暘州通信

日本の山車

03826 韓国新羅神社とグロ

2006年08月06日 | 日本の山車
03826 韓国新羅神社とグロ

島根県大田市五十猛町大浦
韓国のソシモリに息子のイタケルノミコト(五十猛命)とともに降臨したスサノオノミコトが渡来した日本の地は島根県太田市大浦の地だったとされる。
大浦の港は韓浦といわれ、韓国新羅神社は漁港の西側にあり、背後の山は韓郷山といい
新羅からの渡来人が故郷を偲んだといわれる。
大陸から渡来し日本に帰化していった新羅のひとたちの心のよりどころだったと考えられよう。
新羅系、高麗系、任那系の氏族が祀った渡来系の新羅神社、高麗神社、任那神社、白髭神社、白鬚神社は各地にある。
太田市には韓国系の要素を色濃く残す「グロ」とよぶ、左義長に似た神事が行なわれる。 新年の伝統行事で、千木(せんぼく)と呼ぶ高い竹を切ってたてる。この千木に神が降臨する。これを囲んで周囲を円く木をたてたあとに壁を笹で覆い、屋根を茣蓙むしろで葺く。
こうしてできたグロに歳徳神を祀り、囲炉裏をきって一晩中火をたいて暖をとる。
グロの中で火にあたり、この火で焼いたものを食べると一年間病気をせず、大漁に恵まれるという言い伝えがある。14日の夜には、千歳祭を行い15日には解体してトンド焼きをして歳徳神を送り行事は終わる。




03825 新羅神社秋祭

2006年08月06日 | 日本の山車
新羅神社秋祭
姫路市四郷町明田
新羅神社
祭神

神功皇后 ジングウコウゴウ

応神天皇 オウジンテンノウ

□祭
10月上旬

□山車
明田には大正期に屋臺があったという。神輿型の舁山。
現在の屋臺は昭和61年に新調。
臺紋は前後が菊、左右は三つ巴。
大幕
図は「追い龍」、
高欄掛には龍、虎、鯉、鷲の退治物を刺繍する。

□参考
新羅神社
・八戸三社大祭 青森県八戸市

●795 公表された裏金はほんの一部。

2006年08月06日 | 行政・司法問題
□このたび公表された5億円弱の裏金はほんの一部。
□広域的に協議して進めてゆく事業には当然強力なネットワークが構築されている

□地方公共団体が孤立してそんざいすることはありないからだ。
□これが端的に現れるのは地方公共団体の選挙である。
□よく現職は強いといわれるが、それは裏に張りめぐらされた強力な網の目のようなネットができている。
□この網の目を血液である資金が流れる。
□そしてそれは、極秘事項なのだ。
□現職が当選して、再選されるためにもっとも有効なのは組織票。
□裏金の大部分はその資金として使われ、すみずみまで行き渡るのだ。
□絶対に表に出ることはない。しかし、県庁・市町村職員はそのすべてが知っている。
□しかしこれを口外することは身の破滅を意味する。
□梶原拓前岐阜県知事・岐阜県市町村長の裏ネットは強力だった。
□岐阜県市町村長は梶原拓前岐阜県知事から給付された裏金で当選し、その
みかえりで、組織票を梶原拓前岐阜県知事は市町村長に投じさせたといえばわかりやすいだろう。
□裏金は、補助事業の対象を選んで補助金を交付し、一定の謝礼を引いて梶原拓前岐阜県知事に還流した。
□当然黒い資金は岐阜県警にもわたっている。
□岐阜県警の幹部で岐阜県の供応で宴会に出、餞別をもらって岐阜県警を辞職した幹部は身に覚えがあるはず。
□飛騨センター、新飛騨食肉センター、はその悪しき補助事業であった。
□国からの補助金はいちど岐阜県をとおって、高山市・土野守高山市長がつとめる新飛騨食肉センター建設運営協議会・飛騨ミート農業協同組合連合会に入りそのあと武部勤農林水産大臣、坂口力厚生労働大臣に献金されたという。
□居間岐阜県で大問題となっている5億円弱の裏金は九牛の一毛。
梶原拓前岐阜県知事がその中枢にあったことはまぎれもない。
□以上、筆者の記事を見た匿名希望者からの情報提供である。


00102 桐生祇園祭

2006年08月06日 | 日本の山車
00102 桐生祇園祭
群馬県桐生市
八坂神社
□祭
八月上旬。
八木節祭ともいう。山車(鉾)2臺、屋臺6臺を曳く。

・本町三丁目、本町四丁目
屋台六台
本町一丁目ー六丁目

・本町三丁目
翁鉾。
文久2年(1862)建造。
江戸型山車。

・本町四丁目
四丁目鉾。
明治8年建造。
桐生型山車。彫刻は岸亦八。
人形は素盞鳴命、松本喜三郎。

□屋臺

・本町一丁目
昭和13年建造、工匠は金子惣次郎。
彫刻は高松伍助。

・本町二丁目
明治30年に着工、35年建造、工匠は金子作太郎。
彫刻は高松政吉。
創建は江戸期。
明治12年曳行中事故があり寂光院の本堂部材の一部に寄進された。

・本町三丁目
安政5年(1858)の建造。
工匠は山田慶次郎。
彫刻はは石原常八。
解体して保存。

・本町四丁目
明治2年建造。
工匠は鈴木嘉七。
彫刻は岸亦八。

・本町五丁目
安政6年(1856)建造、工匠は不明。
彫刻は岸亦八。

・本町六丁目
慶応3年(1867)建造。工匠は不明。
彫刻は岸亦八。