子どもによる「親殺し」事件が相次いでいます。
自分の親を殺すという行為は、人間にとって最大のタブーだと思っています。
歴史に登場する「親殺し」は、たいてい「権力」と絡んでいます。たとえば、親を殺して皇帝の座を奪う。ある意味で非常にわかりやすい構図とも言えます。殺す側の子どもは別に親を憎んでいるとは限りません。権力が欲しいだけなのですから。
しかし、昨今の日本の親殺しは、どうにも得体がしれません。それぞれの事件には事件の数だけ背景があるのは当然ですし、過去の事件では、親による虐待といった耐えがたい状況にあった子どもによる事件も見られます。しかし、多くの事件は、なにゆえに「殺す」という行為にまで至らなければならないのか、理解できないことが多い。勉強を厳しく強いられてた、進路のことでもめていた、父親と離婚したのが許せなかった…。当の子ども本人にとっては、どれも深刻な問題だったのでしょう。悩み抜いたのかもしれません。
それでも、なぜ「親を殺す」ことができるのか? そもそも、親「だから」殺したのか、それとも親「だけど」殺したのか。前者には計り知れない親子の愛憎が、後者には外見はともかく内面的には異常に乾き切った親子の関係が垣間見られるような気がします。いずれにしても、親を殺せる子ども、子どもに殺される親、何かが狂っているとしか言いようがありません。
殺された側を責めるのは、ルールに反することです。しかし、親殺しに限っては、殺された親にも責任があると思います。子どもが親殺しに至った「理由」として述べているような接し方しかできなかったからというわけではありません。「人を殺す」ことが人間として許されない行為であると教えなかったこと、最後の最後の線で踏みとどまることができない子どもに育てたこと、そして、親を殺すような子どもを育てたこと…。それらはすべて親の責任以外の何ものでもありません。学校のせいでも社会のせいでもありません。100%、親の責任です。
親殺し。殺した側も殺された側もどちらも浮かばれることのない、人間として最大のタブーです。
自分の親を殺すという行為は、人間にとって最大のタブーだと思っています。
歴史に登場する「親殺し」は、たいてい「権力」と絡んでいます。たとえば、親を殺して皇帝の座を奪う。ある意味で非常にわかりやすい構図とも言えます。殺す側の子どもは別に親を憎んでいるとは限りません。権力が欲しいだけなのですから。
しかし、昨今の日本の親殺しは、どうにも得体がしれません。それぞれの事件には事件の数だけ背景があるのは当然ですし、過去の事件では、親による虐待といった耐えがたい状況にあった子どもによる事件も見られます。しかし、多くの事件は、なにゆえに「殺す」という行為にまで至らなければならないのか、理解できないことが多い。勉強を厳しく強いられてた、進路のことでもめていた、父親と離婚したのが許せなかった…。当の子ども本人にとっては、どれも深刻な問題だったのでしょう。悩み抜いたのかもしれません。
それでも、なぜ「親を殺す」ことができるのか? そもそも、親「だから」殺したのか、それとも親「だけど」殺したのか。前者には計り知れない親子の愛憎が、後者には外見はともかく内面的には異常に乾き切った親子の関係が垣間見られるような気がします。いずれにしても、親を殺せる子ども、子どもに殺される親、何かが狂っているとしか言いようがありません。
殺された側を責めるのは、ルールに反することです。しかし、親殺しに限っては、殺された親にも責任があると思います。子どもが親殺しに至った「理由」として述べているような接し方しかできなかったからというわけではありません。「人を殺す」ことが人間として許されない行為であると教えなかったこと、最後の最後の線で踏みとどまることができない子どもに育てたこと、そして、親を殺すような子どもを育てたこと…。それらはすべて親の責任以外の何ものでもありません。学校のせいでも社会のせいでもありません。100%、親の責任です。
親殺し。殺した側も殺された側もどちらも浮かばれることのない、人間として最大のタブーです。
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