東野圭吾『容疑者Xの献身』の主人公である私立高校の数学教師石神が、「微分積分なんて一体何の役に立つんだよ。時間の無駄だろうが」と文句を言う生徒に対して、その生徒がバイクが好きなことを踏まえて、オートレースで微分積分が使われていると話すくだりがあります。
「いっておくが、俺が君たちに教えているのは、数学という世界のほんの入り口にすぎない。それがどこにあるかわからないんじゃ、中に入ることもできないからな。もちろん、嫌な者は中に入らなくていい。俺が試験をするのは、入り口の場所ぐらいはわかったかどうかを確認したいからだ」
まったく同感。将来の職業に何らかの形で結びつかない学校の授業なんて意味がないと思うのです。少なくとも、「この授業って将来どんな役に立つの?」という子どもたちの質問に、待ってました!と堂々と答えることができない教師はいらない。
「すべての教育は、キャリア教育であるべきである。」
1971年1月23日、全米中等学校長会年次大会の席上、当時の米連邦教育局長官マーランド(Sydney.p,Marland.jr.)が述べた言葉です。米国のキャリア教育は、この言葉から始まりました。
「アメリカ教育の最大の欠点は、学校長の教育姿勢であり、教育計画、教育内容の分化、陳腐化であり、教育成果の低下である。もっとも悲しむべきその例は、知的な教育と職業的な教育との分離である。それを改める第1段階として、われわれ教育者が、職業教育をVocational Educationというのをやめ、以後キャリア教育Career Educationということを提案する。」
マーランド長官は、こう述べた後で、「すべての教育は、キャリア教育であるべきである」と断言するのです。さらに彼は、
「教育者のすべての努力は、高卒後直ちに有益、完全な仕事に従事する生徒を育成したり、あるいは進学者のための適切な教育にむけられるべきである。」
「私たちが、今日、キャリア発達を語りあうときは、ある特定の仕事や訓練についてでなく、生涯を通じて進歩向上しようとする人々の能力をどう高めるかについて語りあっているのである。」
と語っています。(以上の引用は仙崎武他著『21世紀のキャリア開発』より)
米国でキャリア教育がこのような形で始まった背景には、青少年の失業率の悪化と非雇用の増大という表面的な社会問題のみならず、産業構造の複雑化、青少年の労働に対する価値観の変化といった「質的な背景」もありました。まるで現在の日本が抱えている問題と同じです。ここ2~3年、文部科学省がキャリア教育の推進を掲げるようになった背景には、まさに35年前の米国の状況ととてもよく似通った状況があるのです。
しかし、「キャリア教育」という言葉のとらえ方、解釈の仕方は、米国と日本では微妙に違うような気がしています。日本では、米国のように「職業教育」をキャリア教育と置き換えることはしていません。というより、「職業教育」という言い方自体が今の日本ではほとんど使われていません。
日本ではむしろ従来の「進路指導」をキャリア教育と置き換えているようなフシがあります。中学校では高校への、高校では就職や進学への、「次」のステップへの橋渡しがキャリア教育であると。これまで「進路指導」という言い方をしてきたけど、文部科学省もさかんに使ってることだし、なんかよくわからないけど「キャリア教育」と呼んでおくか…。
これは「すべての教育は、キャリア教育であるべきである」という考え方とはずいぶん違います。日本では、教育の中の「進路指導」という一部の教育活動のみがキャリア教育だととらえられていることが多い。
キャリア教育はもっと広くとらえていいと思っています。『容疑者Xの献身』の石神先生の言葉もキャリア教育だし、観光ボランティアガイドもキャリア教育だし、あいさつ運動もキャリア教育、朝の読書運動も、子ども会のキャンプもみんなキャリア教育です。
要は、将来の仕事、働き方、社会の中での自分の役割といったことを考えることにつながっているかどうか。子どもの教育に携わるすべての大人がそういう「意識」を持って子どもと接することこそ、「すべての教育は、キャリア教育である」と言えるのではないでしょうか。
今さかんに言われている「基礎学力の向上」にしても、キャリア教育によって達成することができます。学力の向上なんて、最終的には本人の「やる気」「意欲」によるのです。何のために勉強するのかを理解して勉強に向かうのとそうでない場合とでは、勉強に向かう意欲に雲泥の差があります。自分が将来どんな仕事をしたいのか、どんな夢を持っているのか。それが明確であればあるほど、勉強もがんばることができます。つまり、自分の志に向かうための「意味のある勉強」ができるのです。
「すべての教育はキャリア教育であるべきである」。これを少し言い換えて、「すべての教育はキャリア教育であるという意識を大人たちが持つ」。
このことが今の教育には必要なのではないかと思っています。
「いっておくが、俺が君たちに教えているのは、数学という世界のほんの入り口にすぎない。それがどこにあるかわからないんじゃ、中に入ることもできないからな。もちろん、嫌な者は中に入らなくていい。俺が試験をするのは、入り口の場所ぐらいはわかったかどうかを確認したいからだ」
まったく同感。将来の職業に何らかの形で結びつかない学校の授業なんて意味がないと思うのです。少なくとも、「この授業って将来どんな役に立つの?」という子どもたちの質問に、待ってました!と堂々と答えることができない教師はいらない。
「すべての教育は、キャリア教育であるべきである。」
1971年1月23日、全米中等学校長会年次大会の席上、当時の米連邦教育局長官マーランド(Sydney.p,Marland.jr.)が述べた言葉です。米国のキャリア教育は、この言葉から始まりました。
「アメリカ教育の最大の欠点は、学校長の教育姿勢であり、教育計画、教育内容の分化、陳腐化であり、教育成果の低下である。もっとも悲しむべきその例は、知的な教育と職業的な教育との分離である。それを改める第1段階として、われわれ教育者が、職業教育をVocational Educationというのをやめ、以後キャリア教育Career Educationということを提案する。」
マーランド長官は、こう述べた後で、「すべての教育は、キャリア教育であるべきである」と断言するのです。さらに彼は、
「教育者のすべての努力は、高卒後直ちに有益、完全な仕事に従事する生徒を育成したり、あるいは進学者のための適切な教育にむけられるべきである。」
「私たちが、今日、キャリア発達を語りあうときは、ある特定の仕事や訓練についてでなく、生涯を通じて進歩向上しようとする人々の能力をどう高めるかについて語りあっているのである。」
と語っています。(以上の引用は仙崎武他著『21世紀のキャリア開発』より)
米国でキャリア教育がこのような形で始まった背景には、青少年の失業率の悪化と非雇用の増大という表面的な社会問題のみならず、産業構造の複雑化、青少年の労働に対する価値観の変化といった「質的な背景」もありました。まるで現在の日本が抱えている問題と同じです。ここ2~3年、文部科学省がキャリア教育の推進を掲げるようになった背景には、まさに35年前の米国の状況ととてもよく似通った状況があるのです。
しかし、「キャリア教育」という言葉のとらえ方、解釈の仕方は、米国と日本では微妙に違うような気がしています。日本では、米国のように「職業教育」をキャリア教育と置き換えることはしていません。というより、「職業教育」という言い方自体が今の日本ではほとんど使われていません。
日本ではむしろ従来の「進路指導」をキャリア教育と置き換えているようなフシがあります。中学校では高校への、高校では就職や進学への、「次」のステップへの橋渡しがキャリア教育であると。これまで「進路指導」という言い方をしてきたけど、文部科学省もさかんに使ってることだし、なんかよくわからないけど「キャリア教育」と呼んでおくか…。
これは「すべての教育は、キャリア教育であるべきである」という考え方とはずいぶん違います。日本では、教育の中の「進路指導」という一部の教育活動のみがキャリア教育だととらえられていることが多い。
キャリア教育はもっと広くとらえていいと思っています。『容疑者Xの献身』の石神先生の言葉もキャリア教育だし、観光ボランティアガイドもキャリア教育だし、あいさつ運動もキャリア教育、朝の読書運動も、子ども会のキャンプもみんなキャリア教育です。
要は、将来の仕事、働き方、社会の中での自分の役割といったことを考えることにつながっているかどうか。子どもの教育に携わるすべての大人がそういう「意識」を持って子どもと接することこそ、「すべての教育は、キャリア教育である」と言えるのではないでしょうか。
今さかんに言われている「基礎学力の向上」にしても、キャリア教育によって達成することができます。学力の向上なんて、最終的には本人の「やる気」「意欲」によるのです。何のために勉強するのかを理解して勉強に向かうのとそうでない場合とでは、勉強に向かう意欲に雲泥の差があります。自分が将来どんな仕事をしたいのか、どんな夢を持っているのか。それが明確であればあるほど、勉強もがんばることができます。つまり、自分の志に向かうための「意味のある勉強」ができるのです。
「すべての教育はキャリア教育であるべきである」。これを少し言い換えて、「すべての教育はキャリア教育であるという意識を大人たちが持つ」。
このことが今の教育には必要なのではないかと思っています。
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