昔、NHKで成人の日の恒例番組「青年の主張」というのがありました。中学生の頃、まじめな顔して見ていたものです。「主張」を発表するのは、高校生だったり「有職少年」(死語か!?)だったり就職浪人だったり。さすがに地方予選を勝ち抜いてきただけあって、どの人も、自らの体験と自分の意見を堂々と主張していたのを覚えています。涙あり笑いありのちょっと芝居がかった調子で。
私が当時不思議だったのは、いったいこの人たちはオトナなのだろうか、コドモなのだろうかということでした。オトナにしてははっきりもの言うし、コドモにしてはあまりにも分別くさい。どっちなんだろう?
橋本治がこんなことを書いています。
日本は原則として、「自分の頭でものを考えなくてもすんでいる」という国だから、「自分の頭でものを考えるのも自由」だし、「自分の頭でものを考えないのも自由」なのだ。つまり、この国では“考える”ということに関しての対立が、原則として起こらない。起こるとしたら、“対立”ではなく、“排除”が起こる──「あいつはものを考えられないバカだから仲間はずれにしよう」とか、「あいつはヘンなことを考えている気持悪いやつだから仲間はずれにしよう」とか。
オトナはコドモに対して、「そのくらい自分で考えなさい」と言います。コドモは正直ですから、一生懸命考える。そしておずおずと「自分の頭で考え」た意見を述べる。ところが、オトナは「そんなことしか考えられないの?」とにべもない…。親と子、教師と生徒、よくある光景ですが、考えなさいと言っているオトナ自身が実は何にも自分の頭で考えていない人間だったりします。自分のことはとりあえず会社が考えてくれるし、世間だってわからないことはいろいろ教えてくれる。コドモの将来は学校に任せてりゃいいし、テレビやインターネットから黙っていても知識や情報がわんさか入ってくるさ。
時折、自分の頭で考えたふりをすることもありますが、それはたいてい週刊誌の見出しやテレビの情報番組で仕入れた情報を勝手に加工しているだけで、自分自身じゃこれっぽっちも考えてない。
昔の拓郎の歌にもありました。「ひらひら」という曲です。
-喫茶店に行けば今日もまた
-見出し人間の群れが押し合いへし合い…
「自分の頭でものを考えない人」を拓郎はしっかり見抜き、「見出し人間」と呼びました。さすがですね。
コドモもたぶんだんだん見抜いていくのでしょう。このオトナは何にも考えてないオトナなんだということを。そして、コドモたちはオトナ受けする「答」を巧みに準備するようになるのです。
「青年の主張」で雄弁をふるっていた彼ら彼女らは、自分でものを考えるオトナだったのか、それとも「オトナ受け」するようコドモなりにしつらえることができるコドモだったのか。今でもよくわかりません。
私が当時不思議だったのは、いったいこの人たちはオトナなのだろうか、コドモなのだろうかということでした。オトナにしてははっきりもの言うし、コドモにしてはあまりにも分別くさい。どっちなんだろう?
橋本治がこんなことを書いています。
日本は原則として、「自分の頭でものを考えなくてもすんでいる」という国だから、「自分の頭でものを考えるのも自由」だし、「自分の頭でものを考えないのも自由」なのだ。つまり、この国では“考える”ということに関しての対立が、原則として起こらない。起こるとしたら、“対立”ではなく、“排除”が起こる──「あいつはものを考えられないバカだから仲間はずれにしよう」とか、「あいつはヘンなことを考えている気持悪いやつだから仲間はずれにしよう」とか。
オトナはコドモに対して、「そのくらい自分で考えなさい」と言います。コドモは正直ですから、一生懸命考える。そしておずおずと「自分の頭で考え」た意見を述べる。ところが、オトナは「そんなことしか考えられないの?」とにべもない…。親と子、教師と生徒、よくある光景ですが、考えなさいと言っているオトナ自身が実は何にも自分の頭で考えていない人間だったりします。自分のことはとりあえず会社が考えてくれるし、世間だってわからないことはいろいろ教えてくれる。コドモの将来は学校に任せてりゃいいし、テレビやインターネットから黙っていても知識や情報がわんさか入ってくるさ。
時折、自分の頭で考えたふりをすることもありますが、それはたいてい週刊誌の見出しやテレビの情報番組で仕入れた情報を勝手に加工しているだけで、自分自身じゃこれっぽっちも考えてない。
昔の拓郎の歌にもありました。「ひらひら」という曲です。
-喫茶店に行けば今日もまた
-見出し人間の群れが押し合いへし合い…
「自分の頭でものを考えない人」を拓郎はしっかり見抜き、「見出し人間」と呼びました。さすがですね。
コドモもたぶんだんだん見抜いていくのでしょう。このオトナは何にも考えてないオトナなんだということを。そして、コドモたちはオトナ受けする「答」を巧みに準備するようになるのです。
「青年の主張」で雄弁をふるっていた彼ら彼女らは、自分でものを考えるオトナだったのか、それとも「オトナ受け」するようコドモなりにしつらえることができるコドモだったのか。今でもよくわかりません。
自分の頭で考える習慣を身に着けるには小さいころからの訓練が必要なのではないでしょうか?
その基本中の基本は「挨拶」と「返事」だと思います。TPOにあわせて適切な挨拶をしたり、人の問いかけに対して自分の考えを的確に言葉にする習慣を身につけることが必要なのではないかと思います。
・・・ってなふうな躾は、自己主張することとわがままを通すことの区別の付かない親に求めるのは難しいかもしれません。(私もその一人かもしれない(汗))
(コメント、整理させていただきました。)
挨拶と返事。コミュニケーションの基本中の基本ですね。それを「しなきゃならない」と殊更に言わなければならないこと自体、社会が病んでいる証拠かもしれません。でも地道にやっていくしかありませんね。