菊など二十七種の「草花図」が描かれている。両脇柱間の三枚の羽目板には、金地に極彩色で、もみじと菊それに三羽の鳳凰を描く。

・神功皇后山 猟師町
本座人形は神功皇后と竹内宿禰。
「神功山」の別名がある
神功皇后は夫の仲哀天皇の死去後、その遺志をついで
朝鮮へ出兵し、新羅、百済、高句麗の三国を征服したと言われる
皇后で、真っすぐな釣針で鮎を釣って戦勝を占ったという鮎占伝説がある。
岩に「三韓之王者」と刻む。
皇后は凱旋後無事に応神天皇を出産したといわれることから、古来安産の守り神として信仰を集めてきた。
いまでも、皇后の人形に新しい腹帯を巻き、安産を祈願する人に授ける風習が続いている。
曵山の屋根は唐破風造で、両側面の軒にも唐破風がつくというめずらしい構造である。
内部の天井は四列六行二十四間の格間に仕切る、格天井で各格間の鏡板の画は江戸時代後期岸派の門下である広瀬柏園。 
金箔押に、菊、朝貌、梅に鶯、紅葉、鉄線、櫻、桔梗、百合、薔薇、撫子、紫陽花、藤、秋海棠、萩など各種の草花や鳥などが極彩色で描かれている
からくり
右手に神功皇后、左に竹内宿禰の人形がある。中央奥に大岩の作り物があり小さな滝が落ちている。
所望の囃子にあわせて皇后が右手に持った弓に左手をそえ、身体を岩の方に向けて弓の先で岩の左上に「三」の文字を書くと岩の上に黄金色に輝く「三」の文字が現れる。このようにして、「三韓の王者」という五つの金文字が次々と岩の上に現れる。

・月宮殿山 上京町
本座人形は、能楽の「鶴亀」にちなむ中国の皇帝。喜多流の「月宮 殿」をとり、春陽の節会のさい月宮殿において鶴亀の舞を舞い謡う。
「鶴亀山」の別名がある。
能楽の「鶴亀」にちなみ喜多流では「鶴亀」を「月宮殿」と言うところから、山車の名が喜多流によりつけられている。
中国の皇帝が、春陽の節会の儀式のとき、月宮殿において鶴亀の舞を所望したが
興にのった皇帝もともに舞いにあわせて謡った。
寛政三年(一七九一)までは、鳳凰臺山といったが、その後いまの「月宮殿山」に変わった
からくり
曵山中央奥に玉冠をつけた皇帝が控える。一段低い右手に亀の冠をつけた男子の舞人
左手には鶴の冠をつけた女子の舞人が向き合って立つ。
所望の囃子にかわると、まず鶴亀が正面に向かって静かに両手をあげ、亀は右へ、鶴は左へ廻りながら扇を広げるその後向き合って両手をおろす。
ふたたび両手を上ゲ鶴亀が逆方向に廻って、正面に向き合う。
皇帝は不動の姿勢であるが、口唇はあたかも謡うがごとく開かれている。
見送り幕は龍門瀧山と同じように十六世紀ベルギーのブリュッセルで織られた重厚な毛綴で重要文化財に指定されている。
天井は折り上げ格天井
その各格間には三十二の金銅星宿(星座)が配されている
この様式は、京都、祇園祭の長刀鉾にも見られる
唐破風の懸魚は、全体金箔をおいた牡丹彫刻である。
飾り金具は、消鍍金による精緻な地彫、毛彫などの技法が施される
(順不同)
湯立山は天孫神社の湯立て神事を問う山車で行うほかは、神社と本座人形には関連性がない。

□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
◇日本の山車 ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/ypjcd447/
◇日本の山車 ホームページ
http://hiyou.easy-magic.com/

◇飛騨古川祭  青龍台のからくり奉納
2008/5/2(金) 午前 10:44
青龍台のからくり人形   福禄寿と唐子人形が25条の糸に操られています。   謡曲「鶴亀」に合わせて操られるからくり人形は大津絵「外方の梯子剃り」を   題材としたもので、唐人が梯子を登り、亀が鶴に変わる ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/miya1116jp/41897647.html