カクレマショウ

やっぴBLOG

見慣れた風景でも。

2010-06-17 | ■その他
毎日の通勤の際に見る風景。朝日に光る田んぼだったり、遠くにかすむ八甲田の山並みだったり、よく手入れされた庭だったり、大きなリュックを背負った中学生だったり、デパートの看板だったり、道端に捨てられたタバコの吸い殻だったり、いろいろな風景を毎日見ています。それは「見慣れた風景」。

でも、「見慣れた風景」って、実はちゃんと見ていなかったりしますよね。自転車に乗りながら考えごとをしている時にはぼんやりとしか見ていないし(それは「見ている」とさえ言えないかもしれない)、八甲田の雪形もずいぶん少なくなったなあと思いながら、どんな形だったのかすぐに忘れてしまう。じっくり景色を眺めるなんて、最近あまりしていない。

いつも見ている風景を、別の角度から見てみると、ものすごく新鮮に思えることがあります。昔、初めてカヌーを体験した時の驚きは今でも忘れません。水の上、数十㎝からの視点というのは、見える景色が全く違っていました。見慣れた風景をじっくり見ることになるのはそんな時です。別のアングルで見て得た感動をそのままで、改めていつもの視点から見てみると、そっちの方も光の塩梅が心なしか変わって見えます。

こう考えてみると、風景というのは、同じように見えて、実は見る人によって、あるいは見る時の心象によって、ずいぶん違うんだなあと思う。一人として自分と「同じ風景」を見ている人はいないし、自分の中でも、一時たりとも同じ風景ではあり得ない。風景はそれぞれの心次第でどんなふうにも見える。

『14歳からの哲学』(池田晶子、トランスビュー)で、「思う」と「考える」がどう違うかという項があります。

「自分がそう思う」というだけなら、それが正しいか間違っているかは、まだわからない。(中略)だから人は、自分が思っていることが正しいことなのかどうか、常に「考える」ということをするわけだ。
中にはこう尋ねる人がいるだろうか。でも、たとえば私は花を見て美しいと思うのですけど、私がそう思うのも正しかったり間違ってたりするのでしょうか。花を美しいと思うのが間違っているということもあるのでしょうか。


池田さんは、そういう問いに対して、こんなふうに答える。

そういうふうに「感じる」ことについては、それが正しいかどうかは言えないね。だって、本当にそう感じているのだから。だけど、なぜ(傍点)自分がそう感じるのかを考えてゆくなら、もっと不思議なことに気がつくはずだ。そう、花を美しいと思う時、それは花が美しいのだろうか、それとも自分が美しいと思っているのだろうか。これはどっちが正しいのだろうか。こう考えてゆくと、やっぱり「自分が思う」の正しさについて、考えざるを得なくなるね。

なぜ、自分がそう感じるのかを考える…。見慣れたはずの風景を、実はちゃんと見ていないというのは、「感じる」以前の問題ですが、角度を変えて見た時に心を揺り動かされる、その時に、私たちはもっと「考えてみる」ことも必要かも。感動したから感動したんだもん、でももちろんOK。でも、「なぜ」、「自分」がそんなに感動したのか、たまには考えておきたい。

あわただしい毎日の中で、見過ごしている風景がたくさんあるのは、まあ、仕方がないとしても、時にはそんなふうに、「ぼーっと」、じゃなくて、風景に「没頭」してみることも大切かなあと思います。

『14歳からの哲学』≫Amazon.co.jp

 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿