暘州通信

日本の山車

◆35665 山車の人形

2010年01月20日 | 日本の山車
◆35665 山車の人形
 これは、仮説である。
 まだ釈迦やキリスト、孔子などの諸聖人があらわれる以前の、縄文時代から弥生時代にも宗教と信仰があったことは、発掘された遺物によってもあきらかで、世界各地には古代信仰があったことはよく知られている。わが国でも山稜の頂部に神が降る「神降(あもり)」の場所は、縄文時代から弥生時代にかけて連続する思想があり、山頂に神を迎える、柱がたてられ迎えられた神々は「神籬(ひもろぎ)」、「御阿禮(みあれ)」などを設けて鎮座した。時には山体そのものが御神体として敬われたことは衆知の通りである。
 その神座をつくるため古代人たちは、現代においても想像もつかないほどの人智をあつめて巨石を動かし、移動し、加工している。こうして今も幾多の巨石の磐座が神坐として伝わっている。おそらく古代人は磐座を中心に多くのひとびとが集まって、先祖を敬い、新生児の誕生を寿ぎ、死者を弔い、農産物の豊作を祈り、ときに雨乞いをするなど神とひとびとの生活は一如だったと推定される。
 これが後世になると、山頂まで出かける困難さとあいまって麓に拝殿が設けられ、一族の祭祀は麓で行われるようになった。山に降った神は里まで遷されるようになり、これはさらに本殿が設けられる祭祀形態へと進んだと考えられる。その過程で山に降臨した神を里まで移動する移動神座を生み、ときには、神社本殿に直接神降ると考える思想が生まれた。このような信仰の事情から、祭祀を専門とする神職、神主のいない神社では「とうにん」による祭祀が行われた。歴史時代に到って次第に神社制度が確立し、平安時代十一世紀には延喜式神名帳が整備された。

□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
◇日本の山車 ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/ypjcd447/
◇日本の山車 ホームページ
http://hiyou.easy-magic.com/

◇磐岩神社に隠された巨石信仰
2010/1/6(水) 午後 9:54
岡山県金光町の磐岩(いわむら)神社は、間違いなく巨石祭祀から発した神社です。 石段を登ると、社殿があり、その背後は巨石が散在して、いかにも古代の巨石信仰から始まったお社だという実感が湧きます。 ところが、斜面を登って驚きました。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/doctor3044/30860558.html

◇彦山信仰圏の二つの瀬織津姫祭祀──汐井社と瀬成神社
2009/12/23(水) 午後 4:13
... 名を確認することはできません(彦山信仰と瀬織津姫祭祀との関係については、千時千一夜№599「彦山信仰と安倍氏」でふれてありますので ... 〔後略〕  以上の神社縁起は『添田町誌』にも収録されていて、瀬成神社の定説縁起といってよいかとおもい ... http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/23288643.html

◇手向山神社 その2 八幡信仰
2007/7/20(金) 午後 10:17
「神社の神々」のコーナーでは子供の頃からあった「神社って不思議・・分からない」という思いが一つ一つ解かれていくようです。 ... この信仰を日本に最初にもたらしたのは,5世紀前後,新羅 ... なる者が祭祀を主宰していたが,その時,宇佐神 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/nekozero54/48394679.html

◆01595 竪破山の太刀割石

2010年01月20日 | 日本の山車
◆01595 竪破山の太刀割石
茨城県日立市(旧十王町)
黒前神社
□祭神
クロサカノミコト 黒坂命
□汎論
 分割された磐。
 竪破山は、角枯山(つのかれやま)ともいい、標高は六五八メートルである。
 竪破山(たつわれさん)に祀られる黒前神社(くろさきじんじゃ)は、クロサカノミコト(黒坂命)を祀る神社である。クロサカノミコトは、『常陸風土記』に、東征の途次この地で死去したとある。
 山中には、不動石刀割石、甲石(堅破和光石)、烏帽子石、神楽石、胎内石、畳石(腰掛け畳石)、舟石など七つの巨石遺構が存在し、龍馬滝、不動滝(奈々久良滝)、剣滝の三つの滝をあわせ、七奇石三瀑と呼んでいる。
とりわけ目を惹くのが二つに分断された巨石で、山頂近くに分断された磐面が上を向いているが、綺麗に整った平面になっている。一方の岩は分断平面を垂直に見せ立っている。源義家が戦勝祈願のさい太刀で割ったとされる太刀割石で、徳川光圀の命名だと伝えられる。竪破山の山名も太刀割石にちなむといわれるが、いまは倒れている磐ももとは二つの磐が並び立っていたといわれる。竪破山南面には大きな崩壊地で、崩落崖となっている。この崩壊作用で一方の磐にも物理的な作用が働いたかもしれない。もとは、分割された磐の遺構といえよう。