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いよいよ、ベリーダンスディナーショー始まりです。
最初にコサックダンス。
後ろのダンサーもクルド人のようです。
昨日の朝日新聞に 「クルド人親子21年ぶり再会」 という記事が載っていました。
「ハラブジャの悲劇」
イラン・イラク戦争末期1988年3月16日に、イラク北部ハラブジャで起きたイラク軍によるクルド人への毒ガス(マスタード、サリンなどの混合毒ガス)攻撃。約5,000人が死亡しイラン側へ逃げる混乱の中で多くの親子が離れ離れになったとあります。
そのうちの一組の親子、イラン人に育てられた子供とイラク人の母親とが今回DNA鑑定で確認され再会しました。
日本でも、中国残留孤児の問題がまだ片付いていないようですが、よその国でも同じようなことが起きているのですね。
この数年前に主人もイランに出張していて、ギリシャに避難したのを思い出します。
会社の若い方が、流れ弾に当たり緊急輸送で帰国して、タラップを担架で降りてくる様子がNHKのニュースで流れたりしました。
イラン・イラク戦争在留邦人脱出 (Wikipedia より)
両国の都市爆撃の応酬が続く最中の1985年3月17日、48時間の猶予期限以降にイラン上空を飛ぶ航空機は、無差別に攻撃するとサダム・フセイン大統領が突如宣言した。
宣言後、イランに住む外国人についてはそれぞれが国籍を置く国の航空会社や軍による脱出が急遽計られた。
日本航空の経営陣は救援機を飛ばす覚悟を固めていたとされ、この時操縦に名乗り出た乗員の1人が、5ヵ月後に日航ジャンボ機墜落事故で殉職した海上自衛隊出身の機長・高濱雅巳だった。しかし日本航空チャーター機の派遣も反会社側労働組合の反対で実現しなかった。その間、在イラン日本大使館では手を尽くして救援機を派遣した各国と交渉したものの、いずれの国も自国民救出に手一杯であり、希望者全てを乗せてもらうことは到底かなわなかった。
このあと、日本の企業戦士たちは、トルコのお世話になりイランを脱出することになります。
ガイドの話では、大使の奥様同士が仲良く、女性同士の話が発端となり救援飛行機を出すことになったという事でしたが、Wikipedia には、以下のように記載されています。
トルコ政府の協力
だが、土壇場で個人的な親交に一縷の望みを託した野村豊在イラン日本国特命全権大使がイスメット・ビルセル在イラントルコ特命全権大使に救援を要請したところ、トルコ政府が応じ、トルコ航空の自国民救援のための最終便を2機に増やしてくれたので、215名の日本人がそれに分乗して期限ぎりぎりで危機を脱することができた。
なお、トルコ機は近隣に位置することから陸路での脱出もできる自国民に優先して日本人の救出を計ってくれ、実際この救援機に乗れなかったトルコ人約500名は陸路自動車でイランを脱出した。このようなトルコ政府とトルコ航空の厚情の背景には、1890年(明治23年)日本に親善訪問した帰途、和歌山沖で遭難したフリゲートエルトゥールル号救助に際し日本から受けた恩義に報いるという意識もあったと言われている
フセイン政権同様、自国民の救援に向かわなかったJALも崩壊寸前となるなんて皮肉なものです。
各テーブルには、トルコ国旗と、観光客の国の旗とがセットされています。
腰を器用に振りながら
妖艶なベリーダンスです。
元々は、中近東のダンス。
アラブ独特のリズムとムード
セクシーです。
今日、明日のホテルは、ホリディ・イン・シティ。
街中のビジネスホテルという感じで、フロントも今までのホテルで一番簡素です。