第一部 ファンティーヌ
第四編 委託は時に放棄となる(岩波文庫第1巻p.260~p.282)
「おもしろい狂言」から10ヶ月後…。哀れなファンティーヌは「二歳か三歳の女の児」を腕に抱いて、パリの近くモンフェルメイュに姿を現します。仕事を得るために、故郷のモントルイュ・スュール・メールに向かう途中でした。
「10ヶ月」と「二歳か三歳」。ユゴーの記述が間違っていないとすれば(間違っているはずないか)、二人がつき合っている時から子どもがいたということになりますね! てっきりトロミエスが去ってから子どもが産まれたものとばかり思いこんでいました。いったいぜんたい、トロミエスは娘がいたことを知っていたのでしょうか? 知っていたらあんな「狂言」をぶつなんてできなかったのではと思うのですが。
モンフェルメイュのとある飲食店の前に大きな荷馬車の車輪が放置されており、心棒から垂れ下がった鎖がちょうどブランコのようになっていました。そこで二人の幼い姉妹が遊んでいます。かたわらでは小さな赤ん坊を抱いた母親が調子はずれの恋歌を歌いながらそれを見守っています。「鎖の揺れるたびごとに、その気味悪い鉄輪は、怒りの叫び声にも似た鋭い音を立てた」。
と、そこへファンティーヌがやってきて声をかけます。それは、彼女の手に抱かれた娘コゼットの運命を決める出会いだったのです。鎖のブランコで娘たちを遊ばせていた母親は、料理店を営むテナルディエの「上さん」。ファンティーヌは見ず知らずの彼女に、コゼットをしばらく預かってもらえないかと頼み込みます。
「私は娘を国につれてゆくことができませんのです。そうしては仕事ができません。子供連れでは仕事の口が見つかりません。…私がお店の前を通りかかったのは神様のお引き合わせでございます。私はお子さんたちのあんなにかわゆくきれいで楽しそうなところを見まして、ほんとに心を取られてしまいました。あぁいいお母さんだ、そうだ、三人で姉妹のように見えるだろう、と思いました。…」
ファンティーヌの大いなる勘違い。しかし、女一人で子どもを育てるのは、今とは比較にならないほど大変な時代だったのでしょう。特に身よりもない天涯孤独のファンティーヌが働いて食べていくためには、子どもと一緒に暮らすことは無理だったのです。もちろん今のように子どもを預ける保育所が普及しているわけもない。ちなみに、世界最初の保育施設を作ったのは、フランス人オーベルリンという人で、1779年に「幼児保護所」(別名「編物学校」)を創設しています。ただこれは保育と言うより「託児」施設だったようです。労働する母親に代わって保育をすることを目的として作られた施設(保育所)のルーツを作ったのは、イギリスの社会主義者ロバート・オーウェン(1771~1858)です。産業革命のまっただ中、オーウェンは1817年に、労働者である母親に代わって貧しい家庭の乳幼児の保育をする施設を作っています(その名も「性格形成学院」)。また、ドイツの教育者フリードリヒ・フレーベル(1782~1852)は幼児のための教育施設を作り、KIndergartenと名付けました。これが世界最初の幼稚園です。日本で最初に幼稚園が開かれたのは意外と早く、1900(明治33)年に東京に創立された「二葉幼稚園」が最も古い歴史を持つのだそうです。
「考えてみる」と言ったテナルディエの上さんは、結局、店の奥で話を聞いていたらしい夫のとっさの入れ知恵もあり、月々の養育費7フラン×6ヶ月分+支度金15フラン、計57フランでコゼットを預かることを了承します。ファンティーヌは、翌朝、テナルディエ夫婦のもとに娘を置いて絶望のうちに出発していきます。
さて、子どもを預かることになったテナルディエ夫婦はいかなる人物であったか? ユゴーは、二人を外見も内面もきわめて悪辣な人物として描写しています。ジャン・ヴァルジャンがこの物語の「光」なら、まさにこの二人は「陰」の部分の象徴です。特に、夫の方は物語の最後の最後までしつこくジャンにとりついて離れない疫病神のような存在として描かれています。
テナルディエは、ワーテルローの戦いに参加した元兵士(そのことはのちに描かれますが、戦場で彼は物語の重要な伏線となるある出会いをするのです)で、今は経営の苦しい旅籠屋の主人。コゼットを預かるのと引き替えに手にした57フランは、さっそく借金の返済に充てられました。そればかりか、ファンティーヌから預かったコゼットの衣類を質に入れさらに60フランを手に入れますが、それもあっという間になくなってしまいます。金がなくなればコゼットはただの厄介者でしかありません。二人はコゼットに娘の古着を着せ、食べ物と言えば食い残ししか与えません。娘二人(エポニーヌとアゼルマ)も親を見習ってコゼットにつらくあたります。月7フランの養育費も12フラン、15フランとつり上げていき、そうして1年が過ぎ、3年が過ぎていきました。5歳にしてコゼットは完全にテナルディエ家の「女中」となります。
かつてミュージカル「レ・ミゼラブル」のポスターを飾ったコゼットの絵があります。体の2倍ほどもあるほうきを両手でしっかり持って掃除をするコゼット。これは岩波文庫版にも収められている挿し絵の1枚です(第1巻の表紙にも使われています)。裸足で、肩がもろ出しのボロを着て床にたまった水をほうきで掻き出しながら、あの目はどこを、誰を見ているのでしょうか?
もしその母親が、それらの三カ年の後にモンフェルメイュに帰ってきたとしても、もう自分の子供を見分けることはできなかっただろう。その家に到着した時にはあれほどかわゆく生き生きとしていたコゼットは、今はやせ衰えて青ざめていた。何ともいえない不安な表情をしていた。「陰険な子だ!」とテナルディエ夫婦は言っていた。
コゼットは、地元では「アルーエット」と呼ばれていました。アルーエットとはひばりのことです。しかしそれは決してひばりのように明るくさえずるからではなく、ひばりくらいの大きさしかないのに、誰よりも早く起きて働いていたからです。歌わないひばり。大人の“レ・ミゼラブル”はともかくとしても、それが子どもの場合は、読むに耐えないものがあります。
しかし、そんなみじめな少女コゼットの元にも、やがて思いがけない幸福がやってきます。彼女に幸せを運んでくることになるジャン・ヴァルジャンは、その頃どこで何をしていたのでしょうか…。
第四編 委託は時に放棄となる(岩波文庫第1巻p.260~p.282)
「おもしろい狂言」から10ヶ月後…。哀れなファンティーヌは「二歳か三歳の女の児」を腕に抱いて、パリの近くモンフェルメイュに姿を現します。仕事を得るために、故郷のモントルイュ・スュール・メールに向かう途中でした。
「10ヶ月」と「二歳か三歳」。ユゴーの記述が間違っていないとすれば(間違っているはずないか)、二人がつき合っている時から子どもがいたということになりますね! てっきりトロミエスが去ってから子どもが産まれたものとばかり思いこんでいました。いったいぜんたい、トロミエスは娘がいたことを知っていたのでしょうか? 知っていたらあんな「狂言」をぶつなんてできなかったのではと思うのですが。
モンフェルメイュのとある飲食店の前に大きな荷馬車の車輪が放置されており、心棒から垂れ下がった鎖がちょうどブランコのようになっていました。そこで二人の幼い姉妹が遊んでいます。かたわらでは小さな赤ん坊を抱いた母親が調子はずれの恋歌を歌いながらそれを見守っています。「鎖の揺れるたびごとに、その気味悪い鉄輪は、怒りの叫び声にも似た鋭い音を立てた」。
と、そこへファンティーヌがやってきて声をかけます。それは、彼女の手に抱かれた娘コゼットの運命を決める出会いだったのです。鎖のブランコで娘たちを遊ばせていた母親は、料理店を営むテナルディエの「上さん」。ファンティーヌは見ず知らずの彼女に、コゼットをしばらく預かってもらえないかと頼み込みます。
「私は娘を国につれてゆくことができませんのです。そうしては仕事ができません。子供連れでは仕事の口が見つかりません。…私がお店の前を通りかかったのは神様のお引き合わせでございます。私はお子さんたちのあんなにかわゆくきれいで楽しそうなところを見まして、ほんとに心を取られてしまいました。あぁいいお母さんだ、そうだ、三人で姉妹のように見えるだろう、と思いました。…」
ファンティーヌの大いなる勘違い。しかし、女一人で子どもを育てるのは、今とは比較にならないほど大変な時代だったのでしょう。特に身よりもない天涯孤独のファンティーヌが働いて食べていくためには、子どもと一緒に暮らすことは無理だったのです。もちろん今のように子どもを預ける保育所が普及しているわけもない。ちなみに、世界最初の保育施設を作ったのは、フランス人オーベルリンという人で、1779年に「幼児保護所」(別名「編物学校」)を創設しています。ただこれは保育と言うより「託児」施設だったようです。労働する母親に代わって保育をすることを目的として作られた施設(保育所)のルーツを作ったのは、イギリスの社会主義者ロバート・オーウェン(1771~1858)です。産業革命のまっただ中、オーウェンは1817年に、労働者である母親に代わって貧しい家庭の乳幼児の保育をする施設を作っています(その名も「性格形成学院」)。また、ドイツの教育者フリードリヒ・フレーベル(1782~1852)は幼児のための教育施設を作り、KIndergartenと名付けました。これが世界最初の幼稚園です。日本で最初に幼稚園が開かれたのは意外と早く、1900(明治33)年に東京に創立された「二葉幼稚園」が最も古い歴史を持つのだそうです。
「考えてみる」と言ったテナルディエの上さんは、結局、店の奥で話を聞いていたらしい夫のとっさの入れ知恵もあり、月々の養育費7フラン×6ヶ月分+支度金15フラン、計57フランでコゼットを預かることを了承します。ファンティーヌは、翌朝、テナルディエ夫婦のもとに娘を置いて絶望のうちに出発していきます。
さて、子どもを預かることになったテナルディエ夫婦はいかなる人物であったか? ユゴーは、二人を外見も内面もきわめて悪辣な人物として描写しています。ジャン・ヴァルジャンがこの物語の「光」なら、まさにこの二人は「陰」の部分の象徴です。特に、夫の方は物語の最後の最後までしつこくジャンにとりついて離れない疫病神のような存在として描かれています。
テナルディエは、ワーテルローの戦いに参加した元兵士(そのことはのちに描かれますが、戦場で彼は物語の重要な伏線となるある出会いをするのです)で、今は経営の苦しい旅籠屋の主人。コゼットを預かるのと引き替えに手にした57フランは、さっそく借金の返済に充てられました。そればかりか、ファンティーヌから預かったコゼットの衣類を質に入れさらに60フランを手に入れますが、それもあっという間になくなってしまいます。金がなくなればコゼットはただの厄介者でしかありません。二人はコゼットに娘の古着を着せ、食べ物と言えば食い残ししか与えません。娘二人(エポニーヌとアゼルマ)も親を見習ってコゼットにつらくあたります。月7フランの養育費も12フラン、15フランとつり上げていき、そうして1年が過ぎ、3年が過ぎていきました。5歳にしてコゼットは完全にテナルディエ家の「女中」となります。
かつてミュージカル「レ・ミゼラブル」のポスターを飾ったコゼットの絵があります。体の2倍ほどもあるほうきを両手でしっかり持って掃除をするコゼット。これは岩波文庫版にも収められている挿し絵の1枚です(第1巻の表紙にも使われています)。裸足で、肩がもろ出しのボロを着て床にたまった水をほうきで掻き出しながら、あの目はどこを、誰を見ているのでしょうか?
もしその母親が、それらの三カ年の後にモンフェルメイュに帰ってきたとしても、もう自分の子供を見分けることはできなかっただろう。その家に到着した時にはあれほどかわゆく生き生きとしていたコゼットは、今はやせ衰えて青ざめていた。何ともいえない不安な表情をしていた。「陰険な子だ!」とテナルディエ夫婦は言っていた。
コゼットは、地元では「アルーエット」と呼ばれていました。アルーエットとはひばりのことです。しかしそれは決してひばりのように明るくさえずるからではなく、ひばりくらいの大きさしかないのに、誰よりも早く起きて働いていたからです。歌わないひばり。大人の“レ・ミゼラブル”はともかくとしても、それが子どもの場合は、読むに耐えないものがあります。
しかし、そんなみじめな少女コゼットの元にも、やがて思いがけない幸福がやってきます。彼女に幸せを運んでくることになるジャン・ヴァルジャンは、その頃どこで何をしていたのでしょうか…。
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