モンゴル人は死体を葬る際に馬を一緒に埋めるという話を聞いたことがあります。地上には何も目印を建てておかなくても、埋められた馬の子を引いて近くまで行くと、親馬の匂いでちゃんと墓の場所がわかるというしくみなんだそうです。真偽のほどは明らかではありませんが、この話、いかにも草原に生きるモンゴル民族らしくはないですか?
日本・モンゴル合同調査団が、チンギスハンをまつった霊廟と見られる跡を発見しました。「霊廟」というのは、「墓所」とは別に偉大な人物の霊をまつるために建てられたものです。今回調査が行われたアウラガ遺跡は、チンギスハンの宮殿「大オルド」と見られており、その一角に霊をまつる儀式が行われた痕跡が発見されたということです。
チンギスハンの墓は、盗掘を避けるために、地上には痕跡を残さないで作られたと言われています。その所在地については世界史上の大きな謎とされてきました。今回の霊廟発見は、チンギスハーンの陵墓の在りかを探る大きな手がかりになりそうです。
チンギスハン(1162?-1227、幼名テムジン)は、1206年にモンゴル高原の諸部族を統一して「ハン」(皇帝)と称しました。彼の死後、息子や孫たちが騎馬軍団を率いて中国やロシア、西アジアなどに次々に遠征しては領土を拡大し、ユーラシア大陸全体にわたる大モンゴル帝国が築かれるのです。中国に元を建国したフビライハンは、チンギスハンの孫にあたります。
モンゴル人の人間社会のとらえ方として、「ホイ・イン・イルゲン(森の民)」、「ケーリン・イルゲン(ステップの民、草原の民)」、「バラガト・イルゲン(商人、農民」という分け方があります。そして、商売や農業をするために1カ所に定住生活をする人間に対して、馬に乗って家畜を追いながら遊牧生活を送る人間がもっとも優れていると考えていました。つまり、彼らは「お前のような奴は一生自分の糞尿の臭いでもかいでいろ!」(モンゴル最大級の罵り言葉)と唾棄されるような定住生活ではなく、自分たち遊牧民の生活スタイルに最も高い価値を置いていたと言えます。そのような誇り高さがあったからこそ、中国やイスラムといった高い文化圏に接しても決して卑屈になることなく支配できたのではないかと思います。
ところで、今回の調査団の総隊長を務める加藤晋平氏は、1990~91年にもチンギスハンの陵墓を探る調査に参加しています。加藤氏は、中国の史書などの記述から、チンギスハンが埋葬された場所は、モンゴル東部を流れるヘルレン川流域であるとみていましたが、今回霊廟が発見された「アウラガ遺跡」もまさにその地域に位置しています。調査団は、アウラガ遺跡から半径12kmの範囲内に陵墓があるとみて、さらに調査を続けるとのことです。世界史上の大きな謎が一つ解ける日も近いのかもしれません。
チンギスハンの墓にどんなものが埋められているのか、もちろん興味は尽きませんが、ただ、場所さえ判明したら、下手に発掘などせず、そっと眠らせておいてほしいような気もしますね。
日本・モンゴル合同調査団が、チンギスハンをまつった霊廟と見られる跡を発見しました。「霊廟」というのは、「墓所」とは別に偉大な人物の霊をまつるために建てられたものです。今回調査が行われたアウラガ遺跡は、チンギスハンの宮殿「大オルド」と見られており、その一角に霊をまつる儀式が行われた痕跡が発見されたということです。
チンギスハンの墓は、盗掘を避けるために、地上には痕跡を残さないで作られたと言われています。その所在地については世界史上の大きな謎とされてきました。今回の霊廟発見は、チンギスハーンの陵墓の在りかを探る大きな手がかりになりそうです。
チンギスハン(1162?-1227、幼名テムジン)は、1206年にモンゴル高原の諸部族を統一して「ハン」(皇帝)と称しました。彼の死後、息子や孫たちが騎馬軍団を率いて中国やロシア、西アジアなどに次々に遠征しては領土を拡大し、ユーラシア大陸全体にわたる大モンゴル帝国が築かれるのです。中国に元を建国したフビライハンは、チンギスハンの孫にあたります。
モンゴル人の人間社会のとらえ方として、「ホイ・イン・イルゲン(森の民)」、「ケーリン・イルゲン(ステップの民、草原の民)」、「バラガト・イルゲン(商人、農民」という分け方があります。そして、商売や農業をするために1カ所に定住生活をする人間に対して、馬に乗って家畜を追いながら遊牧生活を送る人間がもっとも優れていると考えていました。つまり、彼らは「お前のような奴は一生自分の糞尿の臭いでもかいでいろ!」(モンゴル最大級の罵り言葉)と唾棄されるような定住生活ではなく、自分たち遊牧民の生活スタイルに最も高い価値を置いていたと言えます。そのような誇り高さがあったからこそ、中国やイスラムといった高い文化圏に接しても決して卑屈になることなく支配できたのではないかと思います。
ところで、今回の調査団の総隊長を務める加藤晋平氏は、1990~91年にもチンギスハンの陵墓を探る調査に参加しています。加藤氏は、中国の史書などの記述から、チンギスハンが埋葬された場所は、モンゴル東部を流れるヘルレン川流域であるとみていましたが、今回霊廟が発見された「アウラガ遺跡」もまさにその地域に位置しています。調査団は、アウラガ遺跡から半径12kmの範囲内に陵墓があるとみて、さらに調査を続けるとのことです。世界史上の大きな謎が一つ解ける日も近いのかもしれません。
チンギスハンの墓にどんなものが埋められているのか、もちろん興味は尽きませんが、ただ、場所さえ判明したら、下手に発掘などせず、そっと眠らせておいてほしいような気もしますね。
杉山正明先生によるとチンギス・ハンの「ハン」は正確には“カン”と発音し、意味も“皇帝”ではなく遊牧民の“君長”“君主”の意味であると、『集史』などのペルシア語の文献やパスパ文字の表記から主張されていますが…この点についてはどうお考えですか?
「ハン」の発音については、本を読むと研究者によって「ハン」だったり「カン」だったり「ハーン」だったりいろいろですね。アルファベットのスペルだと“khan”でしたっけ? より原語に近い発音というならば「カン」がいいのかもしれません。
ハンの本来の意味はおっしゃるとおりだと思います。「諸部族の長」といったような意味ですね。
世界史上には様々な「帝国」があって、その君主の呼び名も様々ですが、そのどれもがさしあたっては「皇帝」と呼び習わしていいんじゃないかと思っています。一般的に「モンゴル帝国」と呼ばれている以上、君主の呼び名「ハン」は「皇帝」ととらえてもいいと思いますが、「ハン(皇帝)」と記すのは正確さを欠きました。ご指摘ありがとうございました。
“モンゴル皇帝”の称号ならば「カアン」だと思います。この称号は多分、二代のオゴデイから使用されはじめたと記憶しているのですが‥『集史』においても「カン」と「カアン」はっきりと使い分けされてるようですし、漢文史料においても例があります。特に、クビライ以降はすべて「カアン」であると思いますが…
さらに、明確に世界征服の意図が明確なのはモンケであって、チンギスにはあまりその意図が感じられません。やはり、チンギスを“皇帝”とするのはいささか無理があるような気がします。
難しいことは分からなかったのですが、とても神秘的な方ってことは分かりました。
私は「モンゴルに住んでみたい」と小さい頃から言っていたそうです。何故「モンゴル」を知ったかはお母さんも分からないとのことですが・・・
「自分の体を自然に還す。」この考え方に私は共感しました。私のクラスの先生は、世界のいろんな国を旅して歴史の先生になったそうですが、「モンゴル」この国だけはとてもシンプル、だけどどこか深いものを感じたそうです。
このことを聞いた時、この蒙古、「モンゴル」を治めた方のことをもっと知りたくなり、このページに辿りつきました。
・・・
いつか、魅惑の国「モンゴル」に住んで、カメラマンという夢を叶えたいです。
文は苦手なので、変な箇所もあると思うのですが・・許してくださいねっっ
コメントありがとうございました。
それほどモンゴルに思い入れがあるというのは、もしかして前世はモンゴル人だったのかもしれませんね。
私は行ったことがありませんが、地平線の見える大草原に立ってみたいものです。
いい写真がとれそうですよね。自然だけでなく、人もいい顔していそうです。
またお立ち寄りください。
良かったらご参加ください。http://mongolkhun.ning.com/
チンギスハンの墓は本当に四川省に?地元当局は「聞いていない」―四川省