大震災による死者・行方不明者がついに2万人を超えました。その数倍の人たちが、家族や友人を亡くして悲しみにくれているかと思うと、本当に胸がふさがれる思いがします。テレビで連日伝えられる遺族たちの姿は涙なくしてとても正視できません。
辛うじて生き延びた被災者の皆さんには、日本や世界各地からの支援が届けられています。阪神・淡路大震災をはじめ、これまで大災害で被災した経験のある人たちが、「あのつらさは経験した人でないと分からない」と言って募金活動などの支援を始めているというニュースにもじーんと来ました。人の痛みを共有できるというのは本当に素晴らしいことだと思います。
大震災の余波は、私たちの生活にも押し寄せています。ガソリン、灯油、食糧や生活用品など様々な物資の不足、節電の励行、様々な催しや会合の中止。被災地のことを考えれば、物資はそちら優先で当然だし、プロ野球のナイター中止とかネオンの停止なども節電して電力を被災地へという意味では正解。でも、いわゆる「自粛」ムードも相まって、イベントや行事、旅行の中止も相次ぐとなると、ん?とちょっと思う。今日の東奥日報にも出ていましたが、宿泊施設や飲食店では、予約のキャンセルが相次いでいるとのこと。これから歓送迎会シーズンで書き入れ時だというのに、ほとんど中止のようです。気の毒なことです。
4月に予定されている統一地方選挙では、青森県内では、八戸市が予定通りの実施にやや難色を示しているようです。もしやるとなれば不可能ではないというような微妙な意見ですが、市長は明らかに延期を望んでいるようです。片山総務大臣は、「物理的な条件がクリアされることが最優先」との見解。そりゃそうですね。投票所も確保できないような状態なら、選挙もできません。
「物理的な条件」、そこが大事なところだと思います。今、私たちは情緒的な「自粛」をしている時ではないのでは、と思うのです。とある被災者が語っていたそうです。「私たちのために一緒に悲しんでくれるのはうれしいが、笑いたいときは笑ってほしい。そこまで我慢されると逆に私たちも辛い」と。
悲しみを共有することはとても大切なことですが、私たちが今しなくてはいけないことは、できる支援にそれぞれが力を注ぎつつ、自分たちの生活をしっかり維持していくことなのではないでしょうか。たとえば、送別会・歓迎会というのは、職場での一つの節目としてとても大切な行事です。もちろん、被災地ではそれどころではないでしょう。物理的にも精神的にも不可能なことは十分承知しています。しかし、直接の被災者ではない私たちが「中止」しようとしているのは、物理的というよりも、精神的な負い目による理由のほうが大きいような気がします。参加者が「物理的に」出席できないような状態ならともかく、あるいは、会を中止してその分のお金を義援金に回すというなら話は別ですが、最も大きな理由は、ほとんどは、「こんな時に送別会や歓迎会などやって浮かれている場合ではない、不謹慎だ」といった情緒的なものです。
でも、こんな時だからこそ、私たちは、しっかり送別会・歓迎会を開催しなくてはいけないのではないのか。もちろん、被災地の復興と行方不明の方々の一刻も早い発見を祈り、犠牲者に黙祷を捧げ、被災者の思いを共有しつつ、私たちは去る人にお礼を述べ、来る人を温かく迎えなければならない。そういういつもの催しをあえて予定通りに開催すること自体が、復興支援にもつながるのではないでしょうか。どうしても「自粛」というなら、アルコール抜きだっていいし、何も歓送迎会そのものを一律に横に習えで中止することはないでしょう。
「自粛ムード」ってこわいですよね。みんなが一斉に「自粛」しなけりゃならないような切迫感。下手すりゃ「自粛する材料」探しまで始まってしまう。「自粛」しない輩は世間から白い目で見られるし。やれやれ。私たちが、被災者のことに思いを馳せ、自分のできる範囲の支援をしながら、あるいはちょっとずつ我慢をしながらも、できるだけ普通の生活を送ること。それが犠牲者や被災者の皆さんに対する「礼儀」というものではないでしょうか。
辛うじて生き延びた被災者の皆さんには、日本や世界各地からの支援が届けられています。阪神・淡路大震災をはじめ、これまで大災害で被災した経験のある人たちが、「あのつらさは経験した人でないと分からない」と言って募金活動などの支援を始めているというニュースにもじーんと来ました。人の痛みを共有できるというのは本当に素晴らしいことだと思います。
大震災の余波は、私たちの生活にも押し寄せています。ガソリン、灯油、食糧や生活用品など様々な物資の不足、節電の励行、様々な催しや会合の中止。被災地のことを考えれば、物資はそちら優先で当然だし、プロ野球のナイター中止とかネオンの停止なども節電して電力を被災地へという意味では正解。でも、いわゆる「自粛」ムードも相まって、イベントや行事、旅行の中止も相次ぐとなると、ん?とちょっと思う。今日の東奥日報にも出ていましたが、宿泊施設や飲食店では、予約のキャンセルが相次いでいるとのこと。これから歓送迎会シーズンで書き入れ時だというのに、ほとんど中止のようです。気の毒なことです。
4月に予定されている統一地方選挙では、青森県内では、八戸市が予定通りの実施にやや難色を示しているようです。もしやるとなれば不可能ではないというような微妙な意見ですが、市長は明らかに延期を望んでいるようです。片山総務大臣は、「物理的な条件がクリアされることが最優先」との見解。そりゃそうですね。投票所も確保できないような状態なら、選挙もできません。
「物理的な条件」、そこが大事なところだと思います。今、私たちは情緒的な「自粛」をしている時ではないのでは、と思うのです。とある被災者が語っていたそうです。「私たちのために一緒に悲しんでくれるのはうれしいが、笑いたいときは笑ってほしい。そこまで我慢されると逆に私たちも辛い」と。
悲しみを共有することはとても大切なことですが、私たちが今しなくてはいけないことは、できる支援にそれぞれが力を注ぎつつ、自分たちの生活をしっかり維持していくことなのではないでしょうか。たとえば、送別会・歓迎会というのは、職場での一つの節目としてとても大切な行事です。もちろん、被災地ではそれどころではないでしょう。物理的にも精神的にも不可能なことは十分承知しています。しかし、直接の被災者ではない私たちが「中止」しようとしているのは、物理的というよりも、精神的な負い目による理由のほうが大きいような気がします。参加者が「物理的に」出席できないような状態ならともかく、あるいは、会を中止してその分のお金を義援金に回すというなら話は別ですが、最も大きな理由は、ほとんどは、「こんな時に送別会や歓迎会などやって浮かれている場合ではない、不謹慎だ」といった情緒的なものです。
でも、こんな時だからこそ、私たちは、しっかり送別会・歓迎会を開催しなくてはいけないのではないのか。もちろん、被災地の復興と行方不明の方々の一刻も早い発見を祈り、犠牲者に黙祷を捧げ、被災者の思いを共有しつつ、私たちは去る人にお礼を述べ、来る人を温かく迎えなければならない。そういういつもの催しをあえて予定通りに開催すること自体が、復興支援にもつながるのではないでしょうか。どうしても「自粛」というなら、アルコール抜きだっていいし、何も歓送迎会そのものを一律に横に習えで中止することはないでしょう。
「自粛ムード」ってこわいですよね。みんなが一斉に「自粛」しなけりゃならないような切迫感。下手すりゃ「自粛する材料」探しまで始まってしまう。「自粛」しない輩は世間から白い目で見られるし。やれやれ。私たちが、被災者のことに思いを馳せ、自分のできる範囲の支援をしながら、あるいはちょっとずつ我慢をしながらも、できるだけ普通の生活を送ること。それが犠牲者や被災者の皆さんに対する「礼儀」というものではないでしょうか。
If we hold on together.
合意を得るには、学年委員長としてさぞかし困難を極めたことと思いますが、何かをしたいという皆さんの思いが集約して、そのような結果に至ったのでしょうね。
私たちも、見習いたいものです。