モンゴルと聞いて思い浮かべる人物…といえば、かつてはチンギス・ハーン(ジンギス・カーン)で決まりでした。しかし、今や多くの日本人は、チンギス・ハーンより朝青龍の名を挙げることでしょう。
相撲は確かに超一流でした。だけど、それ以外の部分では…。ヒールを「演じている」というより、もともとそういう性質なのかもしれないなと思う。それにしても、朝青龍一人のせいで、モンゴルという国に対する日本人のイメージが変わってしまったとしたら…。ちょっとこわい話ですよね。
朝青龍のことはさておいて、江戸東京博物館で開催されている「チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展」を見てきました。
チンギス・ハーンがモンゴル高原の諸部族を統一して、「モンゴル帝国」を樹立したのは1206年のことですが、むろんそれ以前にもモンゴルには「歴史」があります。今回の展示も、チンギス・ハーン以前と以後、大きく2つのパートに分かれていました。
1 戦国時代のモンゴル
東胡(とうこ)、匈奴(きょうど)、鮮卑(せんぴ)、突厥(とっけつ)、契丹(きったん)といった、紀元前5世紀から12世紀にかけて、モンゴル高原に興亡した諸部族の遊牧騎馬国家をたどる展示。契丹が建国した遼の「黄金のマスク」、匈奴の「鷹形金冠飾り」などを見ていると、彼らにとって金がいかに「権威のシンボル」であったかということが感じ取れます。また、青銅製の羊、鹿、ラクダ、馬などの文様は、彼らの生活がいかに動物たちと密接に結びついていたかを表していました。

それにしても、匈奴、鮮卑、突厥といった部族の名前が懐かしい…。世界史の授業をしていた頃、騎馬の技術を伝えたくて、ダンボールで馬の顔を、馬を操るための「くつわ」を針金で自作して、その原理を説明していたことを思い出します。遊牧騎馬民族の生活、私たち定住民族には計り知れない苦労があるのだと思うし、だからこそ、優れた技術も生まれたのです。
2 一代の天驕(てんぎょう)~モンゴル帝国の勃興
ここからがモンゴル帝国の時代。モンゴル帝国の始祖、チンギス・ハーンが使ったと伝えられる「伝チンギス・ハーンの鞍」はともかくとしても、強大な軍事力を背景に、遠くはヨーロッパ、小アジアまで馬を馳せて築きあげられたモンゴル帝国。その中心にあったのは、中国を支配した元でした。
モンゴル人は、中国の漢民族を支配するにあたって、徹底した差別策をとりました。それが結果的に元の滅亡を早める原因ともなるのですが、それでも、中国文化からの影響は避けがたかったようです。元を建国したフビライ・ハーン(チンギス・ハーンの孫)は、チベット仏教を奉じていましたが、元の時代に作られた仏像(「銅鍍金菩薩座像(どうときんぼさつざぞう)」など)は、チベットのようなハデハデ感はなく、むしろ中国風の穏やかな表情を浮かべているのが印象的でした。「三彩香炉」などにも、中国文化の影響がはっきりと見てとれます。

3 明・清時代のモンゴル
元は、14世紀半ばに起こった農民反乱を契機に滅び、モンゴル人はモンゴル高原に追いやられます。中国には、再び漢民族の王朝、明が成立。その後、17世紀には満州族が清を建国します。モンゴル人は、以後中国を支配することはなかったものの、15世紀以降勢力を盛り返して、しばしば明、清を脅かす存在となっていきます。
「龍が彫ってある王座」。背もたれに描かれた龍もすごいけど、それより目が釘付けになったのは、ひじ掛けの部分。鹿の角そのまんまってところがモンゴル的。それにしても、デカイ角だ。鹿の角、ある意味で強さの象徴ですね。

真っ赤な毛で飾られた「ルビー装飾の親王の帽子」がやけにご婦人方の注目を集めていました。それもそのはず、真ん中にあしらわれた「ルビー」は、今回日本に来てから調査した結果、ホンモノのルビーであることが判明したのだとか。こんなに大きなルビーがあるものなのか。さすがモンゴルのスケールはケタが違います。
朝日新聞社の「地域からの世界史」シリーズの『内陸アジア』(間野英二他著、1992年)では、モンゴル高原を含む内陸アジアの歴史を、遊牧民とオアシス定住民の「共生・共存関係」ととらえています。家畜を引き連れて季節によって移動生活を送る遊牧民と、豊かなオアシスで農耕を営むオアシス定住民の関係って、遊牧民が、その最大の「武器」である騎馬を駆使して、しばしばオアシスを襲う…という図式がすぐに思い浮かびます。しかし、両者の関係は、そうした征服─被征服、支配─被支配という関係だけではなかったということです。
もっとも注目すべきは、遊牧民の軍事力と機動力、それにオアシス定住民の経済力と先進的文化という、両者の特徴にみえるきわだった相違が、両者の間に、たがいの長所を利用し、たがいの短所を補い合う相互補完的な「共生・共存関係」をつねに成立させていたという点である。
両者の関係がスムーズに保たれたとき、内陸アジアには強大なエネルギーが生まれ、強力な国家が成立する。しかしその関係に支障が生じたとき、内陸アジアは弱体化し、外部勢力による後略の的となる、とみるのである。
ふぅ~む!
この関係って、人間関係にも同じことが言えますよね。関係がうまくいっているときにはいい仕事ができるし、新しいパワーも生まれる。ところが、関係がややこしくなってくると、途端にエネルギーが低下して、マイナス効果だけが残る…。
モンゴル人があれだけの広大な国を作ることができたのは、圧倒的な軍事力だけによるものではない。オアシス定住民の経済力とシルクロード(オアシスの道)を通してもたらされた多様な文化があってこそだったのです。
しかし、モンゴル帝国崩壊後、遊牧民は「周辺の定住社会に対する軍事的優越性を徐々に喪失」していきました。その原因は、大砲や鉄砲などの火器の出現でした。また、オアシス定住民は、西アジアのイスラム諸国と同じように、「ヨーロッパ文化に対する見下した低い評価」をしていたがために、「文化的停滞」を迎えます。お互いに高いレベルで「共生・共存関係」にあった両者が、それぞれ相対的な力を失ってしまったがために、内陸アジアを再び歴史の表舞台に立たせることができなくなってしまったのです。

ミュージアムショップで買い求めたゲル(モンゴル人の移動式住居)の形をしたキーホルダー。羊の皮の柔らかい感触は、今も昔も同じようにモンゴル高原を吹き抜ける乾いた風を思い起こさせてくれるかのようです。
相撲は確かに超一流でした。だけど、それ以外の部分では…。ヒールを「演じている」というより、もともとそういう性質なのかもしれないなと思う。それにしても、朝青龍一人のせいで、モンゴルという国に対する日本人のイメージが変わってしまったとしたら…。ちょっとこわい話ですよね。
朝青龍のことはさておいて、江戸東京博物館で開催されている「チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展」を見てきました。
チンギス・ハーンがモンゴル高原の諸部族を統一して、「モンゴル帝国」を樹立したのは1206年のことですが、むろんそれ以前にもモンゴルには「歴史」があります。今回の展示も、チンギス・ハーン以前と以後、大きく2つのパートに分かれていました。
1 戦国時代のモンゴル
東胡(とうこ)、匈奴(きょうど)、鮮卑(せんぴ)、突厥(とっけつ)、契丹(きったん)といった、紀元前5世紀から12世紀にかけて、モンゴル高原に興亡した諸部族の遊牧騎馬国家をたどる展示。契丹が建国した遼の「黄金のマスク」、匈奴の「鷹形金冠飾り」などを見ていると、彼らにとって金がいかに「権威のシンボル」であったかということが感じ取れます。また、青銅製の羊、鹿、ラクダ、馬などの文様は、彼らの生活がいかに動物たちと密接に結びついていたかを表していました。


それにしても、匈奴、鮮卑、突厥といった部族の名前が懐かしい…。世界史の授業をしていた頃、騎馬の技術を伝えたくて、ダンボールで馬の顔を、馬を操るための「くつわ」を針金で自作して、その原理を説明していたことを思い出します。遊牧騎馬民族の生活、私たち定住民族には計り知れない苦労があるのだと思うし、だからこそ、優れた技術も生まれたのです。
2 一代の天驕(てんぎょう)~モンゴル帝国の勃興
ここからがモンゴル帝国の時代。モンゴル帝国の始祖、チンギス・ハーンが使ったと伝えられる「伝チンギス・ハーンの鞍」はともかくとしても、強大な軍事力を背景に、遠くはヨーロッパ、小アジアまで馬を馳せて築きあげられたモンゴル帝国。その中心にあったのは、中国を支配した元でした。
モンゴル人は、中国の漢民族を支配するにあたって、徹底した差別策をとりました。それが結果的に元の滅亡を早める原因ともなるのですが、それでも、中国文化からの影響は避けがたかったようです。元を建国したフビライ・ハーン(チンギス・ハーンの孫)は、チベット仏教を奉じていましたが、元の時代に作られた仏像(「銅鍍金菩薩座像(どうときんぼさつざぞう)」など)は、チベットのようなハデハデ感はなく、むしろ中国風の穏やかな表情を浮かべているのが印象的でした。「三彩香炉」などにも、中国文化の影響がはっきりと見てとれます。

3 明・清時代のモンゴル
元は、14世紀半ばに起こった農民反乱を契機に滅び、モンゴル人はモンゴル高原に追いやられます。中国には、再び漢民族の王朝、明が成立。その後、17世紀には満州族が清を建国します。モンゴル人は、以後中国を支配することはなかったものの、15世紀以降勢力を盛り返して、しばしば明、清を脅かす存在となっていきます。
「龍が彫ってある王座」。背もたれに描かれた龍もすごいけど、それより目が釘付けになったのは、ひじ掛けの部分。鹿の角そのまんまってところがモンゴル的。それにしても、デカイ角だ。鹿の角、ある意味で強さの象徴ですね。

真っ赤な毛で飾られた「ルビー装飾の親王の帽子」がやけにご婦人方の注目を集めていました。それもそのはず、真ん中にあしらわれた「ルビー」は、今回日本に来てから調査した結果、ホンモノのルビーであることが判明したのだとか。こんなに大きなルビーがあるものなのか。さすがモンゴルのスケールはケタが違います。
朝日新聞社の「地域からの世界史」シリーズの『内陸アジア』(間野英二他著、1992年)では、モンゴル高原を含む内陸アジアの歴史を、遊牧民とオアシス定住民の「共生・共存関係」ととらえています。家畜を引き連れて季節によって移動生活を送る遊牧民と、豊かなオアシスで農耕を営むオアシス定住民の関係って、遊牧民が、その最大の「武器」である騎馬を駆使して、しばしばオアシスを襲う…という図式がすぐに思い浮かびます。しかし、両者の関係は、そうした征服─被征服、支配─被支配という関係だけではなかったということです。
もっとも注目すべきは、遊牧民の軍事力と機動力、それにオアシス定住民の経済力と先進的文化という、両者の特徴にみえるきわだった相違が、両者の間に、たがいの長所を利用し、たがいの短所を補い合う相互補完的な「共生・共存関係」をつねに成立させていたという点である。
両者の関係がスムーズに保たれたとき、内陸アジアには強大なエネルギーが生まれ、強力な国家が成立する。しかしその関係に支障が生じたとき、内陸アジアは弱体化し、外部勢力による後略の的となる、とみるのである。
ふぅ~む!
この関係って、人間関係にも同じことが言えますよね。関係がうまくいっているときにはいい仕事ができるし、新しいパワーも生まれる。ところが、関係がややこしくなってくると、途端にエネルギーが低下して、マイナス効果だけが残る…。
モンゴル人があれだけの広大な国を作ることができたのは、圧倒的な軍事力だけによるものではない。オアシス定住民の経済力とシルクロード(オアシスの道)を通してもたらされた多様な文化があってこそだったのです。
しかし、モンゴル帝国崩壊後、遊牧民は「周辺の定住社会に対する軍事的優越性を徐々に喪失」していきました。その原因は、大砲や鉄砲などの火器の出現でした。また、オアシス定住民は、西アジアのイスラム諸国と同じように、「ヨーロッパ文化に対する見下した低い評価」をしていたがために、「文化的停滞」を迎えます。お互いに高いレベルで「共生・共存関係」にあった両者が、それぞれ相対的な力を失ってしまったがために、内陸アジアを再び歴史の表舞台に立たせることができなくなってしまったのです。

ミュージアムショップで買い求めたゲル(モンゴル人の移動式住居)の形をしたキーホルダー。羊の皮の柔らかい感触は、今も昔も同じようにモンゴル高原を吹き抜ける乾いた風を思い起こさせてくれるかのようです。