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『華氏四五一度』(レイ・ブラッドベリ)

2004-10-23 | ■本
「華氏911」ではありません。

レイ・ブラッドベリの『華氏四五一度』。ハヤカワ文庫の帯には、「マイケル・ムーア監督は、本書に敬意を表して「華氏911」をつくった」とあります。ところが、ブラッドベリ氏がマイケル・ムーア氏を非難しているとも伝えられており、タイトルに関しては、マイケル・ムーア監督の一方的な片思いのようです。それにしても、御年83歳ブラッドベリ氏の怒りようはすさまじいらしく、単にタイトルを無断でパクられた、というだけではない何かがあるのかな?

それはともかく、「華氏451度」とは摂氏に換算すると約220度。紙が自然発火する温度なんだそうです。この本は、「本」が禁じられた未来世界を舞台とし、禁書を見つけて焼き捨てることを仕事とする焚書官モンターグが、ふとしたことから本の魅力を知ってしまうという物語です。

焚書と言えば、秦の始皇帝の「焚書・坑儒」やヒトラーの焚書など、歴史的にも多くの事例があります。焚書までもいかなくとも、中世カトリック世界における「禁書」(「薔薇の名前」に描かれていますね)など、要するに、時の権力者が思想統一を図るために、「余計なこと」が文字で記してあるものを読ませなかったということでしょうか。ムーア監督は、「自由が燃える温度」として「華氏911」というタイトルにしたらしいですが、まさに本を焼くという行為は、思想の自由を根こそぎにしてしまう手段だと言えます。

この物語の中でも、モンターグの上司であるビーティ隊長が言っています。

─おれたちの文明社会が、これだけ巨大なものに発達したために、かえって少数派を蠢動さすわけにはいかなくなったのだ。…みんながみんな幸福になりたがるのは当然のことだ。そして、事実、だれもが幸福にくらしている。しかし、それはおれたち焚書の仕事を受け持っているものが、そのようにはからってやっているからなんだぜ。おれたち焚書官は、人類に愉しみをあたえている─

「余計なもの」に感化されて「余計な行動」を起こすことがないように、「余計なもの」が書いてある書物は焼いてしまえというわけです。

モンターグは荒野に生きる「元知識人」たちのもとに逃げ込むのですが、彼らは、文字として記されたものが禁じられるなら、彼ら自身が「本」になることで焚書に抵抗しようとしていました。つまり、自分たちの頭の中に本の内容を暗誦して収めておこうということです。○○町に行くと、ガリバー旅行記の物語を「持つ」人がいる、またある町にはシェークスピアの人がいるといった具合に。こうして人類の知的財産を代々受け継いでいこうというわけです。その箇所を読んだとき、あれ、パーソナルコンピュータはないのかな?と思いました。

『華氏四五一度』が書かれたのは1953年です。ブラッドベリは、テレビやトランジスタラジオの普及に着想を得てこの物語を生み出したとされていますが、その頃はまだ個人レベルでのコンピュータなど思いもよらない時代です。ましてや、インターネットにより情報の収集や発信が簡単にできるようになるなんて想像もつかなかったでしょう。パソコンやインターネットがあれば、そこに「書物」を大量に保存したり共有できますから、「頭の中」に入れておくよりよほど確実だと思うのですが。もしかしたら、焚書官は、紙媒体だけでなく、そのような記録メディアに対しても「焚書」をしたのかもしれませんね。

さて、モンターグの世界には「消防士」というものがいません(家はすべて耐火建築となっていて、火事が起こらないことになっているのです)。というより、消防士の代わりに「焚書官」がいるのです。火事の一報が入ると、消防士が2階の詰所からポールを伝ってするすると降りてきて消防車に飛び乗り現場に急行する、というイメージ(小学生の頃NHK教育テレビ「働くおじさん」かなんかで見てかっくいいーと思ったものでした)は、そのまま焚書官の世界にも使われています。ただし、彼らは水の代わりに石油を撒き、消化ホースの代わりに火炎放射器を持っているのです。

「焚書官」のいでたちを描いた挿絵を見て、「未来世紀ブラジル」を思い出しました…。

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