米国に渡る前、野茂投手は、近鉄バファローズのエースでした。バファローズが優勝したのが1989年、その年のドラフトで仰木監督がくじで引き当てたのが野茂でした。1990~94年の5年間で計78勝、奪った三振1,204個。ところが、彼は日本式の「根性野球」や管理主義に反発を覚えるようになっていきます。高校、社会人と、あの独特の投球フォームを「矯正」されなかったことが「野茂投手」を作り上げてきたわけですが、プロ選手になって、別の意味のしがらみに戸惑うこともあったようです。
背番号11の勇姿を、私も何度か球場で見ていますが、やっぱり初めて「トルネード」を見た秋田・八橋球場でのマウンドが目に焼き付いています。三振も取るけど、四球も多い、そんな印象を受けましたが、彼は「客を呼べる選手」だう印象を強く受けました。自分の投げる姿を見に大勢のファンが球場にやってくる、それは選手冥利に尽きることでしょう。
移籍をめぐるすったもんだの末、米国に渡って、"Nomo"になってから、彼はますます成長したように思えます。というより、きっと、大リーグのチームと観客が"Nomo"をさらに大きく育てたのです。彼のような投手は、「のびのび」やってもらうのが一番で、バファローズにいなくなるのは、とても寂しいことでしたが、余計なしがらみのない環境が、彼にとってはとてもよかったのではと思っていました。
どの時代、どの世界にも、開拓者、パイオニアと呼ばれる人はいる。「日本人大リーガー」という世界では、それは紛れもなく野茂投手です。彼が挑戦していなかったら、イチローでさえ大リーグに行っていなかったかもしれない。
でも、野茂投手の場合、「パイオニア」と呼ばれるのは、あくまでも「結果」に過ぎません。彼の足跡、キャリアが結果的に「開拓者」の名にふさわしい、というだけで、野茂自身にはそういう気負いはさらさらなかったことでしょう。イチローもある意味で「パイオニア」ですが、彼の場合は、クールに見えて、実は、自分が切り拓くんだ、という熱い思いがあったように思えてなりません。その通りに結果を残しているのは、さすがとしか言いようがありませんが。
パイオニア・スピリッツは、むき出しにするのもいいし、もともとそんなの関係ないとかわすのもよし、あるいは内に秘めるのもいいでしょう。結局は、その人の個性や考え方によります。いずれにしても、「パイオニアかどうか」は、積み重ねた「キャリア」が証明してくれるだけです。
背番号11の勇姿を、私も何度か球場で見ていますが、やっぱり初めて「トルネード」を見た秋田・八橋球場でのマウンドが目に焼き付いています。三振も取るけど、四球も多い、そんな印象を受けましたが、彼は「客を呼べる選手」だう印象を強く受けました。自分の投げる姿を見に大勢のファンが球場にやってくる、それは選手冥利に尽きることでしょう。
移籍をめぐるすったもんだの末、米国に渡って、"Nomo"になってから、彼はますます成長したように思えます。というより、きっと、大リーグのチームと観客が"Nomo"をさらに大きく育てたのです。彼のような投手は、「のびのび」やってもらうのが一番で、バファローズにいなくなるのは、とても寂しいことでしたが、余計なしがらみのない環境が、彼にとってはとてもよかったのではと思っていました。
どの時代、どの世界にも、開拓者、パイオニアと呼ばれる人はいる。「日本人大リーガー」という世界では、それは紛れもなく野茂投手です。彼が挑戦していなかったら、イチローでさえ大リーグに行っていなかったかもしれない。
でも、野茂投手の場合、「パイオニア」と呼ばれるのは、あくまでも「結果」に過ぎません。彼の足跡、キャリアが結果的に「開拓者」の名にふさわしい、というだけで、野茂自身にはそういう気負いはさらさらなかったことでしょう。イチローもある意味で「パイオニア」ですが、彼の場合は、クールに見えて、実は、自分が切り拓くんだ、という熱い思いがあったように思えてなりません。その通りに結果を残しているのは、さすがとしか言いようがありませんが。
パイオニア・スピリッツは、むき出しにするのもいいし、もともとそんなの関係ないとかわすのもよし、あるいは内に秘めるのもいいでしょう。結局は、その人の個性や考え方によります。いずれにしても、「パイオニアかどうか」は、積み重ねた「キャリア」が証明してくれるだけです。
本当にいい決断をしてくれたもんだなあと、今も思います。S監督があのまま投げさせていたら、野茂は永遠に日本から出られなかったかもしれないのですから。まあ、礼を言うほどでないのは明らかですけれどね。