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カクレマショウ

やっぴBLOG

『レ・ミゼラブル』覚え書き(その21)

2005-12-06 | └『レ・ミゼラブル』
第二部 コゼット
第六編 プティー・ピクプュス(岩波文庫第2巻p.204~p.250)

ジャン・ヴァルジャンとコゼットが逃げ込み、思いもよらないフォーシュルヴァンとの再会を果たしたのは、プティー・ピクプュス修道院でした。

二人がしばらく暮らすことになるだけでなく、コゼット自身が寄宿生として学ぶことにもなるプティー・ピクプュス修道院。第六編は、この修道院の歴史と修道女たちの生活ぶりを克明に描いています。

修道院の中でも最も厳格な規律を持つと言われるベルナール派に属するプティー・ピクプュス修道院の暮らしは、まさに「祈り、働け」。粗食に断食、藁のふとんでのわずかな睡眠、入浴なし、火をたかない、毎週金曜日の苦行、沈黙、そして服従。

彼女らは決して男の祭司の姿を見ない。男の祭司はいつも、七尺の高さに張られてるセルの幕で隠されている。説教の時に、その礼拝堂の中に男の説教師がいる時には、彼女らは面紗(かおぎぬ)を顔の上に引き下げる。それからいつも低い声で話し、目を伏せ頭をたれて歩かなければならない。その修道院の中に自由にはいり得るただ一人の男性は、教区の長の大司教ばかりである。
否そのほかにも一人いる。すなわち庭番である。けれどそれは常に老人であって、また絶えず庭に一人きりでいるために、そして修道女らがそれと知って避けるようにするために、膝に一つの鈴がつけられている。


ジャンとコゼットが逃げ込んだ時の庭番が「フォーシュルヴァンじいさん」だったというのは、いかにも小説らしい偶然ですが、そんなドラマチックな展開が散りばめてあるからこそ『レ・ミゼラブル』はおもしろいのです。

さて、修道院で最も上に立つのが、「声の母」と呼ばれる長老たちです。週に一度、修道女たちは声の母たちの前で懺悔を行います。

各修道女は順次に石の上に行ってひざまずき、その週間のうちに犯した過失や罪を皆の前で高い声で懺悔する。各懺悔の後に声の母たちは相談をして、公然と苦業を課する。

「犯した過失や罪」といったって、私などからすればこんなに厳格な規律の中で生活していたら罪なんて犯しようがないじゃないかと思ってしまうのですが、「行動」に表れる罪というよりは、たぶん「心の中」にひそむ罪の告白をするのではないでしょうか。…煩悩。それなら私なんかは毎日ものすごい「苦業」を課せられてしまうでしょう…。プティー・ピクプュス修道院の修道女たちは、「ごく些細なこと」にも懺悔しなくてはならなかったようです。たとえば、「コップをこわしたこと、面紗を破いたこと、ふと祭式におくれたこと、会堂でちょっと音符をまちがえたこと」…。

修道院には、金持ちの貴族の若い娘たちのための寄宿舎が付属してあり、「それらの若い娘らは、四方を壁に護られて修道女から育てられ、俗世と時勢とを恐れつつ大きくなって」いました。寄宿舎でも、苦業を除いて修道院のすべての規律が守られていましたが、それでも若い娘らしい「おもしろい思い出」もあったらしく、ユゴーは、「快活」、「気晴らし」というタイトルでその楽しいエピソードをいくつか紹介しています。

ユゴーはこの編の最後に、「プティー・ピクプュスの終わり」と題して、ジャンとコゼットの生きた時代を通り越して、この修道院の衰退ぶりをも書き加えています。1840年頃には、「帰依する者は少なくなり、新たにはいって来る者はなくなった」。

「プティー・ピクプュスの終わり」とは、「修道院の終わり」であり、「キリスト教の終わり」であるとユゴーはとらえていたようです。彼はヴォルテールを引き合いに出しながら、19世紀の啓蒙主義によるキリスト教の否定論について、抑えた口調でこう述べています。

19世紀において、宗教的観念は危機を閲している。人はある種のことを学んでいない。けれども、一を学ばずとも他を学びさえするならば、それも別にさしつかえはない。ただ人の心のうちに空虚を存してはいけない。またある種の破壊がなされている。ただ、破壊の後に建設がきさえするならば、それも至極いいことである。

けだし名言です。


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