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カクレマショウ

やっぴBLOG

「チャロー!インディア」(その1)─インド的な、あまりにもインド的な。

2009-02-13 | ■美術/博物
ヒンドゥー教は、「インド教」。「宗教」というより、インドの風習、文化そのものです。たとえば、日本に住んでいる日本人がヒンドゥー教徒になることはきわめてむずかしい。というより、インドに住んでいない人間は、ヒンドゥー教徒にはなれっこない。

「インド現代美術」も、ヒンドゥー教と同じだなと、六本木ヒルズの森美術館で開催中の「チャロー!インディア:インド美術の新時代」を見て思いました。インドの現代美術は、インドの社会や習慣と切り離しては存在しえない。どの作品を見ても、「インド」を感じさせる。「現代美術」はどちらかというと、どんどんグローバルになっていて、作者が日本人だろうがフランス人だろうが韓国人だろうが、その作品を見ただけではほとんど見分けがつきません。

その点、インドのアーティストたちは、どこまでもインドに寄り添っています。福岡アジア美術館で見た作品を思い出してみると、もしかしたら、インドだけでなく、東南アジアのアーティストもそうかもしれません。

「チャロー!インディア」というのは、「行こうよ!インドへ」という意味だそうです。インドに根ざした創作活動を展開している27組のアーティストたちの、それぞれに個性ある絵画あり、写真あり、彫刻あり、インスタレーション(ある一定のスペース全体を作品として見せるアート)ありで、「ごった煮」状態。めまいがしそうなくらいの色彩と形状の力。

でも、どの作品も、最高に面白い。思わず一人でニヤけてしまう。どこからこんな発想が出てくるんだと思う。そして、すべて見終わった時にやっと気づく。これはすべて、「インド」なんだと!

急激な経済成長と「IT大国」の名をほしいままにしている最近のインドですが、しかし、その裏には、カーストによる身分差別が依然として残り、貧富の格差(日本の「格差」なんて問題じゃないくらい)、さらにヒンドゥー対イスラムの宗教対立が存在します。そうした社会に対する民衆の不満も鬱積していて、時に暴動やテロといった形で表面化する。そうした諸々の「インド」が、この作品にもあの作品にも満ちあふれているのです。



入場していきなりガツンと来るのが、バールティ・ケールという女性アーティストによる《その皮膚は己の言語ではない言葉を語る》(2006年)という作品。うつろな目をした瀕死の雌象。布でできたその皮膚は、よく見ると無数の精子の模様になっている。図録によれば、これは、ビンディー(ヒンドゥー教の既婚女性が額につける装飾物)をかたどったものだという。精子に覆われる雌象。あまりにも象徴的です。



衝撃は続く。グラームモハンマド・シェイクの《カーヴァド:旅する聖堂(旅路)》(2002-04年)と《カーヴァド:旅する聖堂(家)》(2008年)。カーヴァドとは、持ち運びのできる"礼拝堂"。いわば厨子(ずし)です。彼は、このカーヴァドを舞台に、インドの宗教観や世界観を自由奔放に描き出しています。二つのカーヴァドのうち、「旅路」の方は文字通り折りたたみ式のコンパクトサイズですが、「家」の方は、私たちが中を通り抜けられるほど巨大なサイズ。その壁一面に、詩人や瞑想者、ヨーガ行者といった人物とともに、現代の都市の光景を切り取った写真や空を舞う天使や鳥たちの姿など、世俗・今昔入り乱れた不思議な世界が描かれています。こんな作品、インドでなければ作り出せない。

「創造と破壊:都市の風景」と名付けられたコーナーでは、ムンバイやデリーといったインドの大都市の生み出す混沌が様々な形で表現されています。たとえば、ヘマ・ウパディヤイの《静かなる移動》(2008年)は、ムンバイのスラム街をイメージ的な立体模型に表した作品です。ゴミ捨て場から拾ってきた廃棄物を素材にして作った貧民の家々が、ほとんど隙間なくびっしり立ち並ぶ。ところどころに思い出したようにそびえるカラフルな高層ビルは、このスラム街の未来を象徴しているかのようです。壁に立てかけられたこの作品の背景には、六本木のビル街が窓越しに見えます。この展示方法には心動かされました。スラム街の「静かな」、だけど確かに人が息づいている世界に対して、東京の街並みが、まるで不気味に見えたのは気のせいでしょうか。

展示方法といえば、この展覧会では、部屋ごとに配置されているスタッフの椅子もまた作品の一つだという。基本型は守りつつも、どこかで少しずつ違っている椅子と、その周辺に配置された物たちのコンビネーションが美しい。どの展覧会でも、素晴らしい芸術作品が並ぶ展示室にあって、パイプ椅子だけが浮いている印象を持つこともしばしばですが、この展覧会ではそういう違和感は一切ありません。いや、作品(インスタレーション)を構成しているのは椅子だけではありません。椅子に座るスタッフも含めて「アート」なのだそうです。…そうは言われても、さすがに「見られる」ことが気恥ずかしいのか、椅子に座っていないスタッフも多かったような気がしますけどね。

「チャロー!インディア」。このワクワクするような展覧会には、まだまだ触れたい作品がたくさんありました。改めて、少しずつ紹介していくことにします。


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4 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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あれ……上京されていたですか? (平井)
2009-02-14 03:38:30
何年ぶりになりますか。平井です。

「チャロー!インディア」をご覧になられている、ということは上京されていたのでしょうか?

「チャロー!インディア」
何となく響きがいいですよね。

私はまだ見ていないのですが、六本木とは縁があるので、耳にはしています。

私の同僚がアートな人で、こんな記事を書いていました(私は校正担当です)
http://roppongi.keizai.biz/headline/1673/

寒い日が続きますが、お体を大切に。。。
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なつかしい (なおちゃん)
2009-02-14 19:07:58
お久しぶりです。ときどき読ませていただいてます。

20年位前にバングラデシュのブラモンバリア(バラモンの家のあるところ、という意味)という町にいたことがあります。

イスラムが多数を占める国の中では比較的ヒンドゥーの多いところでした。プジャ(お祭り)では、歌や踊りや神様をかたどった人形の派手な飾りつけなどが楽しげで、この土地に根付いたものに思えました。

家ごとにヒンドゥー神話に出てくる神様が守護神としてあるようだったけれど、東南アジアに広まった頃は、その土地の守り神や魔物をヒンドゥー神話に読み替えて広まったのかな、と想像したりしてました。
神の下に人は平等である、というイスラムの誇らしさもわかるけど、文化習慣はなかなか捨てがたいですよね。
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時々ね… (やっぴ)
2009-02-15 01:31:51
平井くん

しばらくです。大都会・東京でご活躍のこととお察しします。近くなんだから、ぜひ行ってみてください。絶対おもしろいから。

記事も読ませていただきました。さすがプロの記者さんは書きぶりが違いますね。そうそう!と膝を打ちながら読みましたよ。
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ヒンドゥー教 (やっぴ)
2009-02-15 10:49:25
なおちゃんさん

昔読んだ、荒松雄の名著『ヒンドゥー教とイスラム教』(岩波新書)を引っ張り出してみたら、ヒンドゥー教徒になろうとしたあるオーストリア人の例を引き合いに出して、「ヒンドゥーの神を信じ、サンスクリット語をマスターしてその聖典に通じ、ヒンドゥー教徒にふさわしい生活を実践しても、それだけでは、ヒンドゥー教徒であることにはならない場合があるわけである。」というくだりがありました。「<ヒンドゥーの子に生れる>ことこそ、実はヒンドゥー教徒たる条件なのだと説明すれば、一番わかりやすいあろう。」

こういうのを読むと、ヒンドゥーって排他的なのねと思われますが、一方では、おっしゃるとおり、ヒンドゥーの神様は、インド以外の土地でも土着の神々と融合してますね。日本の七福神のいくつかもヒンドゥーの神様が起源といわれています。

インドの社会や生活に最も根ざしていながら、普遍性のある神々を持つヒンドゥー教。おもしろいですね。
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