
ドキドキしてハラハラして、
一生懸命ついていくだけで精いっぱい。
こういうタイトルの本は普段なら絶対読まないんだけど、岡本太郎だから読んでみました。
二人が、いろいろな本に書いている「愛する言葉」を集めて再編集したエッセンス版。岡本太郎の言葉は青字、敏子の言葉は赤字で示される。
岡本太郎の言葉よりも、私には敏子の言葉のほうが印象深かった。岡本太郎の「愛する言葉」も、どれも岡本太郎らしくていいのだけれど、それより、敏子の言葉を通して、岡本敏子がどんなふうに「岡本太郎」という超個性に生涯寄り添ったのか、どんなに愛していたかがよく分かって、とても興味深いものがありました。そして、太郎の、あのぶっ飛んだ芸術性は、やはり敏子によって支えられていたんだということも。
男が自分を縛って、
いじいじと小さくなってしまうくらいなら、
女が半分背負いたい。
少々無鉄砲で、先の見えないことに飛び込む男でも、
世間では無視して認めてくれないようなことに熱中する男でも、
やりたいことがあって、眼の光っている男の方がいい。
ここでいう「男」というのは、もちろん太郎を指しているわけで、敏子は常に、ためらうことなくまっすぐに、太郎への深い愛を表明する。この本に集められた敏子の言葉、すべてが太郎に向けられている。男冥利、というのも古くさい言葉ですが、全く太郎は幸せな男だったと思う。
太郎さんが『男女』っていう素敵な字を書いたの。
男と女がくっついてひとつになってるんだけど、男が上。
だから「やっぱり男が上なのね」と言ったら、
「そうだよ、いつだって女が支えてるんだ」って言うのよ。
ちゃんとわかってらっしゃる。
「女が男を支える」なんて言ったら、そのスジの方々から眼を剥かれそうですが、だけど、この二人の場合は、それが当たり前で、一番自然な姿だったのですね。
私は岡本太郎によって育てられた。
こんなにのびのびと平気で、
ありのままでいられるのは、
彼が、
「それでいいんだよ。それが敏子なんだ」
と認め、けしかけてくれたからなの。
一方、太郎の「愛する言葉」は、太郎流の「恋愛論」が多い。
自分が自分自身に出会う、
彼女が彼女自身に出会う、
お互いが相手のなかに自分自身を発見する。
それが運命的な出会いというものだ。
フムフム、なるほど。
男は
女性の世界観から
自分のなかに欠落しているものを、
見出すことができる。
これが喜びであり、救いとなる。
あるいは、
男性だけの世界観は
ほんとうのものじゃない。
女性だけの世界観も
ほんとうのものとはいえない。
この男と女の世界観がぶつかり合って、
そこで初めてほんとうの世界観が生まれるんだ。
岡本太郎の作品は、言うまでもなく、男性的な力強さがほとばしり出ているものが多いのですが、その反面、丸みを帯びたフォルムや、なだらかな曲線、細部の繊細さなど、女性的とも言える優しさも息づいています。そういうのは、太郎自身の資質に加えて、敏子という女性に「与えられた」部分も多分に影響しているんだろうなということが、この本を読んでよく分かりました。
敏子は、もともと太郎の秘書として太郎に出会ったわけですが、二人は、深く愛し合うようになってからも「結婚」という形は取りませんでした(戸籍上は敏子は太郎の養子になっています)。
好きな女性が、
他の男と結婚しようが、
こちらが他の女性と結婚しようが、
それはそれだ。
ほんとうの出会いは、約束ごとじゃない。
恋愛というものさえ超えたものなんだ。
そこまで言い切れるのは、やっぱり「岡本太郎」だからなのでしょう。「枠」にはめられることが大嫌いな自由人、岡本太郎だから。
太郎は、決してストレートには敏子への愛を語ってはいません。でも、一般論に見せかけて、実は敏子のことを言っていると思われる言葉はたくさんあります。
ほんとうに素晴らしい女性というのは、
目ではなく、
心にふれてくるものなんだ。
あるいは、敏子の言葉を借りれば、
わたくし、よく言われてたの。
お前さんは頭もよくないし、
センスがいいわけでもないけど、
本当のことしかいわないからいいよって。
お互いに引き合って、引き出し合える関係。男女の関係にに限らず、それはいつも一番大事なことですね。
『愛する言葉』≫Amazon.co.jp
一生懸命ついていくだけで精いっぱい。
こういうタイトルの本は普段なら絶対読まないんだけど、岡本太郎だから読んでみました。
二人が、いろいろな本に書いている「愛する言葉」を集めて再編集したエッセンス版。岡本太郎の言葉は青字、敏子の言葉は赤字で示される。
岡本太郎の言葉よりも、私には敏子の言葉のほうが印象深かった。岡本太郎の「愛する言葉」も、どれも岡本太郎らしくていいのだけれど、それより、敏子の言葉を通して、岡本敏子がどんなふうに「岡本太郎」という超個性に生涯寄り添ったのか、どんなに愛していたかがよく分かって、とても興味深いものがありました。そして、太郎の、あのぶっ飛んだ芸術性は、やはり敏子によって支えられていたんだということも。
男が自分を縛って、
いじいじと小さくなってしまうくらいなら、
女が半分背負いたい。
少々無鉄砲で、先の見えないことに飛び込む男でも、
世間では無視して認めてくれないようなことに熱中する男でも、
やりたいことがあって、眼の光っている男の方がいい。
ここでいう「男」というのは、もちろん太郎を指しているわけで、敏子は常に、ためらうことなくまっすぐに、太郎への深い愛を表明する。この本に集められた敏子の言葉、すべてが太郎に向けられている。男冥利、というのも古くさい言葉ですが、全く太郎は幸せな男だったと思う。
太郎さんが『男女』っていう素敵な字を書いたの。
男と女がくっついてひとつになってるんだけど、男が上。
だから「やっぱり男が上なのね」と言ったら、
「そうだよ、いつだって女が支えてるんだ」って言うのよ。
ちゃんとわかってらっしゃる。
「女が男を支える」なんて言ったら、そのスジの方々から眼を剥かれそうですが、だけど、この二人の場合は、それが当たり前で、一番自然な姿だったのですね。
私は岡本太郎によって育てられた。
こんなにのびのびと平気で、
ありのままでいられるのは、
彼が、
「それでいいんだよ。それが敏子なんだ」
と認め、けしかけてくれたからなの。
一方、太郎の「愛する言葉」は、太郎流の「恋愛論」が多い。
自分が自分自身に出会う、
彼女が彼女自身に出会う、
お互いが相手のなかに自分自身を発見する。
それが運命的な出会いというものだ。
フムフム、なるほど。
男は
女性の世界観から
自分のなかに欠落しているものを、
見出すことができる。
これが喜びであり、救いとなる。
あるいは、
男性だけの世界観は
ほんとうのものじゃない。
女性だけの世界観も
ほんとうのものとはいえない。
この男と女の世界観がぶつかり合って、
そこで初めてほんとうの世界観が生まれるんだ。
岡本太郎の作品は、言うまでもなく、男性的な力強さがほとばしり出ているものが多いのですが、その反面、丸みを帯びたフォルムや、なだらかな曲線、細部の繊細さなど、女性的とも言える優しさも息づいています。そういうのは、太郎自身の資質に加えて、敏子という女性に「与えられた」部分も多分に影響しているんだろうなということが、この本を読んでよく分かりました。
敏子は、もともと太郎の秘書として太郎に出会ったわけですが、二人は、深く愛し合うようになってからも「結婚」という形は取りませんでした(戸籍上は敏子は太郎の養子になっています)。
好きな女性が、
他の男と結婚しようが、
こちらが他の女性と結婚しようが、
それはそれだ。
ほんとうの出会いは、約束ごとじゃない。
恋愛というものさえ超えたものなんだ。
そこまで言い切れるのは、やっぱり「岡本太郎」だからなのでしょう。「枠」にはめられることが大嫌いな自由人、岡本太郎だから。
太郎は、決してストレートには敏子への愛を語ってはいません。でも、一般論に見せかけて、実は敏子のことを言っていると思われる言葉はたくさんあります。
ほんとうに素晴らしい女性というのは、
目ではなく、
心にふれてくるものなんだ。
あるいは、敏子の言葉を借りれば、
わたくし、よく言われてたの。
お前さんは頭もよくないし、
センスがいいわけでもないけど、
本当のことしかいわないからいいよって。
お互いに引き合って、引き出し合える関係。男女の関係にに限らず、それはいつも一番大事なことですね。
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