2008年/日本/237分
【監督・原案・脚本】 園子温
【主題歌】 ゆらゆら帝国
【出演】 西島隆弘/角田ユウ 満島ひかり/ヨーコ 安藤サクラ/コイケ 渡辺真起子/サオリ 渡部篤郎/角田テツ
(C) 愛のむきだしフィルムパートナーズ
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東北・関東を襲った未曾有の大災害を見るにつけ、やっぱりこういうときに大切なのは「愛」だろうと思う。ちょっとクサイけど、世界中から向けられる惜しみない「愛」こそが、犠牲者の鎮魂と被災者の救援につながる。根底にあるのは「愛」。
この映画、レビューするつもりはなかったのですが、今回の大震災を経て、やはり触れておきたいと思いました。
しかし、何なんだろう、このインパクトありすぎのタイトル、「愛のむきだし」とは。タイトルだけに惹かれて見る、という映画も滅多にない。というわけで、4時間、この映画につきあってしまったのですが(といっても、もちろんDVDです)、人によっては、4時間の映画といっても、内容はテレビドラマの4回分でしかない、という人もいるわけで、まあともかくも4時間飽きさせないで見られたのは主演の二人(西島隆弘、満島ひかり)のイキのいい演技力によるところが大きい。
西島隆弘は、大晦日の紅白にも出ていた何とかいうグループのボーカル。それは映画を見てから知ったのですが、映画では、表情豊かで、身のこなしが軽やかで、大まじめに「盗撮」のポーズを演ずる姿もキマってた。
「悪役」・コイケを演じる安藤サクラも、すごいんです。この女優はきっと大物になります。「殯(もがり)の森」にも出ていた渡辺真起子も脇役ながらすごい存在感。渡部篤郎も予想どおりの一筋縄ではいかない人物を演じきっています。そういうクセのある俳優陣の中で、主演の二人はひたすらイキの良さで勝負、といったところでしょうか。
カトリック、盗撮、新興宗教、性欲、家族の絆、学校…いろんな話題がぐちゃぐちゃとテンコ盛りの映画で、特に前半はまるでギャグ漫画を読んでいるかのようなおよそリアリティのない展開が続きます。後半になると、この映画のテーマである「愛とは何か」に向けて収束していくような予感はあるものの、逆にその頃になると、いったいこの映画、最後はどうやって終わるのか、見当がつかなくなってくる。
「ユウ」の「マリア」への想い、「ヨ―コ」への想い。このヨーコを演じる満島ひかりって、不思議な女優ですね。ユウじゃないけど、まさにマリア様そっくりの慈悲深い表情を見せたかと思うと、一瞬にして、汚い言葉を吐き散らかすはすっぱな女の子にもなれる。
新興宗教に入信したヨーコを「こちらの世界」に引き戻すべく、ユウはヨーコを海岸に捨てられた廃バスに監禁する。逃げようとするヨーコが、砂浜でユウに馬乗りになって、突然叫び出す。「お前は、コリント書の第13章を知っているか?」 そこは、この長い映画でも、一番印象に残るシーンです。
たとえ、人間の不思議な言葉、天使の不思議な言葉を話しても
愛がなければ、私は鳴るドラ、響くシンバル
たとえ、預言の賜があり、あらゆる神秘、あらゆる知識に通じていても、
愛がなければ、私は何者でもない
たとえ、全財産を貧しい人に分け与え、たとえ、賞賛を受けるため自分の身を引き渡しても、
愛がなければ私には何の益にもならない
愛は寛容なもの、慈悲深いものは愛。愛は妬まず高ぶらず誇らない
見苦しいふるまいをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪事を数えたてない
愛は決して滅び去ることはない
預言の賜なら廃りもしよう、不思議な言葉ならやみもしよう、知識ならば無用となりもしよう
我々が知るのは一部分、また預言するのも一部分であるがゆえに、
完全なものが到来するときには部分的なものは廃れ去る
私は幼い子どもであった時、幼い子どものように語り、幼い子どものように考え、幼い子どものように思いを巡らした
ただ、一人前の者になったとき、幼い子どものことはやめにした
我々が今見ているのは、ぼんやりと鏡に映っているもの
その時に見るのは、顔と顔を合わせてのもの
私が今知っているのは一部分
その時には、自分がすでに完全に知られているように、私は完全に知るようになる
だから、引き続き残るのは、信仰、希望、愛、この3つ
このうちもっとも優れているのは、愛
これだけのセリフを、満島は鬼気迫る表情で一気にまくしたてる。そして、「こんなセンテンスも知らないくせに」とヨーコはユウを突き放す。
「コリントの書」(「コリントの信徒への手紙」)は、使徒パウロがギリシアのコリントの教会の共同体に宛てて書いた手紙と言われています。悩めるコリント人に対して、パウロは、16章にわたって彼らの疑問に答えていく。中でもこの第13章は、「至上の愛(Supremacy of Love)」とか「愛の賛歌」と呼ばれる最も有名な部分ですね。本来は、「叫ぶ」ところではなくて、静かに語りかけるところなのでしょうが、「愛のむきだし」ならば、やはり叫ぶように読むのが正解かもしれません。特に、ヨーコが叫ぶ最後の部分、「だから、引き続き残るのは、信仰、希望、愛、この3つ/このうちもっとも優れているのは、愛」のくだりは、何度でもリピートしたくなる。
「愛がなければなにものでもない」。それはキリスト教の最も本質的な部分です。この章に出てくる「愛」という言葉を「キリスト」と置き換えて読んでも全く差し支えないでしょう。
それにしても。愛は「むきだし」にしてこそ、意味があるのか? 決してそうは思いませんが、時には「むきだし」の自分をさらけ出すことがあってもいいんじゃないのかな? 草食系、なんて言ってる場合じゃない。ユウのように、心の底から全身全霊で人を愛せるということも、人として大切なことですよね。
ただ、「むきだされた愛」を相手がどう受け止めるかは、それは別の話。特に最近は、むきだしにすることをよしとしない風潮もありますから…。そんな中で、あえてこんな映画を世に問うた円子監督はやはりただものではないらしい。
見苦しいふるまいをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪事を数えたてない
今、被災者の皆さんだけでなく、私たちでさえ、明らかに「非日常」の局面に立っています。今こそ、このフレーズを胸に刻みたい。そして、果てしない「愛」の力で、復活の道を共に歩みたい。
【監督・原案・脚本】 園子温
【主題歌】 ゆらゆら帝国
【出演】 西島隆弘/角田ユウ 満島ひかり/ヨーコ 安藤サクラ/コイケ 渡辺真起子/サオリ 渡部篤郎/角田テツ
(C) 愛のむきだしフィルムパートナーズ
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東北・関東を襲った未曾有の大災害を見るにつけ、やっぱりこういうときに大切なのは「愛」だろうと思う。ちょっとクサイけど、世界中から向けられる惜しみない「愛」こそが、犠牲者の鎮魂と被災者の救援につながる。根底にあるのは「愛」。
この映画、レビューするつもりはなかったのですが、今回の大震災を経て、やはり触れておきたいと思いました。
しかし、何なんだろう、このインパクトありすぎのタイトル、「愛のむきだし」とは。タイトルだけに惹かれて見る、という映画も滅多にない。というわけで、4時間、この映画につきあってしまったのですが(といっても、もちろんDVDです)、人によっては、4時間の映画といっても、内容はテレビドラマの4回分でしかない、という人もいるわけで、まあともかくも4時間飽きさせないで見られたのは主演の二人(西島隆弘、満島ひかり)のイキのいい演技力によるところが大きい。
西島隆弘は、大晦日の紅白にも出ていた何とかいうグループのボーカル。それは映画を見てから知ったのですが、映画では、表情豊かで、身のこなしが軽やかで、大まじめに「盗撮」のポーズを演ずる姿もキマってた。
「悪役」・コイケを演じる安藤サクラも、すごいんです。この女優はきっと大物になります。「殯(もがり)の森」にも出ていた渡辺真起子も脇役ながらすごい存在感。渡部篤郎も予想どおりの一筋縄ではいかない人物を演じきっています。そういうクセのある俳優陣の中で、主演の二人はひたすらイキの良さで勝負、といったところでしょうか。
カトリック、盗撮、新興宗教、性欲、家族の絆、学校…いろんな話題がぐちゃぐちゃとテンコ盛りの映画で、特に前半はまるでギャグ漫画を読んでいるかのようなおよそリアリティのない展開が続きます。後半になると、この映画のテーマである「愛とは何か」に向けて収束していくような予感はあるものの、逆にその頃になると、いったいこの映画、最後はどうやって終わるのか、見当がつかなくなってくる。
「ユウ」の「マリア」への想い、「ヨ―コ」への想い。このヨーコを演じる満島ひかりって、不思議な女優ですね。ユウじゃないけど、まさにマリア様そっくりの慈悲深い表情を見せたかと思うと、一瞬にして、汚い言葉を吐き散らかすはすっぱな女の子にもなれる。
新興宗教に入信したヨーコを「こちらの世界」に引き戻すべく、ユウはヨーコを海岸に捨てられた廃バスに監禁する。逃げようとするヨーコが、砂浜でユウに馬乗りになって、突然叫び出す。「お前は、コリント書の第13章を知っているか?」 そこは、この長い映画でも、一番印象に残るシーンです。
たとえ、人間の不思議な言葉、天使の不思議な言葉を話しても
愛がなければ、私は鳴るドラ、響くシンバル
たとえ、預言の賜があり、あらゆる神秘、あらゆる知識に通じていても、
愛がなければ、私は何者でもない
たとえ、全財産を貧しい人に分け与え、たとえ、賞賛を受けるため自分の身を引き渡しても、
愛がなければ私には何の益にもならない
愛は寛容なもの、慈悲深いものは愛。愛は妬まず高ぶらず誇らない
見苦しいふるまいをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪事を数えたてない
愛は決して滅び去ることはない
預言の賜なら廃りもしよう、不思議な言葉ならやみもしよう、知識ならば無用となりもしよう
我々が知るのは一部分、また預言するのも一部分であるがゆえに、
完全なものが到来するときには部分的なものは廃れ去る
私は幼い子どもであった時、幼い子どものように語り、幼い子どものように考え、幼い子どものように思いを巡らした
ただ、一人前の者になったとき、幼い子どものことはやめにした
我々が今見ているのは、ぼんやりと鏡に映っているもの
その時に見るのは、顔と顔を合わせてのもの
私が今知っているのは一部分
その時には、自分がすでに完全に知られているように、私は完全に知るようになる
だから、引き続き残るのは、信仰、希望、愛、この3つ
このうちもっとも優れているのは、愛
これだけのセリフを、満島は鬼気迫る表情で一気にまくしたてる。そして、「こんなセンテンスも知らないくせに」とヨーコはユウを突き放す。
「コリントの書」(「コリントの信徒への手紙」)は、使徒パウロがギリシアのコリントの教会の共同体に宛てて書いた手紙と言われています。悩めるコリント人に対して、パウロは、16章にわたって彼らの疑問に答えていく。中でもこの第13章は、「至上の愛(Supremacy of Love)」とか「愛の賛歌」と呼ばれる最も有名な部分ですね。本来は、「叫ぶ」ところではなくて、静かに語りかけるところなのでしょうが、「愛のむきだし」ならば、やはり叫ぶように読むのが正解かもしれません。特に、ヨーコが叫ぶ最後の部分、「だから、引き続き残るのは、信仰、希望、愛、この3つ/このうちもっとも優れているのは、愛」のくだりは、何度でもリピートしたくなる。
「愛がなければなにものでもない」。それはキリスト教の最も本質的な部分です。この章に出てくる「愛」という言葉を「キリスト」と置き換えて読んでも全く差し支えないでしょう。
それにしても。愛は「むきだし」にしてこそ、意味があるのか? 決してそうは思いませんが、時には「むきだし」の自分をさらけ出すことがあってもいいんじゃないのかな? 草食系、なんて言ってる場合じゃない。ユウのように、心の底から全身全霊で人を愛せるということも、人として大切なことですよね。
ただ、「むきだされた愛」を相手がどう受け止めるかは、それは別の話。特に最近は、むきだしにすることをよしとしない風潮もありますから…。そんな中で、あえてこんな映画を世に問うた円子監督はやはりただものではないらしい。
見苦しいふるまいをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪事を数えたてない
今、被災者の皆さんだけでなく、私たちでさえ、明らかに「非日常」の局面に立っています。今こそ、このフレーズを胸に刻みたい。そして、果てしない「愛」の力で、復活の道を共に歩みたい。
この映画、わたしも見たのですが感想を言葉にすることができず、レビューは書けずにいたんです。
コリントのくだりがとても好きで何回も繰り返し見てしまいました。
あのシーンでは、ヨーコが叫ぶように言うからこそ、心に訴えるものがありますね。
4時間、飽きるかなあと思ったら引きつけられちゃいました。
愛は「むきだし」にしてこそ、意味があるのか?と問われれば、わたしもそうは思いません。
でも、いざとなればむきだしにできるような愛を秘めていたいな、ユウが羨ましいなと思いました。
何となく堂々と人に勧められないのもあり、秘めていた映画だったのですが、
すてきなレビューを書いて下さってありがとうございます♪
コメントいただきありがとうございます。
推測ですが、たぶん、同じ感覚でこの映画を見られたのかなと思います。そういう方がいることがとてもうれしい。
「何となく堂々と人に勧められないのもあり」というところ、笑ってしまいました。確かにそのとおりです!
円子監督の「冷たい熱帯魚」も見たいと思っています。