先日の札幌で、元・同僚と話したときに、夕張の話になりました。社会教育の関係部署の職員も退職する人が多いらしいということ、このままでは社会教育行政も機能しなくなるだろうということ…。
それでも、彼は、こんな時だからこそ、社会教育の真価が問われるのではないかと言う。戦後の「何もない」状態から公民館が生まれ、戦後社会教育の息吹が生じたように、財政破綻の結果、同じように「何もない」状態だからこそ、社会教育の本来の活動ができるのではないかと。
その発想には目が覚める思いがしました(酔っ払ってはいましたが)。なるほど、逆風をうまくとらえて、順風にしてしまおうというわけです。ほんと、「何もない」からこそ、逆に「何でもできる」のかもしれません。もちろんそのためには人の「知恵」とか「アイディア」が必要だと思いますが、かえってそういう時こそ、いい発想が生まれるのかもしれない。
残念ながら、市役所の中では彼の着想を実現するような雰囲気にはまだなっていないようですが、「社会教育」は何も行政だけのもではありません。本来、社会教育の特徴は、住民自身の活動の中で育まれてきたものです。社会教育行政は、住民の自主的で自治的な「社会教育活動」を補完するものにすぎなかったはず。それが行政の肥大化によって、本来住民が取り組んできたことを行政がどんどん吸い上げてしまい、結果として、住民の自治能力を奪ってしまったとも言えます。
行政が機能できなくなってしまったことは、もちろん反省すべき点はたくさんあるでしょうが、ここは嘆いてばかりいないで、住民自身が本来やってきたことを自分たちの手に「取り戻す」絶好のチャンスととらえることが必要でしょう。行政は、そんなやる気のある住民の背中をちょっとだけ押してあげるだけでいいのです。もしかしたら、社会教育の「夕張モデル」が逆に全国に発信できるかもしれません。
冷たい風の吹いていた札幌の夜、そんなことを考えていました。
それでも、彼は、こんな時だからこそ、社会教育の真価が問われるのではないかと言う。戦後の「何もない」状態から公民館が生まれ、戦後社会教育の息吹が生じたように、財政破綻の結果、同じように「何もない」状態だからこそ、社会教育の本来の活動ができるのではないかと。
その発想には目が覚める思いがしました(酔っ払ってはいましたが)。なるほど、逆風をうまくとらえて、順風にしてしまおうというわけです。ほんと、「何もない」からこそ、逆に「何でもできる」のかもしれません。もちろんそのためには人の「知恵」とか「アイディア」が必要だと思いますが、かえってそういう時こそ、いい発想が生まれるのかもしれない。
残念ながら、市役所の中では彼の着想を実現するような雰囲気にはまだなっていないようですが、「社会教育」は何も行政だけのもではありません。本来、社会教育の特徴は、住民自身の活動の中で育まれてきたものです。社会教育行政は、住民の自主的で自治的な「社会教育活動」を補完するものにすぎなかったはず。それが行政の肥大化によって、本来住民が取り組んできたことを行政がどんどん吸い上げてしまい、結果として、住民の自治能力を奪ってしまったとも言えます。
行政が機能できなくなってしまったことは、もちろん反省すべき点はたくさんあるでしょうが、ここは嘆いてばかりいないで、住民自身が本来やってきたことを自分たちの手に「取り戻す」絶好のチャンスととらえることが必要でしょう。行政は、そんなやる気のある住民の背中をちょっとだけ押してあげるだけでいいのです。もしかしたら、社会教育の「夕張モデル」が逆に全国に発信できるかもしれません。
冷たい風の吹いていた札幌の夜、そんなことを考えていました。
時々、のぞかせてもらっています。
もしかして「月刊社会教育3月号」をお読みになりましたか?夕張市のことを少し書かせてもらいました。この記事に関連するかなと思い、コメントを書いています。同じ思いです。そういう意識の人が増えてくれると嬉しいです。まだでしたら読んでみてください。
こんばんは。コメントありがとうございます。
3月号は残念ながらまだ読んでいません。ぜひ読ませていただきます。その折りには、また感想もUPしたいと思います。